第1話 神々の戯れ言
もうすぐ夜の頂点。
薄暗い執務室内、執事オクタールは右手を胸に当て一礼をすると、落ち着いた声で言った。
裏口の、いつもの場所から彼の人はお帰りになりましたと。
「旦那様、彼の人のご負担を鑑みますと――」
「わかっている……護衛はもちろん付けたであろうな?」
「屈強な者を二名、ご安心を」
「うむ」
「それより、ご理解しているのならもう少し早めに切り上げるべきかと――」
「彼の人が全て悪いのだよ」
「はい?」
冷静沈着なオクタールの口から出たひと言、私に仕える者たちをまとめ上げる長とは思えないもので、なんとも可笑しくつい笑みがこぼれた。
今年六十五になる彼のトレードマークは小振りな老眼鏡に、白い髪を後頭部に流した髪型と、蓄えた白髭、そしてスリムな体系。
先代、父の頃から仕える優秀な執事で、性格は寡黙、そしてなにより引き際を知る男。
「旦那様……」
「いやなに、お前でも驚くことがあるのだなと思っただけだ」
「まったく、嘘がお上手で」
「フン、心にもないことを言いおって」
「はい」
「随分あっさりと引き下がるのだな」
「性分ですから」と、右手をいま一度胸に当てながら深々と一礼をしてきた。
「出来過ぎた執事を持つと逆に心労で倒れそうだ」
「お褒めいただき有り難うございます。小生のことより、本日はどのような内容でしたか?」
「内容……今回は――」
「真夜中までお引き止めしたのですから、それ相応のものと察します。して収穫のほうは――」
「そうさな――」
私は椅子に深々と身体を沈め、目を閉じた。
さて、なにから話そうか。
話す順番は?
伝えたい内容の優先度は?
小難しい言い回しをどう伝える?
そして、どこまで信じてもらえるだろうか。
彼の人は言われた。
「『細菌』『栄養』なるものが病気や怪我に大きく関わってきます」
酒を酌みつつの雑談は深夜に及び、それはなにかの話の流れで出た唐突なひと言だった。
身を後ろにグッと下がらせ驚く私に気づかないのかそれとも、あえて言葉をかけないのか澄んだ声で飄々とこうも言われた。
「推測の域を出ませんしグレードにもよりますが――聖水の原理は消毒と栄養、ワクチンの可能性もあると言っていいでしょうね」
聖水の原理!?
私は我が耳を疑った。
そしてテーブルの端に置いたカップが倒れワインが零れていることに話題の最中、気がつくことはなかった。
「病気の予防、とくに船乗りがかかりやすい病気の予防にはビタミンC。骨の健康にはビタミンD。特に感染症の際にはビタミンC、Dの摂取を意識的に取るといいですね」
「んん!?」
「まぁ簡単に言えば、色付きの下級聖水は凝縮した濃厚なサプリメントと言っていいでしょう」
意味不明で難解な言葉が次々発せられるなか、国家の転覆――いや、世界の深部をも覗き見るであろう言葉に心臓が止まるかと思った。
そんな私と対照的に彼の人はいたって冷静で、もしや本当に世界の深部に触れたのではとさえ脳裏に過った。
――聖水の奇跡――
それは様々で、怪我をしたとき、傷口に聖水を塗ることで化膿の広がりを押さえ込み、治癒魔法系の効力に相乗効果をもたらす。
また、病気の者、とくに食事ができないほど体力が落ちている者が口から摂取すると完治する。
色無し上級聖水にいたっては、火傷した患部に塗ると症状を抑え込み、さらに皮膚の移植すら可能とする。
色付き上級聖水ともなると男性器の持続性が続くらしく、王族の間で密かに人気があると聞いている。
さらにその上、最上級聖水はなんでも薄くなった頭皮に髪の毛が生え戻るという。
そして聖水の頂点、特級聖水は神話の世界か、はたまた伝承のなかにしか存在しなく、聖水を語るとき人々は敬い畏怖おののきこう呼ぶ。
――神々の流し賜う聖域――
