味覚カメラ
佐藤博士はグルメな科学者です。国立医学薬学研究所に勤務して新薬の開発に携わっており、平日は深夜まで研究室に残って、実験をしたり論文を書いたり、熱心に仕事をしています。しかし、研究室に籠ってばかりいると、段々と斬新な発想や奇抜なアイデアは生まれてこなくなり、そのうち煮詰まってきてしまいます。科学者には気分転換も重要な仕事です。ですから、博士は休日には研究所に行きません。オフの時には研究の事はきっぱりと忘れて、自分の好きなことをすることにしています。博士の趣味は食べ歩きです。美味しいと言われるラーメン屋へ、一人でわざわざ電車に乗って行列してまで食べに行ったり、家族と一緒に本で紹介されているレストランへ出かけ、ちょっと高価な夕食を楽しんだりしています。博士はいつも料理の写真を綺麗に撮り、料理の味を詳しくメモし、店の様子を細部まで観察して印象を書き留めておきます。家に帰ってから、その食事の詳細をグルメ日記に書くのが最大の楽しみです。一回一回をすべて楽しい思い出として残しておきたい気持ちが年を追うごとに強くなり、最近はグルメ日記にかなり凝るようになってきました。今では、食べ歩きを記録するためにグルメ日記を付けているのか、グルメ日記のために食べ歩きをしているのか、わからなくなっているほどです。博士のグルメ日記は、すべての料理の外見と味、店の雰囲気、サービスの優劣、値段、総合評価が詳しく記載されています。その文章にパチパチと撮った写真をワープロ上で張り付けて、写真入りの日記にしています。たとえば、去年の12月6日、家族全員で忘年会として横浜中華街、黄鶴楼に行った時のグルメ日記は次のようです。
家族6人で今年の忘年会として横浜中華街の中でも一番の高級店「黄鶴楼」に行きました。広東料理の店です。私は中華街は年に4-5回訪れていますが、なぜかこの店には不思議と縁がなく、今まで一度も行ったことがありません。ですから、今年の我が家の忘年会は絶対にここでやるんだ、と早い時期から強く決意していて、8月にはもう予約を入れてありました。中の上のクラスのコース料理を個室で味わうのです。6時の予約でしたので10分前に入店しました。店の入口には受付専門の店員がおり、名前を言うと、すぐに案内の人に引き継いでくれます。サービス係は全員日本人で接客はたいへん気持ちよく、手際はこなれています。私達は2階の回転テーブルがある部屋でした。昔の中国の皇帝夫妻の絵が壁に掛かっており、窓際には龍が雲海を悠々と泳いでいる彫刻が置かれています。部屋の中の装飾は中国風ですが、廊下には電飾が付いたクリスマス・ツリーと椅子に座った姿の大きなサンタクロースの人形が置いてあり、クリスマスの雰囲気です。ウエイトレスは全員赤いサンタクロースのコスチュームを着ていて、赤いサンタの帽子を被っています。この演出のおかげで、いかにも師走に高級中華料理を食べに来たという感じが味わえて気分はいいです。乾杯のお酒はライチーのスパークリング・ワインを頼みました。お酒の中ではそれほど高いものではないのですが、床からテーブルの高さまである足の長いシャンパン・クーラーにボトルをちゃんと入れてくれます。コース1品目は前菜で、中華の焼き物の盛り合わせです。個別の皿に盛られてきました。皮付き焼豚、皮付き焼鴨、煮豚、茹海老、クラゲ、トマトの冷たい煮物、大根の漬物です。この中では、塩味の皮付き焼豚が一番高価だと思います。味付けは塩だけでシンプルですが、しつこくない豚の脂に濃厚な旨味があります。鴨は肉自体が鶏にはない滋味を醸し出しています。煮豚はほんのりとした煮汁の甘味が印象的です。茹エビも塩でしか味付けがされていませんが、新鮮で良質な素材の味を堪能できます。クラゲは今まで食べたことがないほど肉厚でコリコリしています。トマトは出汁の利いたスープで煮てありますが、フレッシュ感は損なわれていません。大根も浅漬けで、ポリポリとした食感が際立っています。コース2品目は早くも本日のメイン・ディッシュ、ふかひれの姿煮です。この一品を食べている間ばかりは、家族のみんなが無口になります。上湯は見事な琥珀色で、出汁を採るのに老鶏と金華ハムを贅沢に使っているのがわかる味です。ふかひれの上にも金華ハムの細切が少量散らしてあり、塩気とうまみのアクセントになっています。