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そらにさく花

作者: 岸上ゲソ

 ノックも無しに突然病室のドアが開き、綾子は驚いて書類を取り落とした。既に消灯が過ぎた部屋は暗く、枕元の照明以外灯りは無い。もう面会時間を過ぎていたし、来客の可能性など考えもしなしなかった。

「あらららー」

 しかし扉を開けた侵入者は、驚く綾子を他所に気の抜ける呑気さで笑った。そのままばさばさと舞い散った書類をかがんで拾い、それを綾子へと歩み寄って手渡す。照明を浴びて浮き上がった人物の姿がはっきり光の元に晒され、綾子は息を呑んだ。こちらを見下ろして笑う侵入者は、良く知った女の顔だったのだ。

「か―――かか、かかかか・・・!?」

「やほー。久しぶり元気そうね、って入院してんだから元気そうだはおかしいか。うん、顔色も悪く無いし良かった良かった」

 頷く顔は悪戯が成功した子供のような顔とでも評したら良いか。

 無理はしちゃだめよと笑う女は、目をひん剥いて唖然とする綾子に屈託の無い仕草で微笑んだ。

 名を天野かおり。年齢多分四十歳前後。規格外の容姿と穏やかな性格によりすこぶる男性受けするが、本人が独りを好むため独り身。職業は高校教師。

 綾子の通っていた高校で、クラス担任を務めていたのがこのかおりだった。綾子が学級委員長(委員決めの前日うっかり風邪を貰い、休んで翌日登校してみれば押し付けられていた)をしていた関係もありかおりとは随分仲が良かった。卒業して就職してからも時々食事に誘ったり遊びに行ったりと交流は続いた為、互いの関係は師と教え子であるよりもよき友人でもあるという位置づけの方が正しいだろう。それ故にかおりの突飛な行動には大概慣れているつもりでいたし、知り尽くしている気分でいたが、どうやらそれは甘かったようだ。

 目の前でニコニコと笑うかおりを見ながら、綾子は己の認識の甘さを痛感した。

「ひ、久しぶり・・・ていうか先生、一体どっから入ってきたのよ!もう出入り口締められてるから入れないでしょ!?」

 面会の時間は二十時で終わりである。現在の時刻は既に二十三時を回っており、外も暗ければ中も真っ暗だ。廊下に出れば緑の非常灯がぼんやりと照らすばかりで、急患ならともかく普通の見舞い客が入れる時刻ではない。綾子がこの病院に入院して早二週間、心寂しくなってきた今、何年もずっと会ってなかったかおりの顔を見れたのは嬉しい事件だが、今現在においては桜の紋章を付けた国家公務員が出動する類の事件である。つまるところお縄で御用だ。逮捕とも言う。

「ちゃ、ちゃんと正規の手続きして入ってきたんでしょうね・・・!?頼むから無断でとか言わないでよ!不法とか言ったら泣くよ私!」

「失礼な、仮にも教師がそんな事するわけないでしょうが。ちゃんとお邪魔しますと言って入ったわよ」

「だよね」

 ほっとした綾子にかおりが頷き、付け加えた。

「心の中でね」

「――言ってないじゃん!!」

 小声で突っ込むという器用な真似をし、それでも平然としているかおりに綾子はがっくりと項垂れた。あぁそうだ、思い出した。この教師には突っ込んだ方が負けなのだ。一見完璧に見える評判の良いこの教師は校内だと大変な人格者だが、ひとたび学校の外に出るとその領分は完全に己の元へと移行する。法の規制などかおりにはあって無きが如し、気分次第で白も黒へとなり得るのである。

 一つ溜息をつくと、綾子はかおりに椅子を勧めた。入院するとき部屋が個室しか空いてないと言われ泣く泣く割高な個室にしていたが、今日ほど個室であったことを良かったと思ったことはない。

「まぁもういいけど。・・・けど、本当にどっから入ったの?」

「東側二階の廊下の窓」

「ま、窓ぉ?」

「そこしか開いてなかったからね、壁伝ってお邪魔したの。最初玄関に行ったけど閉まってて入れなかったし裏口は警備員がいたから仕方ないでしょ」

 仕方ないことは無い。断じてない。

「な、なんつー入り方してんの・・・正規の方法で入ってよ!先生でしょ!」

「だから正規に堂々と窓から入ったんでしょ。あ、そうか面会時間はもうオワリマシタってやつ?大丈夫よ綾子、病院の面会時間は終わったかもしれないけど私の面会時間は終わってないの。はいコレお見舞い」

