第一話
気が付くと少年は、白い世界にいた。
右を見ても左を見ても一面真っ白なその世界は、距離感がうまくつかめない。そもそも距離なんて概念があるのかも不明で、不確か。
「ようこそ、遠い世界の人」
きれいな声だと、少年は思った。鈴のようなというのとはまた違った、どこか麻薬的な魅力のある声。声の方を向くとそこには、その声にふさわしい美しい女性がいる。
肌はこの世界と同じように白く、対して髪と瞳は闇よりも暗い。
「あなたは」
「私は世界。あるいはその住人から女神とよばれる存在です」
「女神、様」
少年は女神と名乗った女性から目を離せなくなる。女神は小さく、その視線に応えるように微笑む。いつもなら照れて視線を外してしまいそうな場面だが、どうしてだろう、その時の少年はただまっすぐと、その瞳を見つめ返していた。
「初めに謝っておきます。私の世界の住人が、無理やりあなたを召喚してしまったようです。申し訳ありません」
「え、あ、召喚……ですか?」
「はい。あなたは運悪く、勇者に選ばれてしまいました」
運悪く、勇者に選ばれる。
その言葉は現実味を持つことなく、耳を右から左へと通り抜ける。女神はそんな様子の勇者を慮り、軽く白い世界に手をかざす。するとあたりで波紋が起き、それが止むころには白の世界に美しい石造りの街の風景が現れる。
「この世界、そして私の名前は『リーン』。あなたを召喚した国は『ガラド王国』と言います」
「リーン、ガラド王国」
「いきなりだと混乱するでしょう。勝手なことをした私の『子』の代わりに、せめてものお詫びとして、世界のことを説明させてください」
そう言ってさらに両手を振り、新たに二つの波紋を起こす女神。
先程の石造りの街とは違い、二つの波紋の後には豊かな森と荒廃した大地が映る。
「『リーン』には三つの国が存在します。一つは人間の国、ガラド王国、一つは亜人の国、ハラヴェド、一つは魔人の国、アイゼン」
石造りの街を手で示し、ガラド王国。
豊かな森を手で示し、ハラヴェド。
荒廃した大地を手で示し、アイゼン。
勇者はただ呆けることしかできない。これは夢なのかなんて、そんな事すらも尋ねることは出来ない。
「ガラド王国は三国の中で最も人口が多く、土地の面積が狭い。ハラヴェドは逆に最も広く見た通り自然が豊かで、またそこに住む亜人たちは人間より強靭な肉体を持っています。魔人というのは人間に魔法が付与された種族を言い、その肉体の構造はほとんど変わりませんが、体の一部に魔法陣が刻まれています。また、魔人はもともと魔法に優れた種族なので、魔法技術という点においては魔人国アイゼンが最も進んでいます」
「魔法が、あるのですね」
「これは失礼しました。あなたの世界、地球にはないのですね。そうです、この世界には魔法が存在します。私が魔法のある世界として、作り上げました」
勇者は黙って話を聞く。
魔法は誰にでも使える技術であり、その種類は豊富。ただし女神の生み出した魔法しか存在しないので、新種の魔法が生み出されることはない。異なる世界、地球から来た人間もまた、知識を得て訓練を積めば魔法を使用できるそうで、勇者はその一言に少しだけ、胸を躍らせる。
「それから……ああ、すみません」
女神が言葉を止める。
「時間が、来てしまったようです」
「時間? もうお別れってことですか」
「はい。私は神ですが、全知全能ではありません。人が自身の血の流れを止められないように、私もまた、あなたをいつまでもここに引き留めておくことは出来ないのです。どうか、理解してください。あなたはここを通過し、リーンへと旅立つ」
「はあ……」
「どうか、あなたに訪れるのが幸せな未来であることを祈っています。では……」
そう言って女神は深く、頭を下げる。
白い世界は次第にその輝きを増し、勇者は目を細めた。
*
勇者は正方形の部屋の中に立っていた。
「ああ、勇者様」
勇者の足元には魔法陣があり、そこから放たれる淡い光だけがこの部屋の光源らしい。部屋の中はずいぶん、薄暗かった。声とともに勇者の元へと歩み寄る人物が一人。鮮やかなドレスを着た十代後半くらいの少女であった。
「姫様、あまり突然近づかれては……」
「ああ、すみません。でも想像よりずっと、勇者様が魅力的だったものですから」
そう言って少女、ガラド王国の姫は頬を朱に染める。
その仕草は間違いなく、その時の勇者の心をときめかせたのだった。
……私はそれを白い世界から見下ろしている。
片膝を立てて座り、ただぼんやりと、それを眺める。何百年前だったか、いつかに召喚された勇者が最初にかけられた言葉も確か、「ああ、勇者様」だったなと思いながら。
何が「幸せな未来であることを祈っています」だろうか。かつての私なら本当に手を合わせ、彼が死ぬその時まで祈っていたのかもしれないが、今の私にはそうするだけの気力も、思いやりも、なにもない。
ここはあまりにも退屈だ。
時間という概念がないからだろうか、それとも、私が死なないから?