スープの中にはひげを一つ一つ丁寧に取ったもやしが入っていて、そのしゃきしゃき感とスープのねっとり感が見事な歯触りのコントラストを形成しています。次は追加で頼んだレタスのXO醤炒めです。見た目ではしっとりとしていそうなのですが、食べてみるとレタスの新鮮な歯応えがきっちりと残っていて、超強火で短時間だけさっと炒めたコックの腕の確かさがわかります。コース3品目はネギと生姜のスープで蒸された車エビです。蒸し料理なので素材のうまみが逃げていません。ネギと生姜のほんのりとした香りがエビの風味と良く合います。4品目はふかひれと野菜入りの蒸し餃子です。餃子の皮は浮き粉で作られて透き通っており、味も色もすっきりしています。餡にはスープで味が付けられているので醤油はいりません。次も追加注文した鯛の上湯姿蒸です。醤油味の上湯と油の混ざったスープが掛かっていて、パクチー、ネギ、生姜が薬味として載っています。鯛の肉は素材の味がはっきり残っていて、脇からソースがその味を盛り立てているという料理です。コース5品目は、揚げた春巻きの皮を巾着型の入れ物にして、その中にXO醤で炒めたアワビ、キノコ、アスパラガスを入れたものです。これは全体があっさりしています。干しアワビはちょうど良い具合に戻されていて柔らかいです。6品目は北京ダックです。この店のは肉がきれいに削ぎ取られていて完全に皮だけになっているタイプです。細切りのネギときゅうりが甘めの味噌タレに添えられています。鴨を包むのはクレープ皮ではなく、中華饅の生地です。ハンバーガーのように具を挟んで食べます。中華饅の生地はねっとりしていて鴨皮のカリッとした香ばしさを際立たせます。コースの最後は牛肉の黒コショウ炒めです。茹でたブロッコリーと炒めたキノコが添えてあります。上湯で溶いた黒コショウ油で肉が隙なくコーティングされていて、さっぱりした口触り中にうまみが凝縮しています。肉はかなり柔らかいです。次に追加で頼んだチャーシュー・ネギそばが来ました。私はずいぶんラーメンを食べ歩きましたが、結局、このラーメンが歴代一位の美味しさです。麺は小麦の香りが高く、普通のラーメン屋では経験しない風味です。スープは中華の名店が老鶏からじっくり採った出汁で作られていますから、やっぱりさすがと思わせる底力があり、研究熱心な日本のラーメンの有名店でもなかなか太刀打ちできません。コースに含まれている御飯物はトマト炒飯です。トマトの味はイタリアンのようにしつこくはありません。パラパラ系というより、少ししっとりした炒飯です。デザートは、マンゴープリン、イチゴとパイナップルが載ったキウイのゼリー、杏仁豆腐です。マンゴープリンは新鮮なマンゴーをたくさん使っているのがよくわかります。キウイのゼリーは透き通った緑色で、見た目も味も爽やかです。杏仁豆腐はシロップに浸かっているタイプではなく、外見はプリンのようです。市販のものより香り高いのは本物の杏仁が使われているからだと思います。以上ですべてです。コース料理、追加の料理、飲み物、サービス料、税金でお勘定は一人分がコンビニのバイト2日分ぐらいです。結構なお値段ですが、期待が裏切られることはありません。それどころか期待以上で納得の大満足です。
博士はグルメ日記を書き上げると、それをプリント・アウトして家族みんなに見せ、感想を言い合ったり、後で一人で眺めて懐かしく思い出したりして、楽しんでいます。土曜日、日曜日はこれでかなりの時間が潰れてしまいますし、お金もそれなりに掛かりますが、博士の休日は充実しています。
こんな事をかれこれ10年も続けてきたので、いつの間にかグルメ日記は厚いファイル・ノート20冊にも達しました。ただ、博士はそのうち少しづつ物足りなさも感じてきていました。味の客観的な記録が決定的に足りないからです。料理やお店の外見は写真で客観的に記録できます。料理の感想ならいくらでも書けます。しかし、料理の味そのものはほとんど記録できていません。せいぜい、旨味が濃厚であるとか、隠し味に昆布が使われているとか、食感がほっこりしているとか、その程度の記述で誤魔化すのが関の山です。時間が経って舌が味を忘れてしまえば、グルメ日記をいくら読み返しても、味をありありと想い起こすことはできません。
