スパイ防止法2030 ― 絶海の死線
2030年、秋。
日本最東端の孤島――南鳥島。
かつて「何もない島」と呼ばれたこの地が、今や世界の資源地図を塗り替えようとしていた。
深海に眠るレアアース泥。その埋蔵量は、世界需要の数百年分とも言われる。
日本が「資源小国」から脱却する、歴史的な転換点。
だが、その夢は一夜にして悪夢に変わった。
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午前三時十七分。
南鳥島採掘基地「MINERVA」の第三プラントが、轟音とともに吹き飛んだ。
炎が夜空を焦がし、破片が海へと降り注ぐ。
爆風は半径二百メートルを薙ぎ払い、隣接する居住棟の窓ガラスを粉々に砕いた。
悲鳴。怒号。そして、沈黙。
死者十二名。負傷者二十三名。原因――不明。
ニュースは「設備の老朽化による事故」と報じた。
政府の公式見解も同様だった。「採掘プラントの配管に腐食が見られ、可燃性ガスが漏出した可能性が高い」――そんな発表が、翌朝のニュースで流れた。
国民の多くは、それを信じた。
だが、国家特務庁(NIA)の会議室では、まったく異なる見解が飛び交っていた。
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霞ヶ関の地下深く。
蛍光灯の白い光が、無機質な壁を照らしている。
長方形のテーブルを囲む七つの影。その空気は、氷点下のように冷たかった。
「事故じゃない。これはテロだ」
レオン・クサナギ所長が、モニターに映る衛星写真を睨みつける。
その声は低く、しかし会議室の隅々まで響いた。戦場で鍛えられた男の声だ。
モニターには、上空から撮影された南鳥島の映像が映し出されていた。
第三プラントがあった場所は、今や黒い焦土と化している。クレーターのように抉れた地面。骨組みだけになった建屋。そして、海へと流れ出す黒い煙。
「爆発の三十秒前、基地周辺の海域に不審な熱源反応があった」
レオンがリモコンを操作すると、画面が切り替わる。
赤外線映像。暗い海の中に、小さな熱源が点滅している。
「潜水艇か、あるいは水中ドローンか。いずれにせよ、自然発生した熱源じゃない」
沈黙が落ちる。
全員が、その映像の意味を理解していた。
「爆発物の残留成分を分析した」
白石が淡々と報告する。
彼の前には三台のノートPCが開かれ、画面には化学式やグラフが並んでいた。蛍光灯の光を反射する眼鏡の奥で、鋭い目が光っている。
「RDXとHMXの混合物。配合比率から見て、軍用グレードの高性能爆薬だ。民間では絶対に手に入らない。というより、民間人がこの配合を知っていること自体があり得ない」
「具体的には?」
真壁が問う。彼の手元には、分厚い資料が積まれていた。公安時代の習慣だろう。常に紙の資料を手元に置く。
「NATO軍が使用するC4の改良型に近い。ただし、微量の添加物が独特だ。おそらく……」
白石が言葉を切る。
「中国人民解放軍の特殊部隊が使用する『Type-91』と呼ばれる爆薬。成分が九十三パーセント一致する」
会議室の温度が、さらに下がった気がした。
「つまり、国家レベルの関与ってことね」
氷室玲香が腕を組み、冷たく呟いた。
彼女は窓際の壁に背を預け、脚を組んでいる。黒いパンツスーツに身を包んだその姿は、まるで研ぎ澄まされた刃のようだった。
「断定はできない」
白石が首を振る。
「成分が一致しても、それが中国製である証拠にはならない。技術は盗まれるし、模倣もされる。わざと中国製に見せかけている可能性もある」
「だが、状況証拠は揃っている」
真壁が資料をめくる。
「南鳥島のレアアース採掘が本格化してから、周辺海域での不審船の目撃情報が急増している。過去六ヶ月で、実に四十七件。うち、船籍が特定できたものが十二件。中国籍が七件、ロシア籍が三件、北朝鮮籍が二件だ」
「全部、漁船を装ってやがる」
堂嶋が舌打ちした。
