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余談:二大政党と宗教問題

 ホイッグとトーリーが自由党と保守党に進化していく道筋は、少しねじれています。チラ裏的なメモで恐縮ですが、まとめておきます。


 イギリス国王を首長とするイギリス国教会ができたのは、「ヘンリー8世が離婚する都合」というのは有名です。だからカトリック教会の頭をすげ替えただけで、プロテスタント扱いしていいのかと思うのですが、後世になると「対ローマ同盟」から誘われることが多くなり、プロテスタントの仲間が増えていきました。


 その娘メアリ1世はスペイン王と結婚し、カトリックの信仰復活に国の舵を取って、プロテスタントを弾圧しました。さらにその妹エリザベス1世はもう一度、国王を首長とする国教会に宗教制度を戻して、亡き姉の一派につながるカトリック勢力の力をそごうとしました。


 これと並行して、オランダのプロテスタントは宗主のスペインに独立戦争を仕掛けていました。ベルギーにはカトリックが多いので決着がつかないまま、80年戦争とも呼ばれる断続的な戦いが続きました。メアリ1世の夫だったスペイン王フェリペ2世は、本国から大艦隊を送ってオランダにいるスペイン軍を乗船させ、オランダを支援するイングランドに上陸する計画を立てました。イギリス海軍がこれを打ち破ったとされるのが、1588年の海戦です。実際には洋上で撃破したスペイン船はわずかで、オランダの港で補給できないままイギリスとアイルランドを反時計回りにして帰国するルートを強いられ、物資不足から多くの船がアイルランドなどの海岸に向かって、失われました。


 エリザベス1世が亡くなると、スコットランド王家に嫁いでいたヘンリー8世の姉のひ孫にあたるスコットランド王ジェームス6世が迎えられて、イングランド王ジェームス1世を兼ねました。ヘンリー8世にはもうひとり、妹のメアリー・チューダーがいたのですが、その系統につながる子孫たちは大なり小なりエリザベス1世と疎遠になって(潜在的)王族としての力がなく、エリザベス1世晩年の重臣であったロバート・セシルが根回しをしての王位継承でした。


 ジェームス1世は、弾圧の応酬を積み重ねた宗教対立を背負わされ、さらに同君連合でしかない祖国スコットランドと、相対的に豊かなイングランドをなんとかひとつの国にしようとしたので、どの勢力からも不満を持たれていきました。


 その次男であるチャールズ1世も、三十年戦争の戦火が絶えない中での治世であり、一方的に得をする功績など上げられず、アイルランドやスコットランドに国教会の権威を認めさせようとして内戦や虐殺事件が起きると、国教会そのものへも批判が高まりました。そして1640年の清教徒革命以後、絶え間ない内戦で議会との対立が血による清算を見るに至りました。クロムウェルは軍人として成功したことから統治者としても期待されましたが、分け与えるものを持ってはいませんでした。


 クロムウェルがインフルエンザで病死し、軍事的勢威が消え去ると、チャールズ2世が迎え入れられました。ここ100年ほどのイングランド統治者すべてと同様に、自制と寛容を旨とした統治が期待され、実際そう務めただろうと思いますが、財力と負担のバランスは崩れたままでした。「勝者が総取り」する君主制のままではどうしても収まらず、何らかの「自制ある政争システム」が必要とされていたと言ったら、言い過ぎでしょうか。


 チャールズ2世が亡くなって弟のジェームズ2世が立つと、イギリスの有力者たちはこの政権を支えるか、速やかに王権を制限し、親プロテスタント・反カトリックな政治的選択をするか、選択を迫られました。前者がトーリー、後者がホイッグのもとになりました。


 ホイッグ(→自由党)は小英国主義を奉じたと言われますが、それは19世紀、グラッドストーンのころの話で、このころのホイッグは隣でやっている80年戦争とかかわりがありました。スチュアート朝の王たちは(チャールズ1世のように、スペインとの関係がマズかった人もいますが)何かというとスペインやフランスに頼り、協力しました。その裏返しでもあったのでしょうが、ホイッグは反スペインであり、反フランスである大陸のプロテスタントに共感を持っていました。逆に言えば、ネーデルランド連邦共和国建国の元勲ウィレム1世のひ孫でありながら、議会の有力者たちから明確な地位をもらえないウィレム3世(ウィリアム3世)は、妻メアリー2世とイングランドの共同統治者になることで、反カトリック陣営に大きな増援を呼び込んだわけです。すでに大陸は、三十年戦争とペストから立ち直り始め、内戦続きのイギリスも放置してもらえなくなっていました。トーリーの黙認のもとに、ホイッグの有力者たちが名誉革命を起こしたのです。そして当然のように、ジェームズ2世はフランスに逃れました。


 トーリーの中には、スチュアート朝に忠誠を誓うジャコバイトたちも混じっていましたが、さすがにもう内戦には慎重になっていた有力者たちをたくさん含んでいました。そして国教会は元をたどるとカトリックに近い部分が多いとしても、少なくとも反ローマである限り、オランダのプロテスタントにも受け入れられる同盟相手でした。


 だからちょっと話がねじれて、ウィリアムとメアリーの共同統治以降、王室は一貫して国教会の守護者となり、トーリー党もそうなって行きました。だいたいメアリー2世も、跡を継いだアン女王もジェームス2世の娘でしたが、もうカトリックの守護者ではなくなっていったのです。そしてもうスコットランドにジェームズ2世系の王が立っては困るので、アン女王の時代にスコットランドとイングランドが正式に統合されることになりました。


 ウィリアムとメアリーの共同統治はホイッグがおぜん立てしたものでしたし、剣を置いてそれに従った貴族の中にはチャーチル首相のご先祖様であるマールバラ公爵ジョン・チャーチルもいましたが、ホイッグの政治家たちと組んで大陸のスペイン継承戦争に首を突っ込んでいくことになりました。アン女王は晩年、この戦争に嫌気がさしてトーリーの政治家たちを重用するようになり、こうした「政権交代」が次第に形を整えて内閣制度に代わっていくことになります。


 アイルランドはカトリックの国ですが、相対的にその権利を守る政党は比較的土地利権から遠く、ついでに国教会とも遠く、比較的社会正義の名分にこだわる自由党が担うことになりました。ホイッグはもともとプロテスタント勢力の同盟者であることを考えれば、不思議なことですね。


 のちに大英国主義という言葉ができたように、トーリーは大陸よりも海外領土の獲得と維持を重視し、後には軍事力行使も含めてその利権(取引する権利)を守る帝国主義を支持する傾向が強まりました。これに対し、今の言葉で言えば貿易品をコモディティ化し、互いに誰にでも売れる、誰からでも買えるようにしようという自由貿易主義は、自由党が主張していくことになりました。


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[良い点]  名前を聞いたことしかない大戦期の人々が、どんな風に大戦前夜を過ごしていたのかを気楽に流し読みできました。 [一言]  このエッセイを書くのに投じられた時間と資金を思うと、流し読んだのが申…
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