4.受ける大臣 受けない大臣
ロイド=ジョージが選挙に負けて組閣しないとなると、ボナー・ローが保守党政権を立てるのが憲政の常道(英語で何というんでしょうね?)です。ところがロイド=ジョージ政権末期、保守党は連立維持派と解消派で争っていました。特にロイド=ジョージの戦時内閣を支えたオースティン・チェンバレンなどは入閣させづらく、当選2回の4年生議員ながらネヴィル・チェンバレンが郵政大臣になれたのです。とはいえ初当選が遅かったので、このとき52才でした。
幸運だか不運だかわからないのは、ボナー・ローがすぐに病気辞職してしまったことです。ボールドウィンは若いうちビジネスマンとしても評価されていた二世議員で、当選してからは財務関係の公務が多く、このとき財務大臣でした。組閣の大命を受けたボールドウィンは、どうせすぐに出直し選挙の必要があると考えたせいか、ひょいと財務大臣のポストをネヴィル・チェンバレンにやってしまったのです。いちども予算を編成しないまますぐ総選挙になりましたが、第1次大戦ではマスコミに批判されることもあったネヴィル・チェンバレンへの大任はプラスイメージをつけてくれたようです。
選挙民はボールドウィン政権を受け入れませんでした。ここで争点になったのは、よく「ブロック経済」という偽英語(たぶん日本では早い時期にこう書かれたんでしょう)で呼ばれるimperial preferenceです。帝国特恵[関税]という意味ですね。ボールドウィンも、ジョゼフ・チェンバレンの息子ふたりもこの政策の支持者でした。チャーチルはこれに反対です。またちょっと先走りになりますけれども、チャーチル政権の協力者であった「新聞男爵」ビーヴァーブルックはもともとボールドウィン→チェンバレンという保守本流の支持者で、帝国特恵関税をずっと支持していました。
少なくともこのころは、イギリスの選挙民はこれを支持しませんでした。イギリスの経済競争力が世界一ではなくなったことを認めることになるからでしょうか。まあ、目先の物価高を呼ぶのは間違いないですよね。
これで誰も安定多数を取れなくなりました。1924年1月に少数政権ながら、自由党の閣外協力を得てラムゼイ・マクドナルドの労働党政権ができ、ソヴィエトと通じているとの疑いをかけられるなどで10月に総辞職しました。1923年末から1924年という時期は、フランスとベルギーがドイツの賠償金支払い遅延にいら立ってルール地方占領に踏み切った時期と重なっています。戦争に勝って、いいことが起きるはずが起きなかったという不機嫌が戦勝国を覆っていました。不機嫌が最もひどかったイタリアはもうムッソリーニ政権になっていたのですが。
何度も選挙をやる中で、チャーチルはソヴィエトと共産主義者への警戒を呼び掛けるほうへ主張を傾けていきました。そうなると、マクドナルド政権に閣外協力している自由党にいるメリットがなくなってきました。かつての裏切者であるのに、無所属候補として保守党の集会に登場し演説もしました。
考えてみると、政治家チャーチルのこの時点での実績は、戦争関連に偏っているのです。かろうじて内務大臣として、暴徒に一歩も引かなかった実績がありましたから、こういう争点選びになったのでしょう。陸軍大臣と航空大臣の大盛りパックなんか食わなきゃよかったのですね。そして無所属保守系として、マクドナルド政権が倒れるところで打って出た総選挙に勝ちました。この選挙戦ではもっぱら社会主義への警戒を訴えました。保守党が約2/3の議席を獲得する圧勝で、ボールドウィンが組閣しました。
ボールドウィンは、前回数か月しか財務大臣をやっていないネヴィル・チェンバレンに、もう一度財務大臣をやるかと打診しました。おそらくこれを受けていれば、対外的にはボールドウィンが自分の後継者として認めたという印象を与えたでしょう。
チェンバレンは優秀で冷徹でしたから、このあと1930年代にかけて、優秀なプランナーとして名を成していきます。そしてこのときチェンバレンには、「影の内閣で保健大臣をやっていたので、その分野の政策実施の方がうまくやれる」という計算がありました。いま財務大臣になっても虚名でしたし、金本位制復帰という難しい問題を引き受けることになりました。