 ノープロブレムと言って一輪の花を差し出したかおりに、綾子はプロブレムだらけだよと無駄と知りつつやっぱり突っ込んだ。突っ込みでもしないと明らかに間違ってるはずのかおりが、本当は間違ってないのでないかと思えてくるのだ。教師と言う職業がそうさせるのではなく、かおりの泰然自若とした態度がそうさせる。そういう意味でこの教師は天性のたらしなのだと綾子は思っている。

「過労ですってね」

 突と。

 急に真面目な顔で言われ、綾子は花を手にしたままきょとんとかおりを見た。

「何?」

「過労で、倒れたんですってね?」

 知ってんのよと半眼になった目が綾子を見、思わずすいーと両目を泳がせた。

「な、何のことかしらー?」

「へーぇほーぉふーん。私にそゆこと言うんだー」

「えー、えーと、あははは?」

「はい誤魔化し禁止ー。根詰めすぎー。どうせ馬鹿みたいに仕事ばかりしてたんでしょ。高校の時もやたら気合い入れて頑張りすぎてフラフラになってたし」

 全く、とかおりが肩を竦め、綾子の持つ書類と花を取り上げた。綾子はばつ悪くかおりを上目遣いに見、何も無くなった手を寂しく動かす。反論できる立場にない事はよぅく解っているつもりだ。

 綾子が過労で仕事中に倒れたのが二週間前の昼間の事だ。食事もそこそこに連日残業を続け、休日までも自宅に持ち帰って仕事をしていたのが良くなかった。倒れて担ぎ込まれた病院でそのまま入院を言い渡され、絶対安静を言いつけられたが少しよくなった途端この通りである。じっと安静にしてなんていられない。今綾子が参加し進めているプロジェクトはチームの人員がぎりぎりで、一人でも欠けると仲間にかかる負担は半端ないのだ。他の人間に交代してもらうことも出来たが、手足動く限り綾子はそれをしたくなかった。無茶なのは解っているが、これはもう半ば意地だ。――立ち止まったら、歩けなくなる。

「手を抜く事を覚えろって何度言った?ほんと、いつまでも不器用ねあんたは」

 かおりの手がサイドテーブルに書類と花を置いた。それを横目に苦笑して頭をかく。確かに、綾子は手抜きすることが下手だ。

「・・・先生は手を抜くの上手かったよね。すごい完璧に見えて実際は穴だらけ、みたいな。・・・プリントもほとんど過去問の使いまわしだったし、テストなんか昨年度の問題並べ替えただけだったし」

「おばかさん」眉を吊り上げ、かおりが胸を張った。「あれは手抜きしたんじゃない、ただ手間を省いただけよ!並べ替えるのって結構大変なんだから。そもそも過去問ばかりを使ったのはアレよ、生徒の為を思ってよ。私が採点をしやすいからという理由もあるがそれが全てじゃないわ」

「全てじゃないけど八割方後者よね」

「いや、九割後者」

「ほとんどじゃない!?」

「一割あるだけ良いじゃない」

 ふふんと顎を反らす姿が妙に誇らしげで、綾子は呆れも忘れてかおりを見た。言葉だけ聞くと物凄い自分中心な傲慢女に思えるが、それは事実ではない。昔から綾子はかおりのこういうところが好きだった。学生時代「かおり先生は何を考えているのか解らない」と言う者が周囲には多かったが、何もそんな深く考えるようなものでもないのだ。かおりはただ己の道を知り、そこを歩んでいるだけなのだから。それがどれだけ凄いことなのか気付かないから、周囲はかおりが解らないように思ってしまう。人の理解は視界の範囲内でしか及ばないものだ。キリストをメシアと仰ぐ者が、釈迦の教えを説かぬように。

「綾子は枷を作りすぎてるのよ。自分が自分を労わらないで誰が労わるっていうの?隣人はいくら愛してもその半分だって返しちゃくれないわ。人に笑いかける前に自分に笑いかけてやりなさいよ」

 尊大に見せかけていた笑みを穏やかなものに変え、かおりがじっと綾子を見詰める。

「他者に気を遣うんじゃない、自分に気を遣いなさい。賢人であろうとしないで、愚者でもあるがままにありなさい。煩雑に救いを求めちゃだめよ、その先には道無き断崖しかないの。―――あんたは」

