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7.チェンバレン 最後の3日間(発動編)

 1911年に改正された国会法によれば、1935年総選挙から5年経つと下院議員の任期は切れたのですが、1940年から44年まで、11月が近づくたびに国会法の特例として、現在の議員の任期を1年延長する法案が可決されました。おそらくアトリー労働党首や労働党幹部は、戦争に勝つまで総選挙がないだろうことは予想していたでしょう。


 問題は、チェンバレンが一向に挙国一致内閣を組もうと言い出さず、マクドナルド政権の古い同志たちだけで戦争指導をしていて、労働党(1931年から保守党と組んでいた一部を除く)は蚊帳の外であったことです。ですからアトリーたちは挙国一致内閣を作らせることが基本的な目標であったでしょうし、明らかにチェンバレンにはその気がないので、首相候補としてチャーチルを念頭に置いていたでしょう。


 しかし5月7日の審議が始まるまでは、数日のうちにそれが実現するとまでは考えていなかったようです。審議の中でキース元帥やアメリーといった保守党議員も陰に陽にチェンバレン退陣を口にしたことで、ここで不信任案をかけるか? と労働党指導部は考えました。国会は午後から始まるので、8日午前から労働党の幹部たちが集まって話し合い、その結果、本会議冒頭で労働党議員が「審議後に採決をお願いしたい議案がある」と告げました。もう文脈的に不信任案しかありません。


 ここで予定されていた発言順を破って、チェンバレンその人が乱入しました。次いで先月航空大臣になったばかりのサミュエル・ホーアが首相側弁護人として論じました。前日以来すっかり敵対的な気分になっていた一部の保守党議員をますます刺激するような内容も含んでいました。とくにチェンバレンが採決を受けて立つにあたって「私にはこの議場に友人たちがいる」とか「誰が味方で誰が反対者かわかるだろう」とか言ったことは、国家の大計を徒党の力で押し通すように聞こえなくもありませんでした。チェンバレンは性格的なものもあって、与党内の冷めた空気に対して鈍感だったので、ますます急展開に心の準備なく反応することになり、言うべきでないことを言ってしまったのかもしれません。


 次いで発言したロイド=ジョージはまさにその点をとらえ、「恐るべき敵と戦っているこのとき、だれが首相の友人かなどというものではない」と切り返しました。そして「首相は犠牲のことを口にしたが、首相がいま犠牲としてささげるべきものは、自らの首相公印だ」と結びました。


 長い討論が続き、最後の発言者としてチャーチルが指名されました。チャーチルはほとんどの時間を戦況説明に費やし、政府も軍人も批判せず、「このような性急な投票をすること」を批判しました。あくまで最後まで内閣の一員としてふるまったのは、カッコよい印象を与えたでしょう。


 深夜に行われた投票の結果、不信任案は否決されたものの、与党議員の数からみると反対票が少なく、総投票数はそこにいたはずの議員の数よりずいぶん少なくなりました。つまり保守党議員の中に、たくさんの造反者と棄権者がいたという事実が、数値としてチェンバレンたちに突き付けられたのでした。


 9日にもいくらか発言者がありましたが、いずれにせよ不信任案は同一会期中は再議できませんから、盛り上がらず短時間で終わりました。いまや造反者が次の議題でも裏切る可能性を考えれば、1935年には圧倒的であった数の優位はなくなったと考えるべきで、チェンバレンは手遅れながらより大きな連立政権の構想に動きました。しかし協議に応じたアトリーは、おそらく労働党役員会は首班がチェンバレンなら蹴るだろうと言いました。


 そのあとのことは、チャーチルとハリファックス子爵の回想で細部が異なるそうですが、ハリファックスが辞退して、チャーチルが受け入れたので、すべては決しました。


 ところで、ハリファックス子爵のことを書くタイミングがありませんでしたね。四男でしたが兄たちが夭折(ようせつ)し、9才で子爵家の跡取り息子(3代目)になりました。初代は財務大臣などを歴任した政治家で、二代目はカトリックの教義を研究し、ローマと国教会を取り持とうとしてうまくゆかなかった神学者……というより宗教活動家というべきでしょうか。初入閣は1922年、チェンバレンと同じボナー=ロー内閣で、1926年にインド総督を引き受けて男爵になりました。1934年に子爵を継ぎましたが、その前後にボールドウィン内閣でたびたび入閣していました。だからチェンバレンから兄弟弟子のように遇されていたわけですね。ただ自分の旗竿を背負ってケンカをしたことはない人でしたし、この難局に下院議員でない首相が国をまとめるのもしんどい話でした。。


 明けて5月10日。ドイツがベルギーとオランダに攻めかかったと聞き、チェンバレンはすべてを覆して留任しようとしたところ、ウッド王爾尚書にそれは労働党が受け入れないだろうと(さと)されて我に返ったと言われます。バッキンガムにジョージ6世を訪ねて辞職し、後任にチャーチルを選んだ経緯を伝えました。まあ9日に退陣の話がついても、国王にアポなし突撃はできませんから仕方ないですね。国王は気が進まないもののチャーチルに大命を下ろし、チェンバレンは21時からBBC放送ですべてを国民に伝えました。11日の午前3時、だいたいいつも通りに就寝するときには、チャーチルは粗々に戦時内閣のメンバーをはじめとする主要閣僚に話をつけていました。


 ロイド=ジョージの吉例にならったのか、チャーチルはこの時点では、戦時内閣を5人にとどめました。チェンバレンは実権のない枢密院議長、ハリファックス子爵はそのまま外務大臣。労働党首アトリーは王爾尚書、労働党首代理のグリーンウッドは無任所大臣。ハリファックス子爵を除けば首相顧問団のような戦時内閣でした。チェンバレンはまだ保守党首でしたから、下院の安定のためには処遇しないわけにもいかず、実権のあるポストにつけるのは労働党が嫌がったので、こんなバランスになりました。


 すでに述べたように、チャーチルはつい先週、軍事調整常設閣僚委員会に首相たるチェンバレンが自分で出てリソースの切り盛りを決めろと言ったばかりでした。チャーチルは国防大臣( 国防担当閣外大臣とも、minister of defence)を創設しました。国防大臣の職掌は定義されず、そのスタッフは内閣官房の少数のスタッフが兼任しました。少なくとも戦時には、結局首相がやるしかない調整を国防大臣が担うのだから……というわけでチャーチルが兼任しました。


 軍事調整常設閣僚委員会は防衛委員会(作戦)というちょっとだけ短い名前になって、三軍参謀総長、三軍担当大臣、外務大臣、副首相格のアトリー、チャーチル自身に加えて、必要なら他の大臣などが呼ばれました。丁寧にほぼチェンバレンのみ外しているような気もしますが気のせいですかそうですか。


 そういうわけで毎日、遅起きのチャーチルがまだベッドの上で書類を片づけている間に三軍参謀総長だけの会議が始まり、チャーチルは内閣官房のスタッフから様子を聞いたり、ベッドルームに伺候(しこう)した内閣官房スタッフにメモなどを渡したりして連絡を取り合いました。映画では毎日国王と昼食を共にするような話になっていましたが、そうとも限らず、いろいろな顔ぶれのワーキングランチを済ませると、午後から防衛委員会(作戦)やら戦時内閣の閣議やらが待っていました。


 だからまず三軍の担当大臣たち(陸軍大臣、海軍大臣、航空大臣)の顔ぶれが問題になってきますが、次回はそのあたりから(つづ)りたいと思います。



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