私は白い世界ののぞき穴に手をかざし、『世界』の時間を早送りする。
召喚された勇者はシャカシャカと高速で動き、姫に利用され戦争の道具にされかけたところを命からがら逃亡、最終的に亜人の国へと飛び込んだ。最初こそ最悪であった勇者だが、どうも亜人の国では善い待遇を受けているらしい。まさかあんな口先だけの祈りが届いたわけではあるまいが、彼にはどうやら、幸せな死が待っていそうだ。
「うらやましいことね」
独り言ちる。言葉を発するにも、この世界は寂しすぎた。
私は試しに、自分で自分の首を絞めてみる。こんな戯れもいつ振りだろうか、それとも時間という概念のないこの世界では「いつ振り」なんてものは存在せず、すべてが連続しているのか。
まあどうでもいい。
大事なのはただ一つ、いくら首を絞めたところで私は死ねないということだ。
だって私には、呼吸が必要ないから。
手の跡がはっきりとついた首を、そっと撫でる。いつからだったか、痛みを感じることも少なくなったように思う。その原因が私の精神状態なのだとしたら、つまりは、最悪ということ。
「ああ……早く滅んでしまいたい」
私はすでに、神としては失格なのだ。
「おや?」
再びガラド王国を見下ろすと、姫が何やら顔をゆがめて、叫ぶように魔導士たちを呼び出していた。私はそこで早送りをやめ、じっと、待つ。
『……あの裏切り者のことは忘れましょう。代わりに、新たな勇者を召喚します。それも、とびきりたくさん』
「へえ」
そういうことをするのか、と私の『子』ながら感心する。また私の中に、どこから来たかもわからない不純物を混ぜ込もうというのだ。いや、それは別段かまわない。彼らはむしろ、私の退屈を一時的にだが紛らわせてくれる。彼らがいない時の私は、自分の右手と左手がじゃんけんするのを見守っているのと変わらないのだから。
私は静かに立ち上がる。
また、勇者がやってくる。世界から世界を渡る過程で必ず通る、どこまでも白い神の世界。迎える準備をしなくては。
軽く発声練習。必要ないのはわかっていても、これもまた戯れなのだ。
それにしても、今回は本当に数が多い。一、二、……全部で三十二人か。そう数えながら、私はふと、思いついた。
……なるほど、こうすればもしかしたら、私は死ねるんじゃないだろうか、と。
私は勇者の数に合わせて姿を分け、三十二の『私』となってそれぞれ別の白い世界を作り、三十二人を迎える。この『私』のところに来たのは、純朴そうな少女だった。
「あ、あの、こ、ここはどこでしょうか……?」
おさげの可愛らしい、少しだけ垂れた目の女の子。
名前は聞かずともわかる、犀川恵美というらしい。私は出来る限り、柔らかい微笑みを浮かべたまま恵美の前へと近づく。
「ようこそ、遠い世界の人。あなたは運悪く、勇者として召喚されました」
「ゆ、勇者……? 召喚?」
「はい。そして……」
恵美は少し警戒したように後退ったが、この世界の距離なんて、私の前では無意味だ。私は恵美のその細い首へと、両手を伸ばす。
そしてそっと撫でてから……一気に締め上げた。
「な、え、ああッ……!」
細い悲鳴も押しつぶされ、その顔はみるみる白くなっていった。
まるで、この世界みたいね。
犀川恵美は必死に抵抗したが、結局、一瞬のうちにこと切れてしまう。そんなにあっさり死ねるんだ、そう少しうらやましく思いながら私は、ぐったりと重いその肉の塊を自分の中へと取り込んだ。
口から、丸のみだ。
他の三十一人の勇者に説明を終えた三十一の『私』が戻ってくる。どうやらそろそろ、勇者たちがこの白い世界に留まっていられる時間が終わり、『リーン』へと召喚されてしまうらしい。
三十二の『私たち』が、混ざり、溶けながら笑う。
「いいことを思いついたものね」
「悪趣味だけど」
