1.大臣と市長
第2次大戦を理解するためには、第1次大戦を理解しなければなりません。イギリス政界については、特にそうです。ドイツとフランスについてもある程度それは言えるのですが、両国の議会政治は(それぞれ別々の意味で)1933年と1940年に断絶してしまいましたから、大戦期のことを知るための「引っ掛かり」はイギリスほどには生じないのです。第2次大戦期イギリスを理解するための「過去のいろいろないきさつ」をこの連続読み物で語ってみたいと思います。主にチャーチルとその前任首相、ネヴィル・チェンバレンの物語であり、1940年のチャーチル内閣に残った「過去の爪痕」の解説でもあります。
チャーチルは1895年、つまり日清戦争のころに騎兵少尉として任官しました。若くして亡くなった政治家の父が借財を残していて、特派員として原稿が売れそうな任地を志願し、早くも1899年には父と同じ保守党で選挙に出て負けました。
このころは保守党のソールズベリー内閣でしたが、植民地担当大臣は自由党から分派した自由統一党のジョゼフ・チェンバレンでした。チェンバレンは長い政治生活の中で政治的力点を移していきましたが、最後のころの立場は現代的に言うと「高福祉高負担」路線……というとシンプルすぎるでしょうか。マルクスの「共産党宣言」は1848年に出ています。「下からの」社会改革と、その勢いをそごうとする「上からの」社会改良が押し合いをしていたのがこの時代でした。ジョゼフ・チェンバレンはバーミンガム市長から国政に転じ、地方都市のインフラを公営化し、大地主の土地を分けさせて自作農を増やすなどの政策と、その財源としての帝国主義的な利権確保や帝国外への高関税をセットで主張するようになったのです。この「大地主の土地を分けさせて自作農を増やす」ところが、自由党の中の地主層と対立して党を割ってしまった原因でした。
チャーチルが任官したころ、息子のネヴィル・チェンバレンは父の経営するバハマの農場から帰ってきました。チャーチルの父も借財を残しましたが、ジョゼフ・チェンバレンもビジネスマンとしてはダメで、新天地で麻の栽培を手掛けたのですがどうしてもいいものができず、次男ネヴィルは6年ほどの現地監督から撤退してきたのです。
ネヴィルがビジネスマンとしてキャリアを作り直している間に、第2次ボーア戦争が起きました。落選1回のチャーチルはまた特派員として南アフリカへ行きましたが捕虜になり、からくも脱走しました。しばらく現地で騎兵中尉として従軍した後、ロンドンに戻ってきましたが、脱走話が評判になっていて、1900年に初当選できました。
後から考えると因縁というしかありませんが、チャーチルなど若手保守党議員の一部は、(保守党員というわけではない)ジョゼフ・チェンバレンが主導する帝国特恵関税(域外への保護貿易)に対して、自由貿易を支持して反発しました。そして1904年、自由党に鞍替えして当選しました。1908年になるとアスキス内閣の通商大臣として初入閣できました。
自由党のロイド=ジョージ(2単語で苗字)は1890年初当選で、1908年から財務大臣を7年務めることになるのですが、この人は1908年にはドイツに対抗する海軍の建艦計画を何とか抑え込もうとしました。チャーチルも父親が軍事予算削減を目指していたことを念頭に、ロイド=ジョージに同調して海軍予算を抑えようとしました。ずっと後のことを考えると苦笑するしかありません。
さて、財源はどうしましょうか……ということになります。まだ政権は自由党にあります。富裕層からごっそり取れ! という1909年度予算案はPeople's Budget(人民予算)と呼ばれました。さすがにこれは貴族院が通さず、内閣総辞職ということになりました。自由党は少数内閣となり、アイルランド国民党や労働党の閣外協力が運営の頼みとなりました。そして人民予算もこうした閣外協力で再可決、成立しました。
アスキスが引き続き組閣し、チャーチルは35才で内務大臣を任されました。それはつまり、警察機構を握るということです。ロシア革命前夜で、労働者たちの突き上げはすでに激しくなっていました。そんな中で、ドイツやオーストリアにも目配りが必要でした。暴動が起きると、チャーチルは大規模な警官隊を送り、時間がかかるときには騎兵中隊を先に投入しました。暴動参加者に一定の秩序が見られる場合にも交渉はせず、まず鎮圧したことはチャーチルが後々まで繰り返した、「圧力下での交渉はしない」という行動パターンの表れでした。当然民衆の味方であるべき……と現代人なら思いがちですが、「政府の弱腰」を批判する新聞もあったのがこの時代でした。
1911年10月、ドイツとの戦争が視野に入ってきた段階でしたが、チャーチルは海軍大臣に任じられました。7月にはモロッコをめぐってフランスとドイツがあわや戦争かという対立を見せたアガディール事件があり、つい最近までチャーチルと一緒になって海軍予算を削ろうとしていたロイド=ジョージ財務大臣も、フランスへの支援を支持する演説をしました。チャーチルはすでに述べたように内務大臣としての強硬姿勢に不評もあったところで、マッケンナ海軍大臣とポストを交換させようとアスキス首相が思いついたのでしょう。
1911年に、もう40代に入ったネヴィル・チェンバレンはバーミンガム市会議員となり、大戦のさなかの1915年、かつて父が就いたバーミンガム市長になりました。
次はガリポリのお話です。