真夜中のプール
秘密というのはどうしてこうも甘いのだろう。
誰かに自慢したいけれど、もったいなくてそんなこととてもじゃないけどできない。
この思い出も、気持ちも、空気も、全部独り占めしたいのだ。
灯の家はこの街の中でも、とりわけ高いところにある。
何処へ行くにも坂道やら階段が付き物だ。
だけどその代わり、見晴らしはとてもよく、天気がいい日は少し先の海が太陽を反射してキラキラする様が綺麗な絵画のように見える。
そんな風に海も街も一望できるこの公園には、灯に出会う前からよく来ていた。
灯の家とは違って、海に近い場所にある僕の家からは海は間近に見れても遠くまで見渡すことができない。遠くまで続く海が見たくて、僕はこの場所を見つけた。
すっと差し込む光がまるで線みたいに、一筋の柱を作って海に注がれる姿はなんとも幻想的だ。
空に雲が多いほど、それは楽しかった。
ただそれでも一人で見続けることに意義があったし、誰かと見たいとかそういうことを考えたこともなかった。
7月の夕方。
夏の匂いがする風を受けながら、いつものように公園の中でも一番見晴らしがいいベンチに座って遠くを見つめている時。
灯は当然のように僕の隣に座って話始めた。
「夜を待っているの?」
僕の方を見ることなく、ただまっすぐ目の前に広がる景色を見ながら、彼女はそう聞いた。
僕には意味が分からなくて
「夜を待っているのかもしれない」
と答えた。
「夜が好きなの?」
僕はなぜかとても気になって、思わず聞いた。
「好きというか必要なの」
「どうして?」
「守るため。自分自身と大切にしているものを」
そうなんだ。と僕はまるでひとりごとのように呟いて口をつぐんだ。
何分そのままだったのかわからないけれど、時間が経って太陽がほとんど沈んだところで彼女はまたどこも見ていないような表情のまま僕に聞いた。
「あなた、秘密は守れる?」
「秘密の種類による」
「正直ね。こういう時は守れるって言わなきゃ」
彼女はくすくすと笑った。
彼女の笑顔をその時初めて見た。
それはとても素敵な笑顔だった。
「私の家、あそこなの」
彼女は公園のすぐ裏にある赤い屋根の家を指さした。
「明日の夜8時に迎えにきて」
えっ、どうして――
そう言いかけた時にはすでに彼女は駆け出していて、公園の出口に向かっていた。
「名前!」
僕はそんな彼女を引き止めることに必死で、思わず大声で叫んだ。
彼女は不思議そうにふりかえり、
「飯島灯!」
と、嬉しそうに名前を叫んだ。
そしてすぐに向き直って、今度は本当に帰ってしまった。
からかわれてるのかもしれないし、あんな口約束守る方がどうかしてるのかもしれない。
だけど、あの約束は絶対に守らなければいけない、とどこかで律儀に考えている自分もいた。
すでに3時くらいから5分に1回くらいのペースで時計を見ていた。僕はそわそわしていた。
どこへ行くのかも、何をするのかもわからない上に、そもそも彼女のことが名前以外ろくにわかっていない状況だ。なにも確かな事などなくて、一番不安定な口約束が一番確かな情報であることがおかしかった。
だけど、あんな少しの会話で、僕は彼女のことを気に入ってしまっていた。
また会いたい、と素直にそう思った。
どうせ暇だし、と僕は自転車を取り出し、昨日教えてもらった彼女の家へと向かうことにした。
彼女はすでに家の前で待っていた。
昨日の印象と、寸分たがわず、そこに確かに飯島灯がいた。
「ありがとう」
「ん?なにが?」
「来てくれて。あんなむちゃくちゃな一方的な約束守ってくれるか、わからなかったから」
そう思ってたんだ。
確かに昨日の彼女は夢の中で出会った人のように、なんだか現実感がやたら薄かった。
「で、どこへ行きましょうか?」
「あのね、学校に一緒についてきて欲しいの」
まさか行き先が学校とは思わなかった。
「…んと、忘れ物…とか?」
「やりたいことがあって」
「まさか窓ガラス割る、とかじゃないよね?」
「まさか!そんなわけないじゃない」
彼女はまた口に手を当て、くすくすと笑った。
「じゃあ、楠高校へ出発!」
「え、楠高校の生徒なの?」
「そうだよ。そこの3年」
知ってたでしょ?みたいな声色で彼女はなんでもないことのように言った。
楠高校と言えば、この地域で1、2位を争う有名女子高だ。
「あっでもね、お嬢様とかじゃないし。あたし不良なの」
不良と言う言葉が彼女を表す形容詞としてはあまりにも不釣り合いで、僕はぷっと吹き出した。
「まぁこんな時間に学校に行くなんて、不良だね」
「冗談じゃなくてほんとだよ」
彼女は頬をぷくっと膨らませて、僕の二の腕あたりを優しく叩いた。
当然、校門はしっかりと施錠されていた。
校舎の中で1箇所だけ電気がついているところが職員室だろう。
それ以外の場所は暗く闇に沈んでいた。
どこから入れば…と逡巡していると彼女が事も無げに「こっち」と言って、校門を横目にさらに奥へと進む。
「慣れてるの?」
あまりにも自然に落ち着き払った様子でいる彼女に慌てて聞く。
僕はさっきからドキドキが止まらない。
だって、ここら辺の男子なら一度は入ってみたいと思う楠高校に入るだけでも緊張するのに、その初めてがこんなふうに夜に忍び込むことだから。
「え?あ、うん。さっき言ったでしょ?不良だ、って」