現代では、見える物は写真やビデオで、聞こえる物は録音機で、それぞれ記録・再生できますが、味は本質的に記録・再生ができません。博士のグルメ日記の欠落感は最終的にはここに起因します。やがて、博士は、食べ物の味を写真のように記録できないか、と考えるようになりました。このテーマは、当初は博士が関心を抱いているいくつかの科学的課題の内の一つとして、時々頭の片隅で思い起こされる程度のものでしたが、そのうち徐々に頭の中の広い部分を占めるようになり、やがて、彼の最大の科学的関心事に発達していきました。しばらくして、それまで携わっていた新薬の開発が一区切りついたのを機に、博士は正式に、味を写真のように記録し、再生することを国立医学薬学研究所における自分の主たる研究テーマとしました。
博士がこの研究を始めた頃には既に味覚を定量的に測定できる味覚センサーが市販されていました。その原理は人間の味覚の認識を機械に模倣させたものです。人間の味覚は、甘味、苦味、塩味、酸味、うま味の5つからなるとされています。味覚センサーはこの5つの味を惹起する物質と反応する人工膜を作製し、試料中の味覚物質と人工膜の反応を電位の変化として測定し記録するのです。博士はこの方法に根本的に懐疑的でした。博士には味の要素がたった5種類しかないというモデルにまったく納得がいきませんでした。5種類の味の要素の強度の組み合わせだけで、ふかひれのスープやエビのチリソース煮の味が完全に正確に記録できるとは思えなかったのです。食品の味はこれだけ複雑なのですから味の基本的要素はもっと種類が多いはずであると確信していました。博士は当時の主流の味覚センサーの原理とは全く違う方法を模索したいと考えていました。
博士は初め、食べ物をミキサーに掛けて液状にし、その溶液中で上記の5要素に含まれる味を呈する物質の濃度を測定するという、味覚センサーの研究の初期に行われていた原始的な方法で研究を始めました。博士は研究をこの方向で発展させていこうと考えていました。甘味としてグルコース、フルクトース等、苦味としてタンニン、カテキン等、塩味として塩化ナトリウム、カリウム等、酸味として酢酸、クエン酸等、うま味としてグルタミン酸、イノシン酸等の量をそれぞれ測ってみました。味をいくつかの構成要素に分解して、その物質の濃度を正確に測定する、そして徐々に測定対象とする物質の種類を増やしていけば、最終的には総体としての味を正確に記録できるのではないかと考えたのです。
実験を進めていくと、データはいくらでも出てきます。しかし、博士はどうも満足できません。検討した物質の数だけ項目があるレーダーチャートに解析結果を表示しても、それは無味乾燥なデータの羅列であり、味を写真のように記録したことにはなりません。これは測定する物質の種類をいくら増やしていっても同じでした。結果から導き出されるものが根本的に博士の望むものとは異なっています。博士は、また、検討対象のすべての物質が測定された通りの濃度で溶解されている溶液を作ってみて、測定結果から逆に元の味を再現できるかを検討しました。味わってみると、これは絶望的に、元の食べ物とはかけ離れた味です。確かに甘い、苦い、しょっぱい等の味の程度は同じなのですが、総体としてはオリジナルとは程遠い代物です。しばらくはじっと我慢して、検討する物質の種類を増やしていくことで味の再現性の精度を上げていこうとしましたが、いくらやっても再現された味が元の食べ物の味に近づいて来ているという実感が得られません。測定する物質は最終的には600種類まで増えましたが、結果は改善しませんでした。博士は3年の苦闘の末に、この方向で研究を進めることを断念しました。
博士はここで出発点に立ち返ってよく考え直しました。博士の夢は味を写真のように記録することです。写真は視覚で捉えられる風景をフィルムに写し取り、それを写真として人間の目に提示することにより、再び視覚に戻しています。つまり、オリジナルとその記録は同じ視覚で人間に捉えられています。それなら、味も味覚で感じ取ったものを写し取って、それを再び味覚に戻してあげれば良いのではないかと思いつきました。味覚で感じたものを味覚で再び知覚させるということは、つまり、味覚を司る神経の感覚を記録し、それを味覚を司る神経に再び戻してあげるということです。