「悪趣味? じゃあそもそも悪とは何なのかしら」
「はぐらかすにしても、もう少しましな文句があるんじゃない?」
「そんなことはどうでもいいの」
「これでやっと」
「私は死ねる、かもしれない」
白い世界に、ばいばい。
*
ふわりという浮遊感。そして次の瞬間には、固い床へと落ちていく。三十二人が一度に落ちたからか、床からはどすんというすごい音がした。
「いたた……恵美、大丈夫?」
「う、うん大丈夫だよ」
「……スカートは大丈夫じゃないみたいだけど」
「はわわっ!?」
私は慌ててめくれかえっていた制服のスカートを正す。そっと周囲を窺うと、気まずそうに数人の男子が視線を逸らした。
あ、あれは間違いなく、見られた……。
かーっと赤く染まる頬を、両手で覆い隠す。
「もうお嫁にいけましぇん……」
「大丈夫、恵美。未来の旦那にはもっとすごいの見せてやればいいだけだって」
「もっとしゅごいの!? えっと……はわわっ!」
私はもう一度、両手で顔を覆った。
それをけらけらと、幼馴染の東雲雪ちゃんが笑う。もう、恵美は相変わらず恥ずかしがり屋だなあ、と。
誰にでも優しく、少しだけ臆病で、とびきり恥ずかしがり屋。
それは確かに東雲雪が昔から知る『犀川恵美』の姿。
……だけどね、違うんだよ、雪ちゃん。隠したのは別に、恥ずかしいからじゃないの。
私はその覆った手の下で、自分の口角が釣り上るのを感じた。
完璧だ。思った通り、私は白い世界と決別し、こうして『リーン』へと降臨することが出来た。
――殺した『犀川恵美』を取り込み、『勇者』に成り代わることで。
女神である私が、私の中の世界へと。
「おい、てかここ、どこだ?」
「女神様が言ってた通りだと、ガラド王国ってところみたいだけど……」
次第に事態を飲み込み始めた生徒たちが、周囲に目を配る。そこは私が白い世界から見ていた、魔法陣のある石造りの部屋だった。床の魔法陣の淡い光に、周囲の黒いローブの魔法使いたちが怪しく照らされる。
雪ちゃんがぎゅっと、守るように『犀川恵美』の手を握る。
だから私も『それらしく』、小さく手を震わせておいた。
「すみません、どなたか、説明していただけませんか?」
そう言ったのはクラスのリーダー、赤羽優斗。顔も性格もよく人望も厚い、“リア充”という奴らしい。彼がそう周囲の魔法使いたちに語り掛けると、その中から一人の女性が前に出る。黒いローブの集団の中で一人、美しいドレスに身を包む、触れただけで壊れてしまいそうな儚い雰囲気の女性。
私は知っているぞ、お前のことを。
ガラド王国の姫、シャーリー・ガラド。
亜人と魔人を忌み嫌い、この世界を人間によって統一せんと画策する、ガラド王国一の猫かぶり。
以前の勇者召喚から数年たっているので年は二十代前半といったところか、幼さを捨て美しさを手に入れた姫は、その頬を器用に朱に染め、赤羽の元へと歩み寄る。
「ああ、勇者様」
私は思わず笑いそうになる。なんて、芸のない。
だが決して笑ってはいけない。だって今の私は彼女の本性を知らない、『誰にでも優しく、少しだけ臆病で、とびきり恥ずかしがり屋な犀川恵美』なのだから。
ああ、シャーリー姫。私はお前が『世界征服』なんて馬鹿げたことを企んでいることを知っている。亜人を退け、魔人を殺し、人間がすべてを支配すべきだと考えていることを、知っている。
だけど私は決して、お前の企みを邪魔したりはしないよ。自由にするがいいさ。必要とあらば『犀川恵美』としていくらでも利用されてやろうじゃないか。
その代り……
お前のことも目一杯、女神が世界を殺すために利用させてもらうとしよう。
私はまたそっと、口元を手で隠した。
『犀川恵美』はきっと、こんな邪悪な笑い方をしないだろうから。
「……ああ、これでやっと」
私はやっと、滅ぶことが出来るかもしれない。