彼は椅子にふんぞり返り、爪楊枝を噛んでいた。粗野な態度だが、その目は鋭い。裏社会で生き抜いてきた男の目だ。
「漁船が最新の電子機器を積んでるわけねぇだろ。連中、堂々と偵察してやがんだ」
「各国とも、日本が資源大国になることを望んでいない」
神園玲子が静かに言った。
彼女はテーブルの端で、タブレットを操作していた。画面には、各国の外交文書や経済レポートが映っている。
「レアアースは現代のテクノロジーに不可欠な資源よ。スマートフォン、電気自動車、風力発電、そして……軍事技術。これまで中国が世界の生産量の六割を握っていた。その独占が崩れることを、彼らが黙って見ているはずがない」
「ロシアも同様だ」
レオンが頷く。
「北極圏の資源開発で日本と競合している。日本が資源を自給できるようになれば、外交カードが一枚減る」
「北朝鮮は……まあ、金になるなら何でもやる連中だ」
堂嶋が肩をすくめる。
「だが、証拠がねぇ」
その言葉に、全員が黙り込んだ。
証拠がない。それが、この問題の核心だった。
状況証拠はいくらでもある。動機も、能力も、機会も。だが、決定的な証拠がない限り、政府は動けない。外交問題に発展すれば、日本が国際社会で孤立するリスクがある。
「証拠がないから、政府も動けない」
真壁が苦々しく言った。
「外務省は『慎重な対応』を求めている。防衛省は『確たる証拠なしに自衛隊は動かせない』と言っている。警察庁は『国内法の範囲内でしか捜査できない』と逃げ腰だ」
「要するに、誰も責任を取りたくねぇってことだろ」
堂嶋が吐き捨てる。
「だから俺たちが動く」
レオンが立ち上がった。
その動作は静かだったが、会議室の空気が一変した。全員の背筋が、無意識に伸びる。
「国家特務庁の存在意義は、表の法律で裁けない影を狩ることだ。政府が動けないなら、俺たちが動く。証拠がないなら、俺たちが掴む」
彼はモニターを切り替えた。
南鳥島の詳細な地図が表示される。
「任務だ。南鳥島に潜入し、第二のテロを阻止する。同時に、工作員を特定し、排除せよ」
「排除、ですか」
声を発したのは、テーブルの端に座っていた青年だった。
朝倉勇。
半年前、この部屋に初めて足を踏み入れた時、彼は何も知らない新人だった。
大学を出たばかりで、経験はゼロ。氷室に「研修所じゃない」と冷たく言われ、内心で震えていた青年。
だが、今は違う。
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朝倉の目には、半年前にはなかった光があった。
暗く、静かで、しかし確かな光。
地獄を見た者だけが持つ、覚悟の光だ。
半年。
たった半年で、彼は別人のように変わっていた。
最初の三ヶ月は、文字通りの地獄だった。
レオンが課した訓練は、常軌を逸していた。毎朝五時に起床し、十キロのランニング。その後、格闘訓練が三時間。昼食を挟んで、射撃訓練が二時間。さらに、語学、暗号解読、尾行術、潜入技術……。
夜は座学だった。各国の諜報機関の組織図、工作員の心理、拷問への耐性訓練。眠れるのは四時間だけ。それも、いつ叩き起こされるか分からない。
「敵は寝ている間に来る」
レオンは何度もそう言った。
「睡眠不足で判断力が鈍った状態でも戦えるようになれ。それができなければ、死ぬ」
何度も挫けそうになった。
身体が悲鳴を上げ、心が折れかけた夜もあった。
だが、そのたびに思い出した。
フォックスとの戦い。港湾地区の倉庫で見た、赤い狐の紋章。そして、自分を狙う影の存在。
『お前を狙う影を狩る』
レオンの言葉が、朝倉を支えた。
逃げることはできない。逃げれば、影に飲まれる。
だから、戦う。戦い続ける。
訓練だけではなかった。実戦も経験した。
二ヶ月目、新宿の裏通りで、北朝鮮の工作員と遭遇した。氷室の援護で何とか切り抜けたが、初めて人に銃を向けた夜だった。引き金を引くことはできなかった。だが、その震えを、朝倉は忘れていない。