博士は、味を物質的な要素に分解して解析するのではなく、人間の感じる味覚を生理的な要素に分解して解析してみようと考えました。人間の味覚には受容体を介する5つの味の要素と、化学的刺激、温度、食感等の、受容体を介さずに直接神経に伝わる感覚があります。受容体を介するものも介さないものも、結局は末梢神経を興奮させることにより、情報は電気信号として中枢神経へ伝達されます。ですから、末梢神経のレベルで電気信号を捕捉できれば、味覚を電気生理学的に解析できるはずです。味覚を伝達している神経は主として三叉神経、鼓索神経、舌咽神経の3つです。博士はこの3つの神経の電気信号を研究の対象としました。実験は、まず、元素的な味覚に対応する電気信号の最小基本単位を同定することから始めました。末梢神経を伝わっていく電気信号のレベルで、各種の元素的な味覚に特有な特徴を有する電気信号の最小基本単位があるのではないか、と考えたのです。最小基本単位は、普通の味の濃度の刺激では末梢神経上の電気信号としては複数の波形が互いに重なり合ってしまって分離・同定するのは困難ですが、極めて微小な単一の味刺激を舌に与えれば、重なり合わない、ある味覚に特有の最小基本単位の電気信号を同定できるはずだと仮説を立てて、この方向で実験を進めました。
塩、砂糖等の元素的な味しかしない物質を極薄い濃度で舌に乗せ、その時に三叉神経、鼓索神経、舌咽神経の3神経に生じた電気信号をそれぞれの神経に配置した電極で記録していきました。この実験を繰り返すことにより、特定の元素的な味覚を与えた時に生じる特異的な電気信号の最小基本単位を68種、分離・同定することに成功しました。これらはそれ以上細分化することのできない最小単位の電気信号です。この実験によって、人間の感じる味覚の基本的構成要素は、末梢神経上の電気信号のレベルでは68種類であることがわかったのです。受容体を介するものでは、甘味13種、苦味10種、塩味10種、酸味11種、うま味12種であり、受容体を介さない化学的刺激、温度、食感等の感覚は12種類でした。
この成果だけでも世紀の大発見です。しかし、博士はここまでではまったく満足できませんでした。博士にとってはここがちょうど中間地点です。実際の料理を食べた時には、上記の68種の最小基本単位の電気信号が多量に同時に励起され、大きな電気信号となって一斉に末梢神経を伝わって行きます、それを普通に電極で拾ったのでは、電気信号はすべてが重なり合った干渉波となっているので、そのままでは解釈の可能な意味のある情報ではありません。博士の次の研究目標は、最小基本単位が重なって巨大な干渉波となった末梢神経上の電気信号を、なんとか最小基本単位の電気信号に分離して記録することです。博士はこの困難な問題をそれからさらに3年の努力で解決しました。干渉波にそれぞれの最小基本単位に特有の周波数のフィルターを掛けます。それを2回から3回、フィルターを変えて繰り返すと、68種の最小基本単位のうちの単一種の最小基本単位しか含まない電気信号だけが抽出でき、最小基本単位が複数個重なっただけの干渉波が出力されてきます。後はそれをさらに一つ一つの最小基本単位に分離すればよいのです。この解析を68種の最小基本単位全部について施行すれば、巨大な干渉波中に68種の最小基本単位がそれぞれいくつ含まれているかを計測できます。こうして博士は、末梢神経上の巨大な干渉波を最小基本単位ごとの電気信号量として測定することに成功したのです。
博士は遂に、味を完全に人間が感じている味覚として客観的に記録することを可能にしました。さらに、この成果の驚異的な点は、記録された味覚の電気信号をそのまま三叉神経、鼓索神経、舌咽神経に電気刺激として入力すると、実際に食物を食べた時のそれぞれの神経の興奮がきれいに再現されて、それが脳に伝達されるということです。つまり、博士は味覚のレコーダーと共に味覚のプレーヤーも同時に開発していたのです。この方法では、本物の食べ物と全く同じとはいかないものの、風景を白黒写真で撮ったぐらいにはオリジナルの味覚を再現できていました。佐藤博士の研究はこれで完結しました。博士の念願である、味を写真のように記録し再現することが実現したのです。