 優しい、優しい手の平がひどくゆっくりと綾子の頬を包んだ。

「あんたはそんなに硬い顔をする子じゃなかったでしょう?笑いなさい。凍らせないで笑いなさい。私はあんたが笑ってくれなければ寂しいの、綾子」

 触れる手の平は温かく、大切な宝物に接するように厳かだった。綾子はかおりの細められた目を食い入るように見詰め、空の手の平で薄い布団のシーツを握り締めた。強く強く、ひたすら、強く。

 ―――込み上げるものを、忘れるために。

「笑って、綾子」

 握り締めすぎて白くなった手に、かおりの手が柔らかく触れる。意地を張る心を解すように、一本一本、指を撫でた。

 ・・・頬を包む手に手を重ね、綾子は薄く笑った。

「――無茶、言わないでよ。おかしくもないのに笑えない」

「あぁ、そうか。それもそうねぇ」

「先生のマヌケー。ばーかばーか」

「うん、馬鹿よね」

 馬鹿だよ。言葉にはせず、震える喉に力を込めた。

「――先生、私笑い方忘れちゃった。どんなふうに笑ってたっけ?私、どうやって笑ってた?」

 ねぇ、先生。

「・・・綾子」

 何も、何一つ零さないように懸命に見上げた。かおりが微笑んで綾子を抱き寄せた。

 真冬にくるまった毛布のように暖かく柔らかく、けれどあやすように背中を撫でる仕草は強くて、あぁかおりらしいなとそんな事を思った。

「ごめんね」

 目を閉じると、かおりが優しい声で寂しげに言った。

「酷いことを言ったわね。あんたの笑顔を奪ったのは私なのにねぇ。なのに笑ってくれだなんて、虫が良すぎる話よね」

 そんなことは無い、とは口に出来なかった。実際、多分その通りだからだ。それに口を開いたらきっと余計な言葉を言うだろう。言葉と共に、耳障りな嗚咽が零れるかもしれない。

 でもね、とかおりが小さく言った。

「それでも、私はあんたに笑っていて欲しい。笑顔で」


 笑顔で、私に。


 いつか私に会いに来て欲しいのよ。



 眠りに落ちる瞬間何か口に触れたのは、綾子の気のせいだったのかもしれない。



  ◆




 ひやりとした風が頬を撫でた気がして、眉を潜めながら緩慢に瞼を押し上げた。

 スモーキーグリーンのカーテンの隙間、見える景色は寝惚け眼にも薄暗い夜明けを悟らせた。綾子の病室は二階に位置しているが、この病院は普通より階が高めに造ってあると聞いている。その言葉を裏付けるかどうかは解らないが、窓辺には建物でなく薄紫の空と雲の姿が映っていた。二回からの景色にしては確かにすっきりし過ぎているかもしれない。

 ―――長い、夢を見ていた。

 言葉には出来ない、決して現実にはありえない夢を。

「あら、もう起きてたの?」

 女性の高い声がして、視線をめぐらせると入り口に看護士の姿があった。扉は綺麗に全開し、馴染みの看護士は不思議そうに目を瞬いている。寒いと思ったのは、病室のドアが開いているからだったようだ。

「・・・ハヨーゴザイマス、藤井さん。そこ、最初から開けっ放しだった?」

「おはよう。開けっ放しだったわよ。何、自分であけたんじゃないの?」

「・・・覚えが無いわ」

「頼りない返事ねぇ」

 怪訝な顔でのこのこと入ってきたこの藤井和子看護士は、小学生時代綾子とクラスメイトだったという因縁がある。小学生のクラス会などは一切なかった為、こうして患者と看護士として再会するまで一度もあったことは無かった。綾子は知り合いという微妙なやりにくさを感じたが、和子がやたらサバサバしていた為そんな気まずさはすぐに解消された。一見しゃんとした美人だが、中身は実に男らしい性質のようだ。

「今日は採血するわよ。あと少ししたら来るからそのつもりでいなさいね。あ、当然点滴もあるから腕出しておくように」

「点滴に有給はないんですか・・・」

「あるかそんなもん。馬鹿な事言ってないでとっとと顔でも拭いてなさ・・・・・・あっ」

 傍らまで来たところで、和子が唐突にきっと眦を吊り上げた。きょとんとする綾子に般若の顔を向け、ベット脇のサイドテーブルをびしりと指差す。

「な、なに?」

「何じゃない。まぁた仕事やってたわねぇ?何度言えば解るのよっ大人しく休めと言ったでしょ!」

 ―――え?

