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3.行く大臣来る大臣

 自由党のアスキス内閣が初期の大損害と敗戦の責任を問われ、いったん保守党と連立して妥協が成立したことはすでに述べました。ロイド=ジョージは強引なリーダーシップを発揮して、弾薬生産を軌道に乗せ、難局のリーダーとして期待されるようになりました。ただし成功したので余計に、ワンマン経営者的な側面が目立つようになりました。


 1916年、ロイド=ジョージは「アスキス派」とでもいうべき自由党の半分を連立内閣から追い出す形で組閣しました。当時の保守党首だったボナー・ローたちも協力しました。少し先の話をすると、自由党はこの時の分裂と、ロイド=ジョージの強烈すぎる個性を消化しきれず、労働党の台頭に押されて第3党に押し出される経過をたどりました。じつはロイド=ジョージ本人は自由党の盛衰にかかわらず、個人としてご意見番的な地位を保ち続け、1941年に亡くなりました。まだまだ政治資金管理の透明性について意識が低い時代で、ロイド=ジョージが管理したままの政治資金があったと言われますが、これも影響力の源泉であったでしょう。


 さて、1914年に亡くなったジョゼフ・チェンバレンは保守党の外から協力していただけでしたが、ネヴィルの異母兄であるオースティン・チェンバレンは最初から保守党に属して、もう大幹部になっていました。1916年、ロイド=ジョージに兄オースティンが取り次いで、ネヴィルはDirector of National Serviceになりました。折から導入された徴兵制について、産業界の要求と徴兵システムを調整するための責任者でしたが、どう調整するのかも、自分で決められる権限範囲もはっきりせず、下院に議席がないので調整に割って入れないことがありました。このポストで「成功するのは大天使その人でも無理」と評した議員もいました。1917年に辞職するまで1年かかりませんでした。


 ここではあまり詳しく書きたくないのですが、第1次大戦以前からイギリス政局を見ていくひとつのメリットは、チャーチルやチェンバレンが何が得意で何が苦手なのか、判断する材料が増えることです。もともと成功の目があまりないとはいえ、チェンバレンが「自分に決定権がないことについて調整役をする」ことに失敗したのは、この人の資質と関係があるように思います。だいたいロイド=ジョージが仕えやすい主人ではなかったのも災いしたでしょうが。


 第1次大戦の国政に限れば、ネヴィルは全く成功できませんでした。しかし多くの犠牲が出る中で、公益的な仕事への関心が心を占めるようになって、1918年の下院立候補につながりました。


 1917年は、ヒンデンブルク線への限定的なドイツ軍撤退に始まり、毒ガス弾の使用、アメリカ参戦、ロシア革命とイギリスから見て国外のイベントが続き、イギリス政府の戦争指導の良しあしを論じることが困難です。11月には有名なカンブレーの戦いで戦車の集中投入が試みられました。


 7月、下院議員として面白くなさそうに仕事をしていたチャーチルを、ロイド=ジョージは弾薬大臣に干し、いやいやいや、補しました。ロイド=ジョージのあと2人の後任大臣を挟んでの登板でした。


 戦時内閣という仕組みについても、このタイミングで解説したほうがいいでしょう。もともとイギリスには「閣外大臣」という制度があって、閣議に呼ぶ大臣の数を絞り込めるようになっているのですが、ロイド=ジョージは自分を含めて5人と「戦時内閣」のメンバーを極端に少なく絞り込んで、意思決定のスピードアップを図りました。チャーチルも前任の弾薬大臣も、この5人には入れてもらえませんでした。前任者たちもそれぞれ次の仕事があっての転任でしたし、チャーチルも大過なく勤めあげました。


 1918年12月の総選挙は、クーポン(配給券)選挙と呼ばれました。保守党にも、もう戦争は終わったから連立解消でいいという議員たちが大勢いましたし、自由党首は内閣からはじき出されたアスキスのままでした。ロイド=ジョージとボナー・ローは連名で、自分を支持する候補者に選挙民への推薦状を出しました。これをアスキスが「配給券」と皮肉ったのでした。ネヴィル・チェンバレンも、これをもらったひとりでした。オースティン・チェンバレンは1918年春から戦時内閣の5人組に加わり、政権の中心近くで働いていました。ネヴィルもこのあと「保守本流」としての地位を自分で築きますが、兄が作った基盤がその下にあったと言えます。


 選挙はクーポン側の大勝……つまりクーポンをもらえなかった自由党アスキス派議員の大敗で、保守党政権にロイド=ジョージがトッピングされたような政権になりました。


 ここでチャーチルは、陸軍大臣兼航空大臣という目もくらむ顕職(けんしょく)を得ました。まあ実態は、第一復員大臣兼第三復員大臣だったのでしょうが。兵士たちを機嫌よく復員させ、職業軍人たちを小さくなった平時の軍隊に押し込めるのは派手な仕事ではありません。政権末期で、こういう人気のない仕事を頼める相手が少ないので兼任になってしまったのかもしれません。国防を預かる立場上、ソヴィエトについての警戒の念を抱かざるを得ず、ソヴィエトの白衛軍への物的援助には積極的でした。おそらく社会主義に対する盾としての役割を期待して、ドイツに対しては比較的融和的でした。1921年には植民地担当大臣に転じて、北アイルランドをアイルランド自由国から分離してイギリスに残す、現在まで続く妥協案をまとめました。


 そして1922年、ついに保守党が連立を解消し、総選挙でチャーチルは自分の議席すら失い、ネヴィル・チェンバレンは初入閣を果たしました。おそらく世間はチャーチルを自由党員というより、ロイド=ジョージ党員とみなしていたのでしょう。チャーチルとチェンバレンの運気は逆転し、チャーチルは連続3回下院選挙に落ちることになるのですが、次回はそのあたりからお話ししましょう。

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