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5.戦前期の終わり


 ヒトラー政権が誕生したとき、首相はまだマクドナルド、保守党首もまだボールドウィンでした。


 その少し前、まだドイツの首相がパーペンだった1932年11月10日、ボールドウィンは下院で演説しましたが、そのキーワード「The bomber will always get through」は有名になりました。


 ミリタリ関係の皆様には、「あっこれ戦闘機無用論の系譜じゃね?」とお気づきの方も多いでしょう。戦闘機に比べて爆撃機の高速化が進み、戦闘機では爆撃機が止められない未来が来るんじゃないかと予測された時期があったのです。まあその通りなのですが、戦闘機による防空も含めて、空からの本土攻撃を第一に警戒しなければいけない……というイギリス政府首脳の見方は、このころに固まり、大戦まで受け継がれました。そしてこれは、ジュネーブで延々と続いていた陸の軍縮協定交渉が、どうやら実質的に成果なく終わりそうだという見通しを踏まえてのものでした。1933年1月にヒトラー政権が成立し、ドイツが脅威として現実化すると、その備えが必要であることは争えないとして、一に空軍、二に海軍、三四がなくて五に陸軍という、イギリス軍備再拡張にあたっての優先順位がそっと共有されていきました。


 ここで、ずっと以前からあるイギリス独特の機構に触れておきましょう。イギリス陸軍では諸事情により、参謀本部の設置は1909年まで遅れました。しかし近代総力戦を戦うもうひとつの仕組みが、第2次ボーア戦争のグダグダさの反省として1902年から非公式に、1904年から制度化されて発足しました。国家防衛委員会(Committee of Imperial Defence)です。


 純軍事的でない事柄について制服軍人が意見を言うことは、良し悪しです。例えばドイツのヴィルヘルム2世(まだ王子)と親しかったヴァルダーゼー参謀次長(当時)が外交に口をはさんで、ビスマルクからシメられた事件がありました。渡部昇一先生の『ドイツ参謀本部』にもチラッとヴァルダーゼーの帷幄上奏権濫用について触れてあったのをご記憶の方もおられるでしょう。しかし補給、生産、輸送といった事柄には非軍事的な側面があり、平時からそうしたことについて軍人の意見を聞いておかないと、有事のボトルネックになってしまうのでした。陸海軍参謀総長と首相や首相の選んだ要人が、非軍事的なことも含めて話し合うのがこの委員会の基本的な機能であり、あわせて首相が軍人や閣僚・政治家を指名して小委員会を作らせ、平時からいろいろなことを検討しておくようになりました。


 首相が誰であろうと、このシステムは常時動いており、チェンバレンもチャーチルも戦争になるとその蓄積を利用しました。もちろん国防関係の任についていない場合も、この委員会や小委員会に呼ばれて議論に加わることはあったのですが。


 1935年の選挙を経て、挙国内閣の枠組みは変わらないまま、首相はボールドウィンに交代しました。チェンバレンは引き続き財務大臣を務め、政権の番頭としてヒトラー対策の再軍備を指導しました。


 1936年春、国家防衛委員会を担当する防衛統括大臣(Minister for Co-ordination of Defence)が置かれ、初代は法務系政治家のインスキップ卿でした。陸軍大臣、海軍大臣、航空大臣、弾薬大臣を歴任したチャーチルは指名されませんでした。しかしその反面、「調整責任」があるだけで言うことを聞かせたり資源配分を変えたりする権限がないので、1939年に後任となったチャトフィールドも含めて、首相と一緒に困ってあげることくらいしかできませんでした。まあ、決めた責任者はまだボールドウィンでした。


 1937年、ジョージ6世の即位を見届けたボールドウィンが引退しました。有名なシンプソン夫人との恋です。離婚歴のある女性とエドワード8世が結婚しようとしたので、結婚するなら退位しろとボールドウィンが突っ張ったのです。この過程で、交際そのものを政府が止めてくれれば国王交代はなかったのですが、「好きになったこと自体は仕方がないね」という態度をとった人々の中にチャーチルがいたのです。映画『英国王のスピーチ』に取り上げられたように、ジョージ6世は皇太弟ではあっても、人前で話すのが苦手なので即位したくありませんでした。だからチャーチルとは一緒に政治がしたくなかったわけですね。


 それはともかく、とうとう68才のチェンバレン番頭がお(たな)を譲られる日が来ました。いよいよドイツやイタリアの行動は怪しくなっていました。チャーチルはまだ登用されず、マールボロ公爵伝の第4巻を書いていました。