こっちだよ、とさらにどんどん進んでいく彼女に、僕は置いていかれないよう必死について行く。
草むらに隠れて表からは見えづらくなっている通用門を乗り越えて、僕らは校内にするりと忍び込んだ。
「で、何するの?」
「こっちだよ」
ふふっ、と楽しそうに笑いながら、彼女は僕の質問に答えることなくさらに奥へと進んでいく。
教室棟だと思われる建物をふたつ超え、体育館倉庫を横目に見て敷地の一番奥の方に目的地があるようだった。
「ここ」
急に彼女は立ち止まり、少し先にあるプールを指さした。
「プール?」
「だって夏といえばプールでしょ?」
「でも――」
「月明かりの中で入るプールは気持ちいいだろうな、って思ってたの」
行こ、と言って彼女は僕の左手を取り、カギのかかっている入口より奥にある、職員用の扉から中へ入った。
「こっそり開けたままにしておいたの」
悪びれもせずにっこりと微笑んで彼女が僕にそう告げる。
「ほんと不良だよ」
「そうでしょ?」
まるで、不良という言葉が褒め言葉みたいに交わされるのが面白くて僕もくすくす笑ってしまった。
ぱしゃぱしゃと水の音が夜の闇に響く。
プールサイド脇に並んで座って、僕らは足をプールにつけて足をパタパタと動かしていた。
彼女は時折つま先をわざと水面すれすれで跳ね上げ、しぶきをより遠くに飛ばすことに集中する。
それがなんだかとても子どもっぽくて、もともと大人びた雰囲気の彼女にはそぐわなかったけど、とてもかわいらしいと思った。
「ねぇ、君はいつもこういうことしてるの?」
「こういうこと?」
「夜の学校に忍び込むとか、そういうこと」
「あぁ。夜の散歩はよくするよ」
さすがにプールは初めてだけど。と言って彼女は立ち上がる。
「なんだか昼間だけの顔や見たことある事だけが全てだ、なんて思いたくなくて。あたしたちがいない時間どうなってるかな、って思うことがあたしは世界を知るきっかけになると思うの」
「そうやって世界を知りたいの?」
「そう。そしたらもっとあたしはいろんなところへ行けるようになるだろうし、何かいろんな者になることができる気がするの」
まっすぐ前を見据えた彼女の横顔は、月に照らされてとてもきれいだった。
「だからもっとあたしはしたいことをするの」
ひとり言のようにつぶやくと彼女はプール脇から少し下がって助走をつけ、プールへ勢いよく飛び込んだ。
大きな水音が夜の校舎に響き渡る。
「ねぇ、一緒に入ろうよ」
彼女は濡れてしまった髪を直しながら、僕に向かって手を差し伸べた。
「こんな水音たてたらバレるよ」
「大丈夫。職員室はここから一番遠いの」
「ね?気持ちいいよ。一緒に入ろ?」
「でも…さすがに入るのはまずいよ」
「まずくないし、入らないで帰っちゃうなんてもったいないよ」
「そういうもの?」
「そういうものだよ」
ほら、早く。と言う感じで、手招きを何度もしながらプールの中で君が呼ぶので、僕も勢いよく飛び込んだ。
僕の心臓は早鐘のようにバクバクと音を立ていた。
プールの水にその振動が伝わって周囲に波紋が広がっていくような錯覚に陥る。
ふと目線をあげて彼女を見る。
彼女の濡れてしまった髪の毛が首筋に張り付いていた。
その髪の毛の流れをゆっくりと目で追う。
彼女の鎖骨で目が止まる。
目が離せない。
白い肌に月の光がきらきらと反射して、まるで彼女の内側からも光が漏れ出しているかのようだ。
「どうしたの?」
「いや」
見ていたことがバレバレなくらいの速度で目線をふと逸らし、そしてまた盗み見る。
彼女はもう僕の方に背中を向けて、月を見上げていた。
その背中にすっと入った線をそっと目でなぞる。
触れてはいけないような、でも触ってみたいような不思議な感覚に襲われる。
「あのね」
彼女はそっと言葉を選ぶように話し出した。
目線は月を見上げたまま。
「あたし、ずっとあなたと話してみたいって思ってたの」
「え、僕のこと知ってたの?」
「うん。あたしの家からあなたがいつも座るベンチが見えるから」
「あぁ、そういうことか」
「あの日、話しかけた日にね、あたし一生分の勇気を使ったの」
爽やかな風がプールの上を駆け抜けていく。
「話しかける言葉をずっと考えてた。あんな言葉じゃなくて、普通に声をかけたいと思ってたのに。変な声のかけ方で恥ずかしくて」
そう言うと、彼女は振り返って僕の目をまっすぐ見つめた。
「だけどあなたは答えてくれたから。私はそれだけで嬉しくて。今日も来てくれてありがとう」
彼女の背中越しに月が見える。
目の中に微かに涙のようなものが溜まっているのがわかるけれど、それは溢れることなくそこにどんどんと溜まっていった。
「こちらこそ楽しかった。こんな冒険、なかなか僕ひとりじゃできなかったよ」
「あたしも」
そうしてにっこりと笑った彼女の目から一筋の涙が流れ出た。
灯との、この秘密は、本来であればすぐに友人に自慢したいネタがたくさん詰まっていたけれど、どうしても話すことができなかった。
あの日の空気、あの時の体温、気持ちを全て伝えることは出来ないから。
僕はいつまでもこの日のことを誰にも話さず心にしまっておくだろう。
きっと灯本人とも話さない。
悲しくなんてないのに、だからと言って嬉しいわけでもない、切なくて痛い気持ちを感じて涙が出てしまうその感情をお互い言葉にできないのだ。