6.チェンバレン 最後の3日間(接触編)
ロイド=ジョージは5人でしたが、チェンバレンの戦時内閣は9人でした。三軍の担当大臣だけで3人いるわけで、ロイド=ジョージが5人で回していたほうが無茶というべきでしょうね。
ホー=ベリシャの前任で、1937年までボールドウィン内閣で陸軍大臣をしていた保守党のダフ・クーパーは陸軍中尉でした。小隊長や偵察隊長として、積極的な行動でドイツ陣地を分捕り、中隊の前進を助けたのでDSO(殊功勲章)を受けました。もともと外交官で、そのため軍役を免除されていたのが1917年に解除され、大戦後半を陸軍で過ごしたのでした。
この人なら将官たちにも一目置かれ、将官たちへの態度にも一定の礼儀があって陸軍大臣として申し分なかったでしょうが、ボールドウィンやチェンバレンの基本方針は一に空軍、二に海軍、三四がなくて五に陸軍でしたから、予算獲得力のある外交官上がりの陸軍大臣はうれしくなかったのでしょう。だからチェンバレンは合理的な解決策を見つけました。クーパーを海軍大臣にしたのです。
クーパーはミュンヘン会議の結果に憤激したひとりで、大戦を待たず辞職してしまいました。大戦が始まるとシンガポール駐在の弁理公使(Minister-Resident、閣僚級の在外高官)に任じられ、そこでは結果が出せませんでしたが、ド・ゴールに対するチャーチルの連絡役として難しい役目を果たし、そのまま駐仏イギリス大使として終戦を迎えました。
ホー=ベリシャは1939年11月、大陸派遣軍司令官のゴート大将(当時)を不当に批判するPillbox affairと呼ばれる事件を起こしました。きちんと説明するのは面倒な事件なので、細部をごまかしてある記事が多く、ここで解説しておくことにしましょう。この1939年11月というのは、「ダイレ計画=プランD、ブレダオプションつき」がすっかり固まった時期でもありました。つまりドイツがベルギーに侵入したら、フランスの最も有力な予備である第7軍がアントワープ(を囲むダイレ川防衛線)を超えてオランダのブレダに進み、アントワープ港に続く細長い湾をしっかり確保するという作戦計画です。
これに従って、今まで一番海岸寄りのベルギー国境にいたイギリス大陸派遣軍が少し内陸に入り、空いたすき間をフランス第7軍が埋めました。だからドイツ方向に向いたイギリス軍から見ると、自分たちが右へずれたので、それまで左に作っていた陣地はフランス軍に渡し、自分の陣地はイギリスの火砲に合わせてあらためてコンクリートの練り直し……という羽目になりました。
そのあたりの事情を説明されていないはずがないのですが、よくわかっていなかったホー=ベリシャは現地で固定陣地があまり出来上がっていないのを見て、「開戦からずいぶん経つのにゴートは仕事をしていない」と勘違いをして、チェンバレン首相に報告を上げてしまいました。チェンバレンはゴートに申し開きを求めましたから、「わかっていないのに指図はする」ホー=ベリシャへの不満がゴートのみならず、多くの陸軍軍人たちから吹き出してしまいました。ゴートの参謀長パウナル中将は国王ジョージ6世に事情を訴える機会を得ました。12月になるとまずジョージ6世が、次いでチェンバレンが現場を訪れ、ゴートの采配に問題がないこと、しかし不和が多くの方面に及び根深いことを確認しました。チェンバレンはこれを踏まえてホー=ベリシャの言い分を聞きましたが、解任やむなしという結論になったのが1940年1月でした。後任者については、チャーチル内閣の話とまとめてしまおうと思います。
開戦時の航空大臣はウッドでした。チェンバレン保健大臣の政務次官を長いこと勤め、チェンバレンの側近でしたが、1938年から「一に空軍」の拡張を手掛けてきたウッドは体調を崩していて、1940年4月5日に王爾尚書(これもイギリスの実質的な無任所大臣のひとつ)のサミュエル・ホーアと役職を入れ替えました。ホーアは下院議員を長く務めた准男爵(閣僚経験なし)の長男で、若いころから政治にかかわっており、戦時ではありませんが航空大臣も海軍大臣も経験していました。ある意味で保守本流の人であり、飛び出して戻ってきたチャーチルがあまり好きではなかったようです。
じつは4月の内閣改造は3重の措置でした。まずホーアとウッドの入れ替わり(5日)。防衛統括大臣を廃止。そして4月末以後の軍事調整常設閣僚委員会(三軍担当大臣と軍需大臣の委員会で、国家防衛委員会を継承する)は三軍担当大臣の最先任者となったチャーチル海軍大臣が議長となる。これがワンセットでした。ただしチャトフィールドはチェンバレンから辞職を求められたものの、次の職をめぐって折り合わないまま5月10日を迎えたため、「チェンバレンから求められて辞職には合意したけど正式な辞表を出さないまま内閣総辞職」となったようです。