この成果は瞬く間に製品化され、世界中で売り出されました。研究の方向性を決める着想の元となった博士のコンセプト「味を写真のように記録する」から、この製品は味覚カメラと名付けられました。「味を写真のように記録する」はこの製品のキャッチ・コピーともなりました。味覚カメラはポータブル・オーディオ・プレーヤーを上下逆さまにしたような形をしていて、耳の下から下顎にかけて皮膚にピッタリとくっつけて装着します。初めて購入した時には、利用者の顔の形や神経の走行に合うように装置の簡単な調整が必要ですが、2回目からはヘルメットを被るように簡単に装着できます。味覚の記録は味覚レコードと呼ばれるようになり、今では単にレコードと言ったら味覚レコードのことを指すようになりました。
味覚カメラが世界に与えた影響は衝撃的でした。味覚カメラの最も基本的な働きである味の記録・再現機能は味に関係するありとあらゆるものに使われています。例えば、美味しいレストランを紹介する本、食べ歩きのエッセイ、旅行ガイド等にはすべて味覚レコードが付いていて、取り上げられている料理の味見ができます。テレビ、ラジオでは番組の中で味覚レコードを流していて、視聴者は味覚カメラを接続するだけで、放送されている味を体験できます。インターネット上の食べ物に関する情報にも味覚レコードが添付されていて、アイコンをクリックするだけで試食ができます。レストランや旅館のパンフレット、デパートのチラシ、食品の通販のカタログ等にも使用され、自宅に居ながらにして味をみてみることが可能です。実際にレストランに行っても、メニューには味覚レコードが付いているので、味を確認してから注文できます。
街には、本物の食べ物を扱わず、味覚レコードだけを提供する味覚カメラ・バーが現れました。メニューから自分の好みの味を選び、味覚カメラで味を楽しむのです。味覚カメラ・バーの客の姿は、普通のバーで酒を飲んでいる人達と変わりません。数人の友人と連れ立って来ておしゃべりをしながら味を楽しんだり、一人で本を読みながら店の自慢の味覚レコードを味わったりしています。また、味覚レコードはすぐに映画の中にも取り込まれ、映画は映像・音楽・味覚レコードの3つを統合したものになりました。
味覚カメラは調味料としても利用されています。塩、砂糖等の単純で単一の味なら本物とほぼ同じ味を再現できるので、食事をしていて、もう少し塩味が欲しいな、という時には、味覚カメラで好みの量の塩味を再生させればよいのです。レストランでも、テーブルの上に調味料を置く代わりに、味覚レコードを提供している店があります。同様に人工的なグレープ味、オレンジ味、アップル味等の再現は得意ですから、清涼飲料水、ガム、キャンディの多くは今では味のついていないプレーンのものだけが売られており、後は食べる人が味覚レコードで好みの味付けをします。最近の味覚カメラには基本的な味の味覚レコードが初めから搭載されており、その濃度もボリュームのように調節できます。さらに、調味料と言うよりむしろ食品に近い味覚レコードも登場しています。味覚レコード食品です。一昔前のレトルト食品のカレーのような位置付けのものです。白いご飯を食べながらカレーの味覚レコード食品を再生すれば、カレーライスを食べているのと同じになります。カレー、ハヤシ、ラーメンのスープ、スパゲティのソース等のたくさんの種類の味覚レコード食品が売られており、スーパー・マーケットには専用のコーナーがあります。
味覚レコードのもう一つの大きな特徴は、写真や録音が物理的なものである光や音を直接記録したものであるのに対して、味覚レコードは人間の感覚をデジタル・データとして記録したものであるということです。そのため、味覚レコードには記録の舞台となった人がいるという属性が加わっています。これは食通のAさん、あれはセレブのBさん、そちらはアイドルのCちゃんが感じた味という側面があるのです。このことが味覚レコードを、単なる料理の味のデジタルな記録というだけではない、より人間の個性と結びついたものにしています。さらに、この特徴は必然的に味覚レコードの記録の舞台を人間以外にも広げていきました。牛やトラ等の動物が感じている味覚も人間が体験できるようになったのです。こうして、色々な人、種々の動物が味わった多数の食べ物の味覚レコードという無限のバリエーションを持った味の領域が切り開かれ、世界中で盛んに楽しまれています。
