そうだ!鎖国しよう。
とんとんとんと、規則正しくまな板を包丁が叩く。
ベタな事をというならば、ショックで手を切ったりするのが解りやすいのだろうが、その辺は年季が入っている事もあり危うげない。
我ながら主婦も顔負けの腕前だと思う。
……それはまあ言い過ぎだったとしても、どんよりと心に鉛を抱えたままの状態でも問題なく、人参、玉葱、じゃがいもと、順番に大きさを整えていく。
あの後、表示されたタイトルロゴを見つめたまま暫く石化していたものの、ゆっくりと時間をかけ、TDOの初回ログイン画面の説明と注意事項を読み終えた。
画面を読み進むと共に、じくじくと沸き上がり増え続けた拒絶の気持ちのままに、使用許諾の画面を静かに『いいえ』で閉じて起きると、キッチンで一口だけ水を口に含み、カレーを作り始めた。
金曜日はやっぱりカレーだよねーと肉をいため、火を止める。
現実逃避をしている自覚はある。
あるけど……。
「あっ!」
……落ち着いているつもりだった。
しかし、半分しか使わないつもりだったじゃがいもを全部むいてしまっていたあたり、自身の混乱具合がうかがえるというもの。
仕方ないから、カレーの他に肉じゃがまで練成する事に。
ジャガイモの量に合わせて準備した、他の食材の量に頬がひくつく。
……一人しかいないのにどうするんだこれ?
そこそこの大きさの鍋を二つ焦がさないように撹拌しながら火を入れる。
使用許諾の画面に簡単に状況説明があった。
要約すると、俺の楽園は、TDOに吸収されたと言う内容だ。
モフリスのしっぽで昼寝したり、ユメナマコとじゃれたりした日々が本日二回目の走馬灯状態だ。
「……ふうっ。」
大量に調理したものの、全く食指がわかない。
しかし、単純作業が良かったのか、心がお腹いっぱいで、少しだけ落ち着いた。
一口だけ味見して、キッチンの椅子に腰掛け、俯いて目を閉じる。
『必ず見つけ出してやる!』
ふいに、高笑いが聞こえそうな自己紹介の時の西田の声が聞こえた気がして憂鬱さが色を変える。
いや、憂鬱には変わりないのだけれど、あいつが関わると憂鬱さの種類が変わるのだ。
まだ、郁介の世界は、失われては無い。
世界は色を変えるものだ。
郁介が、自分の、ファルケの世界を守りたいのなら、自分でなんとかするしかない。
「……とりあえず、鎖国だな。」
消極的とはいえ、覚悟を決めれば、やる事は沢山ある。
ベッドのスプリングの硬さに体重を任せると再びもう一つの世界に向かった。
空を切り取った様な部屋で、先程、一度読み終えている、TDOの初回ログイン注意事項を一気にスクロールして、同意を選択。
以前とほぼ変わりないホームベースの「関所」の大広間に足をつける。
毛足の長い赤いじゅうたんを踏みしめて、周囲を見渡す。
なじみのある室内は、一言で言うと、中世ヨーロッパ風の瀟洒な洋館だ。
いつもの様に正面からユメナマコのゆめこが飛んできた事を確認し、緊張が緩んだ。
ナマコというよりも、クラゲじゃないのかと思わせるピンクの半透明の身体からは向こう側が透けている。
バスケットボールよりひとまわり大きい身体がふわふわと近寄ってくるのを、顔面にぶつかる直前に両手で受け止めた。
「ただいま、ゆめこ。」
一緒にいる時間が長いと親密度が上がるのだが、種類によって上がり方はまちまちだ。
その中でも、ゆめこは、かなり人懐っこい方だと思う。
もっと長い時間を一緒に過ごしているはずのモフリスの『しっぽ』なんか、俺に気がついても、階段の上からこっちを見ただけで、毛づくろいを再開してしまった。
呼べば来るので、マイペースなだけだと思いたい。
……嫌われてないよな?