ホーアとウッドの入れ替わりを除き、一連の動きはノルウェー方面の戦局を背景にしているものと思います。イギリス軍の2個旅団が中部ノルウェー(トロンヘイムの北と南)に上陸しましたが、占領したデンマークの航空基地や応急改造したMe110D-0戦闘機を活用するドイツ軍に対抗できず、4月下旬には敗勢濃厚でした。ドイツ軍の三軍連携もグダグダだったのですが、イギリスの海上優勢でノルウェーへのドイツ軍侵攻は不可能と断じていたため、イギリスはそれ以上に三軍で連携する体制づくりが間に合わなかったのです。そこをチャーチルの腕力で何とかしろと丸投げする措置でした。しかし陸空軍に対する指導権があるわけではなく、1週間ほどでそれを痛感したチャーチルはチェンバレンに、お前が委員会に出ろと談じ込みました。チェンバレンは「将来は」と逃げを打ちました。
そんな状態で迎えたのが5月7日の下院でした。チェンバレンはあからさまにチャーチルを弾除けに使っていましたが、逆に言えば辞める気なんかなかったのです。すでにトロンヘイム周辺からイギリス軍は退き、ノルウェー軍は4月19日に降伏し、北のナルヴィク周辺でだけ戦いが続いていました。1991年の湾岸戦争でもしばらくアメリカ軍が戦況について公表しない「ブラックアウト」の時期がありましたが、トロンヘイム方面からの撤収作戦が続いている間、チェンバレンは労働党首アトリーからの審議の求めを保留していました。そういうわけで5月7日になって、最近の戦争指導を総括する下院の集中審議が行われたわけです。
まだドイツがノルウェーやデンマークに仕掛けていなかった1940年4月4日、保守党の集会でチェンバレンは、準備のできていなかった危険な時期は、ヒトラーからの攻撃がないまま過ぎ去りつつあると述べ、ドイツの事情はわからないが'Hitler missed the bus(ヒトラーはバスに乗り遅れた)'と述べました。ヒトラーから見ればチャンスだったのに奴はそれを逃したんだぜ……というわけです。5月7日はチェンバレンの説明から始まりましたが、議場のヤジが「Hitler missed the bus」と何度も煽ったので、チェンバレンももっと早い段階でのドイツのベルギー侵攻を予想していたこと、それがないので安心してしまったことに触れました。
イギリス下院の議事ルールでは、政府側の院内幹事が「that this House do now adjourn」と宣言して始めた議事は「質疑応答」であって、どんな話題を持ち出してもよいが、何の採決も求めてはならないことになっていました。アトリーの代表質問はこのルールを踏まえて、「内閣は批判するが不信任案は出さない」「チャーチルは内閣の一員だが、チャーチル批判は意図的に避ける(軍事調整常設閣僚委員会での最近の役割強化は、戦争指導全般と海軍大臣の職責をひとりにやらせるもので良くない)」「過去にさかのぼるチェンバレンの楽観論を批判し、与党議員にも党議拘束をはねのける、個人としての(首相交代の)判断を求める」といった内容になりました。
「Norway Debate」というWikipediaの項目は読みごたえがあります。色々な人が初日に発言しましたが、「軍人批判とチャーチル批判を避けつつ、もっと積極的で攻撃的で、過去の優柔不断に責任がない指導者を求める」というラインに沿った発言がいくつもありました。この時点で、「落としどころとしてのチャーチル首相登板」がいろいろな人の頭に浮かんでいたことがうかがえます。
キース海軍元帥(下院議員)は勲章を並べた軍服姿で議場に現れ、海軍とノルウェー軍の健闘をたたえて(実際、キースが言及したように、ナルヴィクでZ級駆逐艦10隻を沈めたことは疑いなくイギリス海軍の戦果でした)、もし海軍の戦う男たちが「 more courageously and offensively employed」であれば、今日の困難はこれほどではなかったろうと述べて、喝采の中で発言を終えました。終えるともう19時半でした。
ずっと発言したがっていたレオ・アメリーが議事進行役から指名されたときには20時を過ぎていました。席を立って夕食に行った議員が多く、当のチェンバレンもいませんでした。
アメリーはチェンバレンより4歳下ですから、相当なベテラン議員です。1920年代には閣僚を歴任しましたが、1930年代になると下院議員のまま様々な企業で取締役などを務めました。だからドイツのことも、ドイツに圧力を受けた国々の要人もよく知っていて、ドイツに対する妥協的な政策には早くから反対していました。アメリーの演説は30分続き、だんだん夕食から議員たちが戻ってきて喝采をふくらませ、この日の演説の中では強い印象を与えました。最後にアメリーは、チェンバレンはもはや退陣すべきだと強く示唆しました。チェンバレンも戻ってきて最後のほうだけ聞いたと言われますが、確実ではないようです。
この日の発言者は23時30分までまだまだ続きました。じつはキースもアメリーも保守党議員であったことが、この日の重要なポイントであったのですが、それは次の日へと続きます。