味覚レコードは社交の手段としても利用されています。自分の気に入っている味レコードを人と交換することがコミュニケーションの手掛かりとしてよく行われています。初対面の人や職場の同僚や仕事の取引先の人と名刺代わりに味覚レコードを交換して感想を言い合うのです。男女もまず、お気に入りの味覚レコードを交換し合うことが交際のきっかけとなることが多くなってきました。これが私の好きな味です、という小さな好みの情報交換からお互いが打ち解けていくのです。また、味覚レコードは完全にデジタル情報ですから、54桁の数字と同等の情報量を持っています。ですから、他人に公表していない味覚レコードなら、自分の好みの味を自分認証用の鍵として使うことが可能です。
味覚レコードという味のデジタルな記録方法ができたことによって、味は職人技的な感覚に頼らなければならないあいまいなものではなく、正確かつ客観的に記載できるものとなりました。これは、いわば未開の荒野に地図が作られて、荒野のすべての地点が座標軸上の位置として把握できるようになったのと似ています。一つの味が一つのデジタル・データとして位置付けられるようになったので、その味に対する評価も固定できるようになりました。美味しさというものが科学的なデータとして客観的に分析できるようになったのです。このおかげで、徐々に、美味しさにはデジタル・データ上のいくつかのパターンがあることがおぼろげながらわかってきました。しかし、現在は未だ過渡期でその法則は完全には解明されていません。そのため、味覚レコードの美味しさのパターンの認識・創造は、音楽における美しいメロディの認識・創造のように、人間の感性に未だ依存しており、美味しい味覚レコードのパターンの発見・創造には芸術家的能力が必要になります。この点に優れた創造力を持つ人達が美味しい味覚レコードを人工的に製作して発表するようになり、一部の人の作品は高く評価されるようになりました。芸術としてのバーチャル味覚レコードの登場です。元々、料理には芸術としての側面がありましたが、バーチャル味覚レコードの出現によって、料理というよりも純粋な味そのものの創造が芸術として認識されるようになりました。さらに、味覚レコードは完全なデジタル情報ですから、その味は料理のように素材の良し悪しや鮮度に縛られることはなく、作者の創作した通りの味が鑑賞者に提供されます。この外界の条件による制限の少なさ、自由度の高さは音楽における作曲と完全に同等です。この特徴が人々に味覚レコードは料理とは別の新しい純粋な芸術分野であることをしっかり認識させました。バーチャル味覚レコードによる料理のフルコースが、クラシック音楽の交響曲のように創造され、発表されています。バーチャル味覚レコードの味コンサートもよく開かれ、そのフルコースの美味しさを競う大会が次々と開催されています。
味覚カメラの製品化から3年後、佐藤博士は味覚の神経生理学的研究とその味覚カメラへの応用の業績で遂にノーベル医学生理学賞を受賞しました。博士の受賞は成果の発表から受賞までの期間がノーベル賞としては今までに例がない程の短さでしたが、世界に与えた革命的な影響の大きさから受賞は当然と見なされました。博士は率直に自分の研究の価値が認められたことを喜びましたが、それにも増してノーベル賞の授賞式の後の晩餐会が楽しみでなりません。もちろん、味覚カメラを装着して晩餐会の料理の味を記録し、グルメ日記を書くつもりです。生涯で最高のグルメ日記になるだろうと、その日を心待ちにしていると、わくわくした気持ちが自然と湧きあがってくるのを抑えることができません。