 まくし立てるようにして怒られたが、綾子は一瞬反応に遅れた。

 昨日は、そのまま寝たのではなかったのだろうか。仕事をしたのは、夢、で。

「何よその白々しい驚きは。言い逃れしようったってそうはいかないわよ?照明点けっぱなしだし椅子出しっぱなしだし。そこに座ってパソコンで仕事してたんでしょ。でなきゃ椅子が出てるはずないわ」

「―――、そ・・・」

 そんなはずは。

 腰に手を当てて仁王立ちする和子に、綾子はのろのろと首を振った。様子のおかしい綾子に和子は少し怪訝な顔をしたが、じゃあそれは何よと綾子の傍を指差した。

 ゆるりと回した首、視界が認めたのはオレンジ色の丸い椅子。その横に優しい木目を描く木蘭色のサイドテーブルあり、上には15インチのノートパソコンとメモ紙、仕事用の書類数枚に愛用のボールペンが転がっていた。それは確かに綾子が普段使っている見覚えのあるものだ。己の持ち込んだ、全て綾子の持ち物。

 ―――花瓶に咲く、一輪の花以外は。

「ちょっと、何驚いてんのよ?怒ってんのよ私は」

「・・・・・・花、が」

「花?――あら。え、何どうしたのこの花?・・・見たこと無い品種ねぇ」

 何て言う花なの、と和子が言ったが、綾子は茫然としてそれを見ていた。

 一輪の小さな、白い花。品種なんて綾子は知らないし、摘んできた覚えもない。野に咲いていてもきっと見向きもしないだろう。小さな花は、それでも凛として花瓶の中で咲き誇っていた。


 ――― あ や こ。 


「冬に咲く花でこんなのあったかしら。ねぇ綾―――・・・あ、綾子?」

 見詰める花は優しく、ゆらゆらと揺れていた。

 カーテンの隙間から零れたか、光の筋が横切って部屋を照らしている。小さな白い花びらが少しだけ光ったように見えて、眩しかった。

 眩しくて、眩しかったから綾子は手の平で顔を覆った。

「ちょ、ちょっと綾子、どうしたの?気分悪いの?先生呼ぼうか・・・ねぇ綾子―――・・・」


 ――― 笑って、綾子。


 静かな朝の病室の中、窓に見える日は緩やかに昇った。

 人の歩みのように、凪いだ海の波のように。感傷に費やす時の経過のように。ゆるやかにゆるやかに、けれど確実な流れを先に見据えて進んでいく。

 時間は寛容だが残酷である。それ故に一定でありえず留まりはしない。方向は常に先しかない。

 いつまでも、立ち止まってはいられないのだ。


「綾子、ねぇちょっと?」

「・・・今日、東側の廊下の窓、開いてた?」

「は、―――え?」

「窓。開いてなかった?見てない?」

「・・・・・・何で知ってるの?まさかアンタが開けたわけ?」


 困惑の顔をする和子に、綾子は首を振って、「なんなのよ」と呟いた。

 呟いて、頬を濡らす涙をそのままにこれじゃ笑えないじゃないと口を噛んだ。



 名を天野かおり。年齢多分四十歳前後。規格外の容姿と穏やかな性格によりすこぶる男性受けしたが、本人が独りを好むため独り身だった。職業は高校教師。

 そして享年、三十八歳。

 一昨年の十一月、交差点横断中に酒気帯び運転の乗用車にはねられ死亡した。綾子の恩師、天野かおりは生きていない。



 ――― 会いに来て欲しいの、綾子。



 一度も墓参りに行ったことが無い事を、かおりは寂しく思っていたのだろう。

 笑わない綾子を、哀しく思ったのだろう。


 ―――本当に、あの先生はいつまでたっても突拍子が無い人間だわ。




 それからずっと、綾子の病室には花瓶に一輪の花が咲いていた。

 不思議な事に、その花は綾子が退院するまで、決して枯れることは無かった。



 <了>


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― 新着の感想 ―
[良い点] (他の作品も同じく)文章のリズムを壊すことのない句読点の使い方が好きです。 [一言] 時間外の面会を一切許さず、不法侵入に対して国家公務員(キャリア)が駆けつける病院に入院している主人公は…
[一言] 誤字報告  ノックも無しに突然病室のドアが開き、綾子は驚いて書類を取り落とした。既に消灯が過ぎた部屋は暗く、枕元の照明以外灯りは無い。もう面会時間を過ぎていたし、来客の可能性など考えもしな…
2014/11/25 13:50 退会済み
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