三ヶ月目、大阪で中国系マフィアの資金洗浄ルートを追った。堂嶋と二人で潜入し、証拠を掴んだ。だが、撤退時に待ち伏せに遭い、朝倉は初めて刃物で斬られた。左腕に残る傷跡が、今も時折疼く。
四ヶ月目、沖縄でロシアの情報機関員と接触した。神園の指示で「二重スパイ」を演じ、偽情報を流した。精神的に最も辛い任務だった。誰が味方で、誰が敵か。自分自身さえ信じられなくなる感覚。
五ヶ月目、北海道でフォックスの残党を追跡した。雪山での三日間の潜伏。凍傷寸前まで追い込まれながら、標的を確保した。あの時、初めて「排除」の意味を理解した。
そして六ヶ月目。今、ここにいる。
半人前だという自覚はある。氷室や真壁、堂嶋に比べれば、まだまだ未熟だ。
だが、もう「何も知らない新人」ではない。
地獄の訓練と修羅場をくぐり抜け、多少はものになった。少なくとも、足手まといにはならない自信がある。
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「排除、ですか」
朝倉の声は、落ち着いていた。
半年前なら、その言葉に動揺しただろう。「排除」が何を意味するか、理解できなかっただろう。
だが、今は違う。
「必要なら、やります」
朝倉は静かに言った。
「ただ、可能であれば生け捕りにすべきだと考えます。死人は喋りません。工作員を確保できれば、背後にいる組織の情報を引き出せる可能性があります」
レオンの目が、わずかに細くなった。
「成長したな、朝倉」
「所長の訓練のおかげです」
「訓練だけじゃない。実戦を経験した。血を見た。その目は、半年前とは違う」
朝倉は答えなかった。
ただ、かすかに頷いた。氷室が、ちらりと朝倉を見た。
彼女の目には、冷たさの中にわずかな温かみがあった。認めている、という色だ。
「新入りも一人前になりつつあるわね」
「まだ半人前です」
「半人前で十分よ。全員が一人前だったら、チームとして面白くない」
堂嶋が笑った。
「おい、それ俺のことか?」
「あなたは三人前くらい食べるでしょ。体重的な意味で」
「うるせぇ」
束の間、会議室に笑いが漏れた。
だが、すぐに空気が引き締まる。
「作戦の詳細を説明する」
レオンがモニターを操作した。
南鳥島の三次元地図が表示される。
「南鳥島は、東京から約一八〇〇キロ離れた孤島だ。周囲約六キロの珊瑚礁の島で、民間人は居住していない。現在、島には採掘プラント『MINERVA』が稼働しており、作業員約二百名が常駐している」
「二百名……」
真壁が呟いた。
「その中に、工作員が紛れ込んでいる可能性が高い」
「内部協力者がいなければ、あれほど精密な爆破は不可能だ」
白石が補足する。
「爆発が起きたのは第三プラントの中心部。最も被害が大きくなる場所だ。外部からの攻撃だけでは、あの精度は出せない。誰かが内部から情報を流し、爆薬を設置したか、あるいは設置場所を指示した」
「内通者狩りも、任務の一つだ」
レオンが言った。
「全員で島に上陸する。表向きは『政府の安全調査チーム』だ。作業員の身辺調査、島の周辺海域の偵察、そして……敵の動きを待つ」
「待つ、ですか」
朝倉が問う。
「そうだ。敵は必ず動く。第一のテロで採掘を止められなかった以上、第二、第三の攻撃を仕掛けてくる。その時が、俺たちの出番だ」
レオンの目が、全員を見渡した。
「危険な任務だ。孤島での戦闘になれば、援軍は期待できない。自衛隊を動かすには時間がかかるし、動かせば国際問題になる。俺たちだけで、敵を排除しなければならない」
沈黙。
誰も、異論を唱えなかった。
それが、国家特務庁の任務だ。
表の法律では裁けない影を狩る。誰にも知られず、誰にも感謝されず。失敗すれば、存在ごと消される。
それでも、彼らは戦う。
「出発は明日〇六〇〇。準備を怠るな」
レオンが宣言した。
「以上だ。解散」
椅子が引かれ、メンバーが立ち上がる。
朝倉も立ち上がろうとした時、氷室が近づいてきた。
「朝倉」
「はい」
「さっきの発言、悪くなかったわ」