ボールドウィンは社会主義者たちに先駆けて福祉国家を目指す必要を認め、ネヴィル・チェンバレンを保健大臣とし……チャーチルを財務大臣にしました。チャーチルは落選続きの境遇、しかも出戻りの裏切り者という立場で、復党とともに重要ポストを与えられて随喜しました。まだまだ汁っ気の残っているロイド=ジョージとも近いチャーチルはまた統一自由党に似た政党を立てて、そのさい保守党の一部議員を食いちぎって連れていくかもしれず、ボールドウィンは閣内に置きたかったのです。だいいち財務大臣の仕事なら、経験の長い自分が後ろから見ていることもできるのですから。
そしてやはり、金本位制復帰は問題に突き当たりました。イギリスは戦前の為替レート通りに金や外貨との交換レートを決めましたが、イギリス製品には輸出競争力が失われていて、入ってくるはずのドイツからの賠償は遅れました。海外からの貿易外の収入(おそらく今日の日本がそうであるように、海外資産からの利益など)が巨額であったため、貿易赤字が(世界大恐慌までは)経常赤字から金流出といった結果をもたらさなかったのですが、1926年のゼネストに代表されるように、輸出不振から賃金を切り下げようとする雇用者側との労働争議がたびたび起きました。
それを尻目に、ネヴィル・チェンバレンは様々な社会福祉制度を設計し、実施していきました。ボールドウィン政権は1924年に得た圧倒多数を背景に、久しぶりの安定政権となり、1929年まで続きましたが、戦争直後と同じで次の選挙での退潮は約束されたようなものでした。
1929年の選挙結果は、当然のように大敗でした。単独過半数には少し足りなかったものの、少し党勢を盛り返したロイド=ジョージの閣外協力で労働党のラムゼイ・マクドナルドがまた立ちました。
このころ、ボールドウィンの同意のもと、チャーチルは自由党の一部に保守党政権への協力を打診したものの、賛同を得られませんでした。となれば、ボールドウィンにとってチャーチルは警戒すべき対象ですらなくなったわけです。
不運なことに、マクドナルド政権ができたところへ1929年の世界大恐慌がやってきました。リーマンショックもある程度そういうところがありましたが、段階を追って悪い影響が表れてきたので、無策を批判されたマクドナルド政権が総選挙に踏み切ったのは1931年になりました。総選挙前に組まれた労働党+保守党のほとんど+自由党の一部の挙国一致内閣で、チャーチルが断行した金本位制は停止されました。経常収支が赤字となり、金流出の脅威が現実化してきたからです。この挙国一致内閣にはボールドウィンもネヴィル・チェンバレンも入っていましたが、チャーチルはハブられました。ロイド=ジョージはぎりぎりになって協力を断ったので、それも悪い方に働いたでしょうね。
1931年選挙は1929年の逆で、労働党がへこんで保守党が伸びました。しかし挙国一致政府を作ると言って勝った選挙でしたから、労働党員のほとんどが野党側に回ったマクドナルドが居心地の悪い首相席に座りました。ネヴィル・チェンバレンは満を持して、財務大臣を引き受けました。そして各政党の公約をすり合わせた妥協点としてですが、帝国特恵関税の制度がまとまり、連邦諸国もそれを呑みました。いわゆるオタワ体制です。
1920年代の政界を彩った巨星たちが老いていき、チェンバレンはその番頭として政策の整合性を保ち、輝きを増しました。ただチェンバレンはパブリック・スクールを出てからずっとリーダーとして振る舞ってきたのがたたったのか、理路整然と指示はできても、人を味方につける話し方が上手ではなかったと言われています。まあ、だからチャーチルに気遣いせず、ヒラ議員のまま放置したのだ……と言えなくもないですね。
チャーチルは邸宅とぜいたくな生活を維持するために、第1次大戦までの自分の回顧録はもう書いて売ってしまったので、初代マールバラ公爵ジョン・チャーチルの伝記を書きました。今でも4冊組8140円でAmazon kindleに入っています。長いことかかり、最後の1冊はミュンヘン会談の1か月前、1938年8月に出ました。チャーチルの著作はほとんど口述、それも真夜中近くなってから遅くまで「執筆」したのだそうですね。映画『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』で、国王ジョージ6世から「定期的に朝食を共にしよう」とチャーチルが誘われて、「いや朝は起きられないので昼食でひとつ」と答えるシーンがありますが、遅いけれども朝食は食べました。ただベッドの上で食べるうえ、そこに片づけられる限りの仕事を持ち込むので、国王とご一緒はしづらいわけです。
国王ジョージ6世が「チャーチル? チャーチルが首相でなきゃダメ?」といいたげな顔をするシーンもありますが、どうしてそうなったかはもう少し後で触れることにします。