聖水、それは何人にも何事にも浸食されてはいけない存在であり、須らく神聖領域の世界でもあり、古来より教会が独占している。
いや、正確には教会でしか生み出すことができない。
それも限られた一部の教会でのみ可能な御業。
この辺境の街バリアムトの教会にいたっては、聖水を保管しているだけで人々から敬われており、壺のフチから零れ出すように生み出すことはできない。
公然の秘密として、聖水を創れる教会でも製法を理解しておらず、古来より伝わる文献を頼りに魔法と魔術を組み上げることにより出来上がるらしく、さらに作成工程は複雑かつ難解で成功率も著しく低い。
仮にもし、聖水の一片でも知り得たなら巨万の富を得るのはもちろんのこと、名誉も地位も望むまま手に入り、王族すら頭を垂れ「我が娘と婚儀を結んでほしい」と王より直に賜るだろう。
それほど希有な存在、価値をまるで無視するかのように「下級~中級なら原理はなんとなくわかります。ただ、時間とお金、設備が盛り盛り必要ですね」と、一羽の白鳥が水面から飛び立つように突と言い放った彼の人に、私は問うた。
――貴女は、神々の執務室に忍び込み、人々が決して触れてはならぬ――開いてはならぬ――見てはならぬ――禁書を読み解いたのか――と。
「禁書……う~ん、時代背景とテクノロジーの進捗速度を考えますと、あながち外れた語彙ではありませんね」
「否定を……しないのか」
「否定といいますか……執務室と言うより――どちらかというと閨房のほうかもしれませんねぇ」
絶句する私を横目に彼の人は、澱みなく紐解いてくれた。
病気や怪我をしたとき、人の目には見えないほど小さな生き物『細菌』が深く関与して病気や怪我の治りに差が発生します。
また、食べ物には様々な『栄養』なるものがありまして、ただ闇雲に食せば良いものではなくエナジードリン――いや、一時的に眠気を緩和したり興奮作用のある下級聖水の劣化版、モンスターポーションには『カフェイン』という物質が含まれ、過度な摂取はあまりお勧めしませんね。
固有の病気に効くまたは予防に繋がる聖上級聖水がありますが、これは『ワクチン』なるものを体内に取り入れていると推測。
「ワクチン?」
「えっと、説明しますとかなり長くなりますがどうします?」
「そうか、では無視して続きを話してくれ――」そう告げたが正直、私の理解をはるかに超えた内容で、半分も頭に入らない。
えっとですね、ちなみに、手を出せそうなのは中級までが限界。それも品質は保証できませんが。
上級以上に関してはなんとなく程度で原理の説明はできますが、設備的にも技術的にも不可能ですね。
色付き上級聖水の効能の一部にマムシの――。
最上級聖水ほどではありませんが、衣食住の改善とストレス減を行うことによって抜け毛の進行を遅らせることが可能ですね。
神話の世界に存在すると言われる聖水の頂点、特級聖水も効能が判明すればたぶん、雰囲気ながらも説明はできると思います。
彼の人はまるで『小麦粉に数種類の材料を加え熱を入れるとパンができますよ~』と軽々しく言っているようなもの。
私は再度問うた。
――貴女は、神々が食するパンをも創れるのか――
さらに、
――そのパンは神々が手に取り食するもので、決して地上で這い回る我々が手を付けて良いものではない。そう私は考える――
「神々の食するパン……あーたしかにこの世界の人が、ふわふわの食パンやツナマヨパン、チーズナン、バターロール、シナモンロールを食したら悶絶するでしょうね。パンではありませんがスパイシーモチュチーズバーガーにチーズダブルinすると昇天しますね。あ、海老カツバーガーもいいですよ」
彼の人は笑みを見せながら材料さえあればできると豪語し、それらがどのように美味しいのか語る言葉の羅列はまるで、一つのメロディーのようであった。