「……ありがとうございます」
「でも、現場では迷うな。排除が必要な時は、躊躇うな。躊躇えば、死ぬのはあなただけじゃない。チーム全員が危険に晒される」
朝倉は、氷室の目を見つめた。
その目には、過去の修羅場が刻まれている。何人もの敵を倒し、何人もの仲間を失った者の目だ。
「分かっています」
朝倉は答えた。
「俺は、もう迷いません」
氷室が、わずかに目を細めた。
「本当に?」
「……」
朝倉は、一瞬だけ言葉に詰まった。
本当に、迷わないと言い切れるのか。人を殺す覚悟が、本当にあるのか。
北海道での任務を思い出す。フォックスの残党を追い詰めた時、相手は武器を捨てて降伏しようとした。だが、その手には隠しナイフがあった。朝倉が気づいた時には、相手は飛びかかってきていた。
氷室が、一瞬で相手を制圧した。
朝倉には、できなかった。
「正直に言えば……分かりません」
朝倉は、静かに答えた。
「でも、逃げません。逃げたら、また誰かが死ぬ。南鳥島で働いている人たちが死ぬ。それだけは、絶対に防ぎます」
氷室は、しばらく朝倉を見つめていた。
そして、小さく笑った。
「いい答えね」
「え?」
「『迷わない』と即答する奴は信用できない。自分の弱さを知っている奴の方が、いざという時に強い」
氷室が踵を返す。
「明日、〇五三〇にロビーで。遅刻したら置いていくわよ」
「了解です」
朝倉は、彼女の背中を見送った。
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会議室に一人残り、朝倉は窓のない壁を見つめた。
半年前、この部屋で「ようこそ、国家特務庁へ」と言われた日のことを思い出す。
あの時の自分は、何も知らなかった。
スパイとは何か。影を狩るとは何か。人を殺すとは何か。
今は、少しだけ分かる。少しだけ。
まだ、完全には分からない。
だが、それでいい。分からないまま、前に進む。それが、自分の選んだ道だ。
朝倉は、拳を握りしめた。
南鳥島。
絶海の孤島で、何が待っているのか。
どんな敵が、どんな罠が、待ち受けているのか。
分からない。だが、怖くはなかった。
いや、怖い。怖いに決まっている。
だが、その恐怖を、朝倉は受け入れていた。
『怖さを知る人だけが、影を狩れる』
氷室の言葉が、胸に響く。
怖さを忘れない。怖さを受け入れる。
そして、それでも前に進む。
それが、半年間で学んだことだった。
朝倉は、深く息を吸った。そして、会議室を出た。
明日から、新たな戦いが始まる。
国家の影を狩る者として。
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硫黄の匂いが鼻をつく。
南鳥島は、東京から約一八〇〇キロ離れた絶海の孤島だ。
周囲わずか六キロの珊瑚礁の島に、今や巨大な採掘プラントが林立している。
NIAの六名は、海上自衛隊の輸送機で島に降り立った。
表向きは「政府の安全調査チーム」。
だが、その装備は調査員のそれではない。
「暑いな……」
堂嶋が額の汗を拭う。
「南国だからな。覚悟しておけ」
真壁が短く答えた。
基地の責任者、権藤ごんどう技術主任が出迎える。
白髪交じりの壮年の男。目の下には深い隈があった。
「政府から派遣された調査チームですか。……正直、助かります」
「状況を教えてくれ」
レオンが切り出す。
権藤は重い口を開いた。
「爆発の原因は、いまだ特定できていません。ただ……」
彼は声を落とした。
「あの夜、第三プラントの監視カメラが、三分間だけ停止していたんです」
「三分間?」
「ええ。システムエラーということになっていますが……私は、誰かが意図的に止めたと考えています」
氷室の目が細くなる。
「内部に協力者がいる、ということね」
「断言はできません。ですが、この島には二百名以上の作業員がいます。全員の身元を完全に把握するのは……」
「不可能だ」
レオンが頷いた。
「だからこそ、俺たちが来た」
朝倉は、遠くに見える採掘プラントを見つめた。
