ある青年のとある一日
薄明かりの空が見える。
雨が冷たい。
とりあえず、生きてはいるようだ。
昨日の晩、凄まじい吐き気に襲われた俺は、道端に胃の中身をすべて吐き出し、そのまま倒れこんだ。
時計の針は七時を指している。
いつも通りの時間には起きることができたようだ。
この点は、とりあえず正常だ。
しかし体が小刻みに震える。
今日は病院に行って、すぐ帰って大人しくしているのが無難だろう。
幸い、今日は水曜日、一限だけの日だ。
一日休んだところで、どうということもない。
起き上がり、病院に向かって歩き始めた。
家に帰るには遠回りだが、歩いて十五分ほどのところに、幼いころからよく行っていた、医者が一人の小さな病院がある。
少し歩いて、ふと考えた。
なぜあんなに激しい吐き気が・・・?
答は分かっている。いろいろありすぎたのだ。
心が、身体が最近の身辺の変化についていけていないのだ。
例を挙げるなら、大学入学と同時に、通学時間がかなり伸びたことだ。
長時間電車の中にいるだけで、人間不信の俺には、相当の疲労を与える。
まぁ、それだけではないのだが・・・。
とにかく、精神状態が、身体に異常を与えるほどに狂っている。
が、それもすぐに消えるだろう。
人間というものは便利なもので、いやな気持も、慣れてくればそのうち感じなくなっていく。
そんなことを考えながら目的の病院にたどり着いた。
その病院の唯一の医者は、病院の前でプランターに水をやっていた。
以前よりふけているが、相変わらず身のこなしはしっかりしていて、紳士的な彼の性格を表すようだ。
「どうしたんだい、ずぶぬれじゃないか。」
驚いたような声を聞いて、ようやく気がついた。
雨のなか、傘もささずに歩いていたのだ。
「風邪をひいちまうだろう。」
紳士的な性格とは異なった口調が、俺にかけられた。
「そう、ひいちまったんだ。診てもらえますか。」
「しかたねぇな。どうせまた、金は無いんだろう?ったく。まぁいいさ、出世払い待ってるぜ。中で待っててくれ。」
「シュウちゃん?」
待合室に入ると、見覚えのある、色白の整った顔が、俺を見ていた。
「・・・ユキか。懐かしいな、三年ぶりか?中学以来、全く会ってない。」
「そうだよね、本当に久しぶりだよ!元気にしてた!?」
懐かしい友達に会うと興奮する性格は、相変わらず、か。
「元気なら病院には来ない。風邪をひいちまったみたいだ、多分な。」
「あ、そうだね、大丈夫?」
「大丈夫かどうかを見てもらいに来た。それより、ユキはどうしたんだよ?」
「私もただの風邪。たいしたことないんだけどね、こじらせるのは嫌だか・・・あれ、どうしたの?びしょびしょ。」
「今更か。」
苦笑した。
「はい、タオル。」
ユキのかばんから、ピンク色のタオルが出てきた。
「あぁ、サンキュー。」
とりあえず、頭だけでも拭いておこう。
「ねぇ、どうしてそんなに濡れているの?」
「この雨の中、寝てたんだ。」
「なにそれ、なにかの我慢大会?」
「いや、そんな酔狂じゃない。ちょっと気を・・・」
「そういえば、シュウちゃん、彼女できた?」
ユキは自分の質問の答えを遮った。
それはいいとしても、タイミングの悪さまで相変わらずだ。
「あぁ、まぁ・・・。」
「えー、どんな子??ラブラブ?」
俺はつい、ユキを睨みつけた。
「え、ごめんなさい・・・私悪いこと聞いちゃった?」
ユキの悲しそうな眼を見て、強烈な罪悪感に襲われた。
「・・・いや、悪い。やつあたりだ。最低だな。ついこの間、フラれたんだ。何が何だか分かんないうちにさ。1年も付き合ってた彼女。情けないけどな、それ以来なんも手に付かなくて、どうやらストレスで胃を痛めたみたいでな、昨日、飯食って帰る途中、道端で倒れて、気を失ってた。」
「・・・そっか。」
少しうつむいたが、すぐに顔を上げ、言葉をつづけた。
「ごめんね、なんかちょっとホッとしちゃった。」
俺は言葉の意味がわからず、顔をしかめた。
「私ね、この歳になっても気持ちが変わっていなければ、言おうと思ってたことがあるの。」
一度言葉を切って、決心したようにもう一度口を開いた。
「私、シュウちゃんが好き。シュウちゃんが寂しいなら、私はずっと一緒に居てあげる。」
俺はその時、どんな顔をしたんだろう?
