あさひ姫と魔法使いのさる
むかしむかし 尾張のくにの中村というところに あさひという貧しい女の子が住んでいました。
毎日毎日 畑にでて一生懸命はたらいても 食べるものは ほんの少ししかありません。
だからあさひは いつもお腹をすかせて泣いていました。
ある日 あさひは村の街道を通る 花嫁の行列をみました。
花嫁はとなりの村の名主のお姫さまで それはそれはうつくしい行列でした。
あさひはおかあさんに
「ねえ、おかあさん。わたしもあんなうつくしいお姫さまになりたい」
と、いいました。
おかあさんは笑って
「ひとには分相応というものがあるのよ。あさひは今のままが一番幸せなのよ」
といいました。
でも あさひには おかあさんの言うことがよくわかりません。
貧乏で食べるものも着るものも ろくにないいまが何で幸せなんだろう?
やっぱりわたしは うつくしいお姫さまになりたい。
と 思っていました。
すると山から一匹のさるがおりてきてこう言いました。
「やあ、あさひ。ぼくは魔法使いのさるさ。ぼくをきみのお兄ちゃんにしてよ。そしたらなんでも願いをかなえてあげるよ」
あさひは大いによろこび
「お兄ちゃんにするので、わたしをお姫さまにしてください」
と おねがいしました。
さるは
「わかった。でも、そのかわりいままでの暮らしはなくなってしまうよ。それでもいいの?」
と聞きました。
あさひはそれでいいといったので さるは魔法であさひをお姫さまにしたのです。
あさひの目のまえには 見たこともないきれいな着物や豪華な食事がならび まるで夢のようなくらしが始まりました。
「ねえ、おかあさん。きれいな着物においしいご飯。幸せだね」
でも 応えてくれるおかあさんはどこにもいません。
あさひはびっくりして さるに聞きました。
「ねえ、おかあさんはどこ?」
さるは言いました。
「やだな。あさひがお姫さまになったので、おかあさんはお妃さまになったんだよ。お妃さまは別のお城で暮らすのさ」
「そんなのやだ。わたしはおかあさんに会いたい」
あさひは大声で泣きだしました。
さるはそんなあさひを冷たい目でみて こう言いました。
「わがままだな、きみは。お姫さまにはお姫さまの役目があるんだ。きみは明日、ひがしのくにのお殿さまのところにお嫁に行くんだよ」
あさひがお嫁に行く ひがしのお殿さまというのは たぬきでした。
あさひはたぬきが嫌いだったので 毎日泣いていました。
するとさるはこう言いました。
「泣かないであさひ、これがお姫さまの役目なんだよ」
そしてこうも言うのです。
「おかあさんにも、おかあさんの役目があるの。おかあさんはたぬきの殿さまのところへ、人質として行くことになったんだよ」
あさひは「人質」という言葉をしりませんでしたが なんだかとても悲しいきもちになりました。
もう一生 やさしいおかあさんに会うことは出来ないのだと思いました。
しかし数年のときが過ぎ あさひはおかあさんに会いに行けることになったのです。
ふたりは手を取り合って泣きました。
「ごめんなさい、おかあさん。おかあさんが正しかった。わたしがお姫さまになりたいと言ったばっかりに、おかあさんをこんな目にあわせてしまったわ」
おかあさんは首を振っていいました。
「ううん、いいのよ。誰だって夢はみるもの。その結果がどうであれ、それはあなたのせいではないわ」
「おかあさん、わたし故郷の村に帰りたい。昔のようにおかあさんとふたりで、畑を耕して暮らしたいわ」
涙ながらにそういうと おかあさんはやさしく頭を撫でてくれるのです。
「心配しないで、こんな悪夢は長くは続かない。ひとの欲に限りはないけど、ひとの生命には限りがあるのよ」
おかあさんの言うことは うそではありません。
見上げると にしの空は真っ赤にもえていました。
さるの天下は終わろうとしていたのです。
おしまい。
嘘のようですが、これは本当にあったお話です。
物語にでてくる「魔法使いのさる」というのは、もちろん豊臣秀吉のことです。
豊臣秀吉が貧乏百姓から天下人まで上り詰めた立身出世のひとであることは有名ですが、彼が出世すると共に彼を取り巻く人々、特に親戚縁者の運命をも大きく変えていきました。
彼の妹(父親は違いますが)、朝日もその例外ではありません。
秀吉の場合は自分の努力と運で道を切り開いていったわけですから、それはそれでいいのでしょうが、妹の朝日にしてみればそんな事情はまるでわかりません。気がついた時には「朝日姫」と呼ばれ、大きなお城に連れて行かれて何人もの側近にかしずかれ、見たことのないような煌びやかな着物を着せられていました。正に日本版「シンデレラ」の完成だったわけです。
だけどこの「シンデレラ」は本当に幸せだったのでしょうか?
朝日姫はふだんあまり言葉を発しないおひとだったようです。思うに尾張中村の田舎娘だった彼女には、周りを取り巻く武士や貴族たちの言葉や風習が理解できず、息を潜めるようにして毎日を送っていたのではないでしょうか。
煌びやかな衣装も、豪華な建物も、贅沢な食事も、彼女にとっては得体の知れない未知のものでしかありません。
彼女の一生は、例えていうなら「一夜の夢」のようなものだったと思えてならないのです。
それもとびきりの悪夢でした。
彼女は毎夜眠る度に、こうお祈りしていたのに違いありません。
「明日、目が覚めましたら、どうかこの悪夢が覚めていますように」
しかし彼女の悪夢はまだ終わりません。
当時、東海の徳川家康と対峙していた秀吉は、妹の朝日を「たぬき将軍」家康の嫁にすることを決めます。家康と義兄弟になることによって、最大の仇敵である家康を自軍に取り込もうと謀ったのです。一説によるとそのとき彼女は別の殿と結婚していたのですが、それを無理やり離婚させられ、家康に嫁がされたといいます。
それでも家康がなびかないと知るや、彼は(秀吉と朝日の)実母、なかを講和の条件として浜松に送ります。秀吉はそれほど家康のことを恐れていたのでしょう。
彼女がほんの一時、悪夢から解放されたのは天正16年。実母なか(大政所)の病気見舞いのときでした。彼女たち親子がどんな数日間を過ごしたのかは想像にかたくありません。
それから2年後の天正18年1月14日、京都の聚楽第にて駿河御前朝日姫はその一生を閉じることになります。
享年48歳でした。