巨大なクレーンが、深海から泥を汲み上げている。
あの泥の中に、日本の未来がある。
そして、誰かがそれを奪おうとしている。
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その夜、白石は基地のサーバールームに籠もった。
「監視カメラのログ、全部洗い直す。三分間の空白、必ず痕跡がある」
「頼む」
レオンは、残りのメンバーを集めた。
「二手に分かれる。真壁と堂嶋は作業員の身辺調査。氷室と朝倉は、島の周辺を偵察しろ」
「了解」
氷室が頷く。
朝倉は彼女の後を追い、夜の島へと踏み出した。
月明かりが珊瑚礁を照らしている。波の音だけが響く、静寂の世界。
だが、その静寂の中に、何かが潜んでいる気配があった。
「氷室さん、あそこ……」
朝倉が指差した先、岩陰に小さな光が見えた。
「動くな」
氷室が腕を伸ばし、朝倉を制止する。
二人は身を低くし、岩場を這うように進んだ。
光の正体は、小型の通信機器だった。
誰かが、外部と連絡を取っている。
「……座標、確認した。第二プラント、明後日の〇三〇〇」
男の声が、微かに聞こえた。
日本語ではない。中国語だ。
氷室の目が鋭くなる。
「見つけた」
彼女が動こうとした瞬間、男が振り返った。
目が合う。一瞬の静寂。
そして、男が叫んだ。
「敵だ!」
岩陰から、複数の影が飛び出した。
三人。いや、四人。全員が、銃を構えている。
「朝倉、伏せろ!」
氷室が朝倉を突き飛ばし、自らは前に出た。
銃声が夜を切り裂く。弾丸が岩を砕き、火花が散った。
だが、氷室は止まらない。
彼女の身体が、闘牛のように低く沈み、一気に間合いを詰める。
最初の男の銃を払い落とし、肘で顎を砕く。
二人目の腕を捻り上げ、そのまま投げ飛ばす。
三人目が背後から襲いかかるが、氷室は振り向きざまに回し蹴りを叩き込んだ。
「がっ……!」
男が吹き飛び、岩に叩きつけられる。
残る一人が、震える手で銃を構えた。
「う、動くな……!」
「動かないわ」
氷室が冷たく笑う。
「でも、彼は動くわよ」
男が振り返った瞬間、朝倉の拳が顔面に突き刺さった。
男は白目を剥いて倒れた。
「……やった……」
朝倉は、自分の拳を見つめた。
震えている。だが、動けた。
「成長したわね、新入り」
氷室が髪をかき上げ、通信機を拾い上げた。
「これを白石に解析させる。敵の本拠地が分かるはずよ」
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白石の解析は、驚くべき結果をもたらした。
「通信の発信元は、島の南西三キロの海域。そこに……潜水艦がいる」
「潜水艦だと?」
真壁が眉をひそめる。
「中国海軍の『元』型。通常動力型だが、静粛性は高い。おそらく、工作員の母艦として使われている」
「つまり、島には複数の工作員が潜伏していて、本部は海の中ってことか」
堂嶋が舌打ちした。
「厄介だな」
レオンが腕を組む。
「捕らえた四人を尋問したが、口を割らない。だが、一つだけ分かったことがある」
彼はモニターを切り替えた。映し出されたのは、古い写真。
「この男を知っているか」
写真には、軍服姿の男が映っていた。鋭い目、薄い唇、そして左頬に走る傷跡。
「……『黒蛇ヘイシャー』」
真壁が呟いた。
「中国国家安全部の伝説的な工作員。コードネーム『黒蛇』。アジア各地で破壊工作を指揮してきた男だ」
「そいつが、この島に?」
「間違いない。捕虜の一人が、無意識にその名を口にした」
レオンの声が低くなる。
「黒蛇は、俺がまだ外人部隊にいた頃から名前を聞いていた。冷酷で、狡猾で、そして……絶対に任務を放棄しない」
「第二のテロは、明後日の午前三時」
白石が画面を指差す。
「第二プラントが標的だ。あそこが破壊されれば、採掘は最低でも二年は止まる」
「二年あれば、他国が追いつく」
神園が静かに言った。
「日本の資源戦略は、完全に崩壊するわ」