頭を拭いていたタオルを取り落してしまうほどの動揺だった。
落としたタオルが、俺の視界を遮り、次に視界が開けた時、病院の天井が目に入った。
「目が覚めたかい?ったく、どうしたってんだ?胃がひどく荒れてるみたいだぞ。しばらく刺激物は避けるように。それから、風邪の症状がある。今日一日休んで、体調が良くならんようなら、明日も無理しちゃいかんぞ。」
「・・・あれ?ユキは・・・」
「ユキ?何を言ってるんだ?あの子は・・・」
「いや、ごめん、夢見てたみたいです。」
「・・・そのようだな。ったく、病院の前でいきなりぶっ倒れちまって、びっくりしたぞ。」
「ったく、って口癖、相変わらずですね。」
ありがとうございました、と、小声で言って、病院を後にした。
・・・あんな夢見たのも、高三の三月に掘り出したタイムカプセルのせいだろう。
中一の時に遊びで埋めたタイムカプセルだ。
中には、ユキと俺がそれぞれ、高校を卒業する頃の自分に対する手紙を入れていた。
ユキの、ユキ自身にあてた手紙の内容は記憶している。
『今の私はシュウちゃんが好き。だけど、ずっと好きでいられる自信がないの。この手紙を読んでいる私が、まだシュウちゃんのことを好きなら、シュウちゃんにこの気持ちを伝えてね。』
タイムかプイセルを埋めた二年後、ユキは親の仕事の都合でアメリカに引っ越していった。
そしてその途中、ユキが乗った飛行機は墜落事故をおこし、乗客数は覚えていないが、生存者4名の大惨事になった。
独りで掘り出したタイムカプセルは、あいつが確かに俺の傍にいた証であって、俺があいつのことを大切に思っていた証でもあった。
俺の書いた手紙にも、同じようなことが書かれていたのだから。
・・・しかし、今となってはどうにもならない話だ。
結局、また平凡な日々が始まるわけだ。
いっそ、あのままずっと夢の世界に・・・なんて事を思いながら歩き、家の前まで着いて、いつもと違う様子に気づいた。
しばらく空き家だった隣の家に、でかいトラックから荷物が運び込まれていた。
トラックの脇を抜けて家に入ろうとした時、聞き覚えのある、とても懐かしい感覚を覚える声に呼びとめられた。
「・・・シュウちゃん・・・?」
振り返ると、そこには望んでいた笑顔があって、夢に出てきたのと全く同じ、俺が知っている頃よりも少し成長したユキが居た。
「ユキ・・・なのか?」
あっけにとられる俺の顔を見てなんだか嬉しそうだ。
「私、戻ってきたよ!また日本で生活するために、戻ってきたよ!」
「お前、ユキ、だって、事故で・・・」
ユキの顔が曇った。
「うん、事故にはあったよ。」
「だって、生存者はたったの4人・・・」
「うん、私、その4人の1人。でも、お父さんとお母さんは・・・。」
「なんで今まで連絡くれなかったんだよ!」
「半年前まで記憶喪失だったの。」
そりゃ、無理だな。
「大変だったんだな・・・。」
でも、今目の前に居る。
確かに居る。
俺が一番望んでいたものが、今、手の届くところにある。
「ユキ」
「なぁ・・・に?」
言い切る前に、俺は思い切りユキを抱きしめた。
「逢いたかった。・・・逢いたかった・・・。」
強く、強く抱きしめた。
「私も・・・。記憶の片隅からずっと消えなかったシュウちゃんに逢いたくて、こっちに来たんだよ。」
ユキもまた、強く、強く抱き返した。
「もう離さない。ずっと俺のものだ。俺の・・・」
絶対に離さない。
せっかく手に入れた、何より誰より大事な人の傍に、ずっと居られるように。
「うん・・・」
抱き返すユキの手に温もりを感じて、あぁ、帰ってきたんだ、と強く思った。
今日はユキにいろいろなことを話してやろうと思う。
離れていた日々の出来事1つ1つを埋めるように。