博士は12月4日にストックホルムに到着し、10日にコンサート・ホールでのノーベル賞授賞式に出席しました。それに引き続いて、市庁舎に移動すると、待ちに待った晩餐会です。メニューは、前菜がサーモンとホタテのテリーヌ、ズワイガニとイクラのミルフィーユ、カリフラワーのムース、メイン・ディッシュがフォアグラとアワビのソテー・バルサミコ・ソース掛け、付け合せはアンティチョークのオーブン焼きとマッシュド・ポテト、デザートは西洋ナシのマデイラワイン煮、桑の実のアイスクリーム、ブラック・チェリーのタルトです。博士はスエーデン王妃にエスコートされて入場し、席も王妃の隣でした。彼は人生最高のグルメ日記を書く希望に燃えていましたので、晩餐会の席に着くや否や、まず、会場や出席者の写真を何枚も撮りました。加えて、料理が運ばれて来るまでに味覚カメラをきちんと装着しておかなくてはならないので結構な忙しさです。ノーベル賞の対象そのものの味覚カメラを当の開発者の佐藤博士が装着していく様を、王妃は微笑ましく眺めながら、いろいろ話しかけてきます。博士は気恥ずかしくもあり、緊張もしていましたが、王妃に言葉をかけていただいているのをたいへんな名誉と感じ、丁寧に受け答えをしながら、こんなに充実した濃密な時間はないと思いました。そうこうしているうちに、いよいよ、前菜が運ばれてきました。博士は完全な満足感の中でゆっくりとフォークを取って前菜を食べ始めました。サーモンとホタテのテリーヌは、冷たく透明なゼリー質の中に軽く茹でたサーモンとホタテが大理石模様に散りばめられています。2つ素材の味がそれぞれしっかり残っていて、お互いに共鳴し合っています。ズワイガニとイクラのミルフィーユは、カニのほぐし身とイクラが薄いパイ皮で一層ごとに仕切られ重ね合わせてあります。繊細な構造をサクサクと崩しながら口に運ぶと、じわっとしたカニの風味と濃厚なイクラの個性が一斉に主張を始めます。カリフラワーのムースは、慣れ親しんだ味ときめ細かい気泡を含んだ生地の食感の乖離が食べる者を新世界にいざないます。料理の味は完璧だと思いました。こんなに素晴らしい味を現実の体験一回で過去に置き去ってしまうのは余りにもったいないと思い、後で味覚カメラで何度も再現できる幸せをしみじみと感じました。次に、メイン・ディッシュが運ばれて来ました。料理がすべての席に整えられると、再び一斉に出席者が食べ始めます。博士も続いてフォークを持ちましたが、晩餐会の席に着いた時の、天にも昇るような気持ちに少し陰りが差し始めていました。博士はある微妙な違和感を感じ始めていたのです。
「私の味覚カメラは感覚神経の電気信号を記録するものだ。今はまだ、記録の対象は味を司る神経だけだが、いずれ人間のすべての感覚神経の電気信号を記録できるようになるだろう。このノーベル賞の晩餐会で私が感じているすべての感覚を完全に記録し、そして再生できるようになるのだ。しかし、今の私は味覚の記録しかできていない。これはまったく惜しいことだ。もう少し私の受賞が後であったならば、私の人生最高の想い出を完全な形で残せたのに。それができずに、この貴重な時間は不十分・不完全な記録だけを残して永遠に失われてしまうのだ。私は、全感覚神経の記録ができるようになってから、この晩餐会に出席したかった。そうすれば完全なグルメ日記が書けていたのに。いや、しかし、ちょっと待てよ。私の全感覚神経の活動が記録されたら、人は私のグルメ日記など読まずに、私の全感覚を全感覚カメラで再現して体験しようとするはずだ。さらに、これは何も私の経験に限ったことではない。すべての人間のすべての経験が記録できるようになり、そのすべてを他人も同様に経験できるようになるのだ。究極的には、ある人間が生まれてから死ぬまでのすべての経験を記録でき、それを他人が経験できるようになる。この技術が、もし、去年、開発されたクローン人間の作製技術と組み合わせられたら、たいへんなことになるぞ。人間の全人格を決定するのは遺伝子と出生後の経験の2つだが、遺伝子をクローン人間作製技術で再現し、出生後の経験を全感覚カメラで再現したら、完全なコピー人間を作ることが可能になる。21世紀のヒトラーはコピー人間の作製が可能なのだ。」今や博士には料理の味がさっぱりわからなくなってしまいました。せっかくのノーベル賞の晩餐会の料理の味がこのまま失われてしまったら、グルメな佐藤博士にとっては悔やんでも悔やみ切れない一大痛恨事です。博士はこんな時のためにも味覚カメラを発明していて本当に良かったと思いました。