沈黙が落ちる。レオンが全員を見渡した。
「作戦を立てる。敵は海から来る。俺たちは、海で迎え撃つ」
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作戦決行の夜。
月は雲に隠れ、海は墨を流したように黒い。
NIAの六名は、二隻の高速艇に分乗していた。
「敵の潜水艦から、工作員を乗せたボートが出る。それを叩く」
レオンの声が、インカムに響く。
「同時に、白石が電子戦で潜水艦の通信を妨害。孤立させたところを、海自の哨戒機が追い込む」
「了解」
全員が応答する。
朝倉は、防弾ベストの上から胸を押さえた。
心臓が、うるさいほど鳴っている。
「怖いか?」
隣で、氷室が問う。
「……はい」
「いい答えね」
彼女は暗視ゴーグルを下ろした。
「怖さを忘れた奴から死んでいく。覚えておきなさい」
その時、白石の声が割り込んだ。
「敵、動いた! 三時方向、距離八〇〇!」
闇の中に、小さな影が見えた。
高速ボート。五隻。そして、その中央に立つ男の姿。
「……黒蛇」
レオンが呟く。
「全員、戦闘用意!」
エンジンが唸りを上げ、高速艇が波を蹴立てて突進する。
敵も気づいた。
ボートが散開し、銃火が閃いた。
「散れ!」
真壁が叫ぶ。
高速艇が急旋回し、弾幕を避ける。
堂嶋が船首に立ち、グレネードランチャーを構えた。
「食らえ!」
轟音とともに、敵の一隻が炎に包まれた。
「一隻撃破!」
「まだ四隻いる! 油断するな!」
氷室が自動小銃を構え、正確な射撃を浴びせる。
敵の工作員が次々と海に落ちていく。
だが、黒蛇のボートだけは、まるで蛇のように波間を縫い、攻撃を避け続けていた。
「あの野郎、速ぇ……!」
堂嶋が歯噛みする。
「追う!」
レオンが舵を切った。
二隻の高速艇が、黒蛇のボートを挟み込むように迫る。
距離が縮まる。
五〇メートル。
三〇メートル。
一〇メートル。
「跳べ!」
レオンの号令とともに、氷室と朝倉が敵のボートに飛び移った。
甲板に着地した瞬間、黒蛇が振り返った。
「……日本の犬か」
低い声。完璧な日本語だった。
「犬じゃないわ」
氷室が構える。
「影を狩る者よ」
黒蛇が笑った。
「面白い。では、狩られるのはどちらか、試してみようか」
彼の手に、短剣が閃いた。
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黒蛇の動きは、人間離れしていた。
氷室の拳をかわし、蹴りを受け流し、短剣で反撃する。
刃が氷室の頬をかすめ、血が飛んだ。
「っ……!」
「遅いな。これが日本最強の格闘家か?」
黒蛇が嘲笑う。
だが、氷室は止まらない。
彼女の目が、氷のように冷たく輝いた。
「舐めないで」
次の瞬間、彼女の動きが変わった。
重心が沈み、呼吸が深くなる。空手の構えではない。
古武術――合気の型だった。
黒蛇の短剣が突き出される。
氷室はそれを避けず、むしろ自ら刃に向かっていった。
「何……!?」
刃が肩をかすめる寸前、彼女の手が黒蛇の手首を捉えた。
そのまま、流れるような動きで投げ飛ばす。
黒蛇の身体が宙を舞い、甲板に叩きつけられた。
「がっ……!」
「終わりよ」
氷室が馬乗りになり、喉元に肘を押し当てる。
だが、その時。黒蛇の左手が動いた。
隠し持っていた小型拳銃が、氷室の腹に向けられる。
「死ね」
引き金が引かれる寸前、銃声が響いた。
黒蛇の手から、銃が弾き飛ばされた。
「……!」
振り返ると、朝倉が銃を構えて立っていた。
手は震えている。だが、銃口はまっすぐ黒蛇を向いていた。
「動くな」
朝倉の声は、かすれていた。
「動いたら、撃つ」
黒蛇が朝倉を見つめた。
「お前……あの時の新入りか」
「覚えてるのか」
「フォックスの報告書で見た。『眠る暗号鍵』を持つ男。……なるほど、成長したな」
黒蛇が笑う。
「だが、お前に俺は殺せない。お前の目には、まだ迷いがある」
「黙れ」
「殺せるか? 人間を。この手で、命を奪えるか?」