そして私は、考えるのをやめた。
言葉のメロディーが続くなか、私は数ヶ月前の出来事を思い出した。
あの日も、今日のように肌寒い深夜。
彼の人と机をはさみ、彩り鮮やかな絵札、タロットカードとやらを使い私の未来を占ってくれた。
結果は『明るい未来』が、扉にドアストッパーを挟んで開放したまま貴方様の来訪を心待ちにしている――。
ただ一点、何事にも思慮深く物事を考え抜く技量が前提。
ルチア嬢はやおら呼吸を整え視線を左脇に束ねたカードに向け、上部から一枚引くと机の上に並べ口にした。
このカードは『WHEEL of FORTUNE./運命の輪』といい、運命、そして宇宙の法則に関わりを持ちます。
スッと姿勢をも正し、視線を合わせてきた。
「ジルベーヌ様、近い将来、貴方様の元に世界を変革させる力を持ったカードが一枚、ふらっと届きます」
「カード!?、ふらっと!?」
「比喩が入っていますが遠く外れた意味でありません」
「ふむ……して、どのように届くのだね?」
「ん~それは――小動物――そうですね……小リス!?が運んでくるようです」
「ドングリか木ノ実の間違いでは?」
「んん~なんとも言い難いですがともあれ、貴方様は迫られます。そのカードを捲るか――。それとも捲らず無視するか――」
「ふむふむ……カードとやらを、隠し金庫の中に仕舞い込むという選択肢はあるかね?」
またもルチア嬢は呼吸を整え、束ねカードの上部から二枚引くと机の上に並べ告げた。
一枚目のカードは『杖』の小アルカナカード。
象徴する事柄として目的、理想、直感、きっかけ、発端などが上げられます。
二枚目は『金貨』の小アルカナカードで、現実的な物事、金銭、物質等々。
「――もし、隠し金庫内に入れると、見ず知らずの誰かがそのカードを見つけ捲るという、ビジュアルがぼんやり浮かびました。」
「ビジュアル……タロット占い術とは不思議なものだな」
「そういうものですから」
「して、其方はカードを捲るべきと思うか?」
「捲ってもかまいませんが、また伏せた状態に戻して放置がよろしいかと」
「無視ではなく、戻して放置?」
「はい、放置が良きかと重ね重ね進言いたします」
「三十二歳でそのような選択を迫られるとは、なんとも人生はわからぬものだな」
深夜の占い、酒も入っていたせいか思考も鈍くそれ以上言及しなかったが、なぜ“あの日のことをいまになって思い出したのか”、明確に気づいた。
ふいに立ち上がり、窓に向かう。
外界に視線を向ける。
ふむ。
「旦那様、どうかされましたか?」
「ん?」
「会話の途中、急に外の景色に視線を向けたもので……」
「そうだな……」
「そうですね……」
「今宵は薄曇り空だが夜空は比較的明るいな」
「はい、ちょうど九節の九日目にございますので」
「そうだったな」
「晴れていればいまの時間帯でも光々と煌めく夜空、満月の夜にございます」
「すまぬが、茶を一杯入れてくれるか?」
「いまからですか?」
「そうだ、ラム酒を入れてな」
「深夜、しかも今からですとお身体に触りますゆえ、小生は控えるべきと進言いたします」
「フッ、進言か――」
「なに――か?」
「いやなんでもない……」
「旦那様、話の筋がまったく見えません……」
「すまぬがラム酒入りの紅茶をお前の分も準備してくれ」
「小生の分もですか……」
「そうだ」
なにせ彼の人の話を、お前はシラフで聞けるほど大器でなく、私も同様にベラベラと話せるほど大器ではないから。
あの日の占い術の最後、彼の人はこう〆た。
「満月の夜、選択肢は届くでしょう……ふらっと」
そして本日、彼の人、ルチア嬢はさらりと口にした。
「聖水、創ってもよろしいですか?」
『黒髪の魔女は優雅に魔術を詠む』と時系列がリンクしています。
共によろしくお願いします。