「しっぽ、おいで。外に出るよ。」
声をかけて玄関の大扉を押し開く。
正面階段の上で、ゆるゆるにだらけていたしっぽだったが、1メートル以上ある大きな身体からは想像もつかない俊敏さで、茶色くて大きいクッションの様な尻尾を揺らし階段の手すりを駆け下りてきた。
傍まで来ると、黒い大きな瞳で見上げて来る。
ゆめことしっぽと、そのまま一緒に外に出た。
扉を開けた瞬間に流れ込んできた空気からは、草の香りのする風に、ほのかに甘い花の香りが混ざっている。
奥行きを感じさせる薄い青の空は、昨日までと何も変わらない様に見えた。
正面の門の手前には花壇。
花壇の合間に様々な樹木。
客を迎える予定はこれまでも今後もないが、なんとなく飾っている館の正面庭園に対して、館に向かって左に実験的に少量の植物を植える目立たないスペースがある。
「のの、おいで!」
今は水田になっているその方向に呼びかけた。
カモノハシ(のの)がひょっこりと顔を出して首をかしげる。
一度に3匹しか使えない為、水生植物の育成補助に付けておいたカモノハシ(のの)をひっこめて、スレイプニルのニルさんを呼び出す。
ニルさんはスレイプニルという8本足の筋肉質の軍馬で、灰青の毛並みが美しくて大きくて賢くてとにかく強そうなのでさん付けだ。
気品あふれる顔で見下ろしてくるニルさんは美丈夫なので、銀で装飾された青と黒の馬装がよく似合っている。
ファルケ自身も衣装を黒の乗馬服に変更して大弓とも呼ばれる身長を超えた大きな和弓を手にする。
鞭は要らない。
古来からの言い伝えでは、弓の弦を弾く音には魔を払う効果があるという。
一度だけ、弦を弾いたら、思ったより大きくビーンと空気を揺らす音がした。
「しっぽは、索敵、迎撃、退避の中で出来る事やって!怪我しそうなら栗の木に逃げる事。後は解るね?」
精いっぱいきりっとした目で、頷く手にはいつのまにかクルミが握られていた。
中々余裕があって良いじゃないか。
今まで領地に誰かが来るという事が無かったので、迎撃指示もざっくりとしかできない。
取りあえず、ニルさんに乗って、ゆめこをお供に領内を確認。
そして、デイリーの流鏑馬も一緒に済ましてしまおう。
デイリーの流鏑馬というのは、一日一回、騎馬時に領内に現れる3つの的を弓で射抜くゲームだ。
得点に応じて、種や苗、卵、期間限定ポイントなどがもらえる。
馬は普通の馬だけでなく、一角獣や有翼馬などでも問題ない。
もちろん、八脚軍馬のニルさんも大丈夫。
多分馬っぽい生き物全部いけると思う。
まあ、それは良いのだけれど、さっさと、状況確認しなくては。
ニルさんが、乗りやすい様に前足を曲げると、高い位置にあった鐙が届く位置になり足をかけて跨る。
「ニルさん、お願いします。」
早すぎず、遅すぎず、ファルケの心を読んでいるかの様な速さで駆けだす。
手綱を持たず弓をつがえたままの状態だが、振り落とされる心配はない。
風が気持ち良い。
広がる光景、ニルさんから伝わる振動と大きな身体が大地を踏みしめる音、全ての感覚がもたらす心地よさに、落ち込んでいた気分は簡単に上昇する。
状況を確認しながら、館の裏の『領地』といわれる畑や牧場の外周を一周して的も全部打ち抜いた。
報酬は、レア卵1、レア種3、まつりのポイント5だった。
中々に良い首尾だ。
そして、外部と隣接しているのは前面の庭園の一部だけという事が解ったので、表の柵の周りにトラップを仕掛け、扉には一応呼び鈴代わりに、鈴蘭(ただし本当に鈴)を束にして逆さにして紐を付け、門の横に神社の鈴乃緒みたいに下げる事にした。
門をたたこうという人には一応挨拶位は必要かなと思ったのだ。
鎖国中の長崎にだって出島あったし。
こうして鎖国の準備は始まった。