朝倉の指が、引き金にかかる。
一瞬の沈黙。そして、朝倉は銃口を下げた。
「……殺さない」
「やはりな」
「でも、お前を止める」
朝倉が一歩踏み出した。
「俺は影を狩る者だ。だが、影になるつもりはない」
黒蛇の目が、わずかに揺れた。
「……面白い男だ」
その時、レオンの高速艇が横付けされた。
真壁と堂嶋が飛び乗り、黒蛇を拘束する。
「確保! 黒蛇、確保!」
堂嶋が叫ぶ。黒蛇は抵抗しなかった。
ただ、朝倉を見つめていた。
「覚えておけ、若者。影は消えない。お前が一つ狩れば、十が生まれる。それでも狩り続けるか?」
朝倉は答えなかった。
ただ、夜明けの空を見上げた。
東の水平線が、薄く赤く染まり始めていた。
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作戦は成功した。
黒蛇の拘束により、第二プラントへのテロは未然に防がれた。
潜水艦は海自の哨戒機に追い込まれ、国際海域へと逃走。
島に潜伏していた工作員も、全員が拘束された。
「よくやった」
レオンが、全員の肩を叩いた。
「今回の功績は、記録に残らない。だが、俺たちは知っている。お前たちが日本を守ったことを」
氷室が肩の傷を押さえながら、小さく笑った。
「相変わらず、安い給料ね」
「文句は財務省に言え」
堂嶋が笑う。白石がノートPCを閉じた。
「黒蛇の通信記録から、さらに大きな組織の存在が浮かび上がりました。フォックスとも繋がっている可能性があります」
「また仕事が増えるわね」
神園がため息をついた。
「それが俺たちの日常だ」
真壁が肩をすくめる。朝倉は、海を見つめていた。
黒蛇の言葉が、頭から離れない。
『影は消えない。お前が一つ狩れば、十が生まれる』
それでも、狩り続ける。
それが、自分の選んだ道だから。
「朝倉」
氷室が隣に立った。
「さっき、なぜ撃たなかった?」
「……分かりません。ただ、殺したら何かが終わる気がして」
「何かって?」
「俺自身、かもしれません」
氷室は黙って海を見つめた。しばらくして、彼女は口を開いた。
「それでいいと思う」
「え?」
「殺さずに止められるなら、それが一番いい。私たちは影を狩るけど、影になっちゃいけない。あなたは正しかった」
朝倉は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「ありがとうございます」
「礼はいらない。その代わり、次も私の背中を守りなさい」
「はい」
夜明けの光が、二人を照らした。
南鳥島の採掘プラントが、朝日を浴びて輝いている。
日本の未来を支える、希望の光。
それを守るために、彼らは戦い続ける。
国家の影を狩る者たち。
終わりなき戦いは、まだ始まったばかりだ。
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東京、霞ヶ関。
国家特務庁の地下会議室で、レオンは一枚の写真を見つめていた。
黒蛇の拘束時に押収された、古い写真。
そこには、若き日の黒蛇と、もう一人の男が映っていた。
男の顔には、見覚えがあった。
「まさか……」
レオンの目が、鋭くなる。
写真の男は、日本の政界に深く食い込んでいる人物だった。
フォックス。黒蛇。そして、政界の闇。
すべてが、一本の線で繋がろうとしていた。
「神園」
「はい」
「この男について、調べてくれ。極秘でな」
「……了解しました」
神園が写真を受け取り、部屋を出ていく。
レオンは椅子に深く座り、天井を見上げた。
「影は、思ったより深いな……」
窓の外では、東京の街が普段通りの朝を迎えていた。
誰も知らない。
この国の平和が、どれほど多くの影によって守られているかを。
そして、その影を狩る者たちが、今日も静かに戦っていることを。
________________________________________
《スパイ防止法2030 ― 絶海の死線》
― 完 ―




