2.ガリポリ
ガリボリ(ゲリボル)は地中海側から見て、黒海に続くダーダネルス海峡の入り口です。厳密に言うとガリボリの街にはトルコ軍が司令部を置いていて、イギリス軍はそれよりはるか手前の橋頭保を抜け出せなかったのですが、まあこの小稿の本筋ではないのでそのままといたします。
ダーダネルス海峡に近いということはイスタンブールを脅かす位置でもあって、ガリボリ半島を制圧できればトルコへの圧力となって、敗勢のロシアを救援できました。
もともとの計画では、各地からかき集められた前ド級戦艦を使って沿岸砲台群を圧倒し、わずかな陸兵をもって占領しようというものでした。
おそらくイギリス軍は、オスマン海軍の機雷敷設能力を過小評価していました。とうとう終戦まで爆雷を持たなかったオスマン海軍でしたが、なんとか潜水艦を食い止めようと機雷を海峡に配置していました。戦前に、他ならぬイギリス海軍の指導を仰いで準備されたダーダネルス海峡封鎖機雷網は2重構造でしたが、ガリポリに英仏協商艦隊を迎えたときには9重になっていました。
どうやってトルコはそんなにたくさんの機雷を手に入れたのでしょうか。トルコは機雷を生産する能力がなかったのですが。
チャーチルのせい……と言えないこともありません。オスマン帝国はイギリスに2隻の戦艦(1912年に就役した、先代のキングジョージV世級と略同型)を注文していましたが、開戦後すぐにイギリス海軍はこれを接収し、1隻は戦艦エリンとして自分で使い、もう1隻はスクラップにしました。チャーチル海軍大臣は何の補償も申し出なかったので、トルコはちょうど保護を求めてきたドイツの巡洋戦艦ゲーベンと軽巡洋艦ブレスラウを買い取ってしまいました。すぐ近くに有力艦隊が現れたのに驚いたロシアは、それが黒海へ入ってこないよう大量の機雷を仕掛けました。トルコが掃海できたのはその1/4ほどと言われていますが、それが海峡西側の守りに流用されたのです(その他の戦線や過去の戦争での捕獲機雷もありました)。
それを掃海する役目を、どうやらイギリス海軍は民間人の小艇群にやらせようとしたようです。1か月近く断続的に掃海したのですが、沿岸からの砲撃で作業が進まず、掃海ができていないという警告を……したという話がどこにも出てきません。評価もできなかったということでしょうか。砲戦ではトルコ側を圧倒する弾雨を浴びせたものの、機雷によって18隻の旧式戦艦・巡洋戦艦のうち3隻を失い、3隻を大破させる結果となり、到底海峡を抜けることはできず引き返しました。
そこで主客がひっくり返り、艦砲支援の下で上陸し、占領地を広げて、掃海艇を狙う小口径砲を追い払う作戦に切り替えられました。
ドイツ軍事派遣団の一員として駐在していたリーマン・フォン・ザンデルス騎兵大将(二重姓、同時にトルコ軍元帥)は、第5軍司令官としてガリポリ付近に司令部を構えました。ただリーマン・フォン・ザンデルスの指揮は「負けないこと」を優先した慎重なもので、イギリスの欺瞞に引っかかって主力の上陸場所も誤認してしまいました。かえってトルコ軍の中級指揮官たちが、本格的な陣地を作られたらトルコ野戦軍の兵器では攻略できないことを意識して、水際殲滅を意識した指揮をしました。
とくに、ANZAC(オーストラリア・ニュージーランドの外征用精鋭部隊)の上陸を受け止めたトルコ第19師団は海岸に近い尾根を確保して譲らず、果てしない夜襲の応酬を耐え抜きました。ケマル師団長はその功績でパシャの称号を認められ、トルコの運命を変えていきますが、チャーチルやチェンバレンの話に戻りましょう。
1915年3月に始まった上陸作戦でしたが、年の暮れに最後の橋頭保が引き払われました。イギリス補給部隊史によると放棄されたベーコンだけで100トンといいますから、西部戦線と比べてどれくらい悲惨かは一概に言いにくいのですが、計画全体のガバい印象は覆うべくもありません。さあ、犯人捜しの時間です。