 チェンバレン内閣の与党には、1931年の挙国一致内閣から協力を続けている自由党議員たちがいました。その中心人物であるサイモン卿は財務大臣として遇され、ホー=ベリシャが陸軍大臣となりました。第1次大戦がはじまるとキッチナー元帥が陸軍大臣になったように、海軍と違って、陸軍大臣はしばしば高位の軍人でした。党利党略で、政治的な貫目が軽く陸軍のことをよく知らない陸軍大臣が誕生し、新聞の軍事解説者として知られていたリデル=ハート(二重姓)退役大尉を非公式なコンサルタントとしたことで、高位の陸軍軍人たちからは微妙がられました。大戦が始まってからこの忌避は表面化しましたが、そのことは次回に触れましょう。


 1938年9月のミュンヘン会談には、チャーチル内閣への連続性を考えると大切な前触れがありました。1938年2月、ボールドウィン内閣から引き継いだ閣僚に交じって若手成長株だったイーデン外務大臣が、さんざんエチオピアなどについて批判してきたムッソリーニをヒトラーへの外交チャンネルとして使おうとしているチェンバレンに反発し、辞職したのです。これに関連して、近しい人々はとうに気づいていた、チェンバレンの人使いの下手さといったことが話題にのぼるようになりました。しかしイーデンも、反チェンバレン勢力の核になれるほど、長年信頼を培ってきたチェンバレンへの逆風は強くありませんでした。そして早くも1939年9月、ドイツと開戦したチェンバレンはイーデンを(戦時内閣には含まれない)イギリス連邦諸国担当大臣として迎えました。チャーチル内閣での処遇についてはのちに述べる機会があるでしょう。


 なお、官僚たちはセンセイから「あっ、いたの」的に扱われるのに慣れているのか、理解が早いセンセイがやっぱり一番ありがたいのか、チェンバレンを支持しました。


 ミュンヘン会議は後から極端な形で描写されることが多くなりましたが、当時から妥協に反対する人々がおり、その一方で戦争回避を心から喜んだ人がおり、後者の一部は何週間かすると後悔を始めました。1939年3月にヒトラーが残りのチェコスロバキアを併合すると、戦争が回避できると思う人はどちらにせよ少なくなりましたから、ますます1938年9月の実相を後からイメージするのは難しくなっています。英仏独伊の指導者が司会者もない言い合いを午前1時まで続けて、出てきた結論をチェコスロバキアに呑ませた会談でした。もちろんドイツ人も戦争が回避されてほっとした人が多かったわけで、翌日に市内観光に出た英仏首脳の車は市民から歓迎されました。


 この国論紛糾の中で、大事な動きがありました。チャーチルがあれほど嫌った労働党でしたが、このころまでは戦争を忌避する姿勢でした。ところがチェンバレン批判をしているうち、党の主張が戦争も辞さずというものに変わってきたのです。つまり労働党の側が、チャーチルとも組める存在になりました。そしてチェンバレンの冷淡な人あしらいの最大の被害者は、野党たる労働党でしたから、チェンバレンが嫌いでチャーチルを呑める労働党が、1940年5月にイギリスの流れを変えることになりました。


 ようやく開戦時の話になります。モーリス・ハンキーはイギリス海兵隊で砲兵大尉だったころ、チャーチルとの関連で前に出てきたフィッシャー提督が頭の良さを認めて「国家防衛委員会に採れ」と手紙を送って、それ以来国家防衛委員会だけでなく、ロイド=ジョージの戦時内閣も切り回し、大戦が終わっても内閣官房長を新設して歴代首相に仕えてもらったという一代の傑物でした。会議は言い合っただけでは何も生まれません。議事録を作ったり原案を起案したり、コトバをカタチに変える作業が必要で、ハンキーはそうしたことに長けていました。1938年に引退するとき、ハンキーは後任に「将来戦争状態になったら、その時点での首相にこれを渡せ」と手紙を託しました。それには「ロイド=ジョージにならい、少人数の戦時内閣を作ることを強く勧めるが、それはあなたが決めることだ」と書いてありました。チェンバレンはそれに従い、戦時内閣を発足させました。そして……こうなってはあの男を呼ぶしかありません。チャーチルは海軍大臣に補されました。国家防衛委員会は内閣官房と統合されました。文字通り、丸ごとの統合でした。


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