フィッシャー海軍元帥は戦艦ドレッドノートなど数多くの基本的新兵器を開発した英雄的提督でしたが、すでに1910年に第一海軍卿(海軍軍令部長に相当)を引退して、ちょうど入れ替わりに着任した若造海軍大臣のチャーチルから、非公式な顧問として頼りにされていました。特に海軍となると「軍のことは軍人任せ」で、軍歴があるだけチャーチルはましな方で、純粋なシビリアンが海軍大臣を務めるのがイギリスでは普通でした。政治・経済・軍事の三点セットで総力戦を戦う時代の少し前を、フィッシャーは歩いていたわけです。
ところがやや喜劇的な事情で、現役復帰しなければいけなくなりました。フィッシャーの後任であるバッテンベルクはヘッセン大公家の当主の孫でしたが、父の貴賤結婚のため爵位継承のルールを外れ、現当主(伯父)のはからいでバッテンベルク公爵(Prinz)となっていました。そして若いうちにさっさとイギリスに帰化し、海軍で出世していました。ところがドイツと戦争をすることになり、第一海軍卿がプリンツ・フォン・バッテンベルクではどうにも収まらなくなったのです。
そしてフィッシャーはガリポリ上陸作戦の3日前に辞職を願い出ました。引き止められましたが74才でしたから、最後にはアスキスも認めました。
そうなるとチャーチルは辞めなければなりません。一番強硬にそれを主張したのは、今まで閣外協力していた保守党でした。第1次大戦初期にイギリスが負けたり大損害を出したりしたのは、長年のいろいろが積み重なったせいで、自由党だけの責任とも言えませんが、そろそろ「首相、代われ」という大合唱が始まるのは議会政治の常です。アスキス内閣に保守党から閣僚を出して連立することになりました。その条件がチャーチルの更迭でした。
いかにもイギリスっぽい話ですが、ランカスター公領担当大臣という役職があり、事実上の無任所大臣です。1915年5月、まだ陸軍が橋頭保にしがみついていましたが、チャーチルは海軍大臣からランカスター公領担当大臣になりました。後任の海軍大臣は保守党から出ました。
ちなみにバッテンベルクはヘッセン大公にもらった称号を返上し、ベルクはドイツ語で「山」ですから、マウントバッテンに改姓しました。その直後、イギリスの侯爵とされました。第2次大戦末期に東南アジア方面連合軍総司令官を務めたマウントバッテンはその次男ですが、父の爵位は兄に行くのでマウントバッテン・オブ・ビルマ伯爵に叙されました。
※追記 バッテンベルク公爵→初代マウントバッテン侯爵は、エリザベス2世女王の夫君、エジンバラ公爵の母方の祖父に当たります。このことから、エリザベス2世の男系子孫は父君ジョージ6世の弟たちの子孫がウィンザーを苗字とするのと区別して、マウントバッテン=ウィンザーを苗字としているそうです。
チャーチルは11月になると閣僚を辞し、西部戦線で戦いたいと言い出し、ある騎兵連隊がチャーチルを中佐・大隊長として迎えました。前線でじっと砲爆撃に耐える日々を3か月過ごし、チャーチルはまだ議席のあった下院に戻って、見てきたことを伝えました。しかし海軍大臣として過ごした日々の後では、何をやっても戦局を動かしている感じはしなかったでしょうね。
じつはチャーチルの運が尽きたように見えた1915年5月は、次の歯車が回り始めた時でもありました。自由党での盟友、ロイド=ジョージが新設された「弾薬大臣」に就任したのです。
じつは第1次大戦は砲兵の戦争だったんだよ……という話はもう相当に広まっていると思いますが、「榴弾が足らない問題」は大戦初期のイギリスにとって深刻でした。塹壕や鉄条網を掘り返すには、空中で爆発して破片をまく榴散弾ではなく、地面に当たって爆発する榴弾が必要です。その生産がなかなか伸びなかったのです。ロイド=ジョージは労働者と資本家を両方抑え込んで政府の言うことを聞かせ、大規模な工場を新たに建て、鉄道会社など異業種の設備も弾薬生産に使いました。
さて、チャーチルが失意に沈んでいたころ、市長として腕を振るい始めたネヴィル・チェンバレンのその後は、どうなったでしょうか。