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ジャパニーズドリーム~灰と残響の向こう側~(短編)(EmberFlight)

作者: 水底 宇宙

EmberFlightの第一章後、アイシャ短編となります。本編のネタバレにはなっていないのでお気軽に帰省電車の時間つぶしにでもお読みいただけますと幸いです。

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### Ⅰ 進学校への扉


 十六歳の秋、ロンドン郊外の空は長い雨に沈んでいた。

 アイシャは古びたフードを深くかぶり、受験会場となるグレースカレッジの石造りの門を見上げた。

 英国屈指の名門進学校。制服に縫い付けられた紋章は、表向き「卓越と伝統」を誇示している。だが裏では、国際的越境人材の“青田買い”を行い、将来の国家戦略に資する人材を水面下で確保していると噂されていた。


 彼女の推薦は、意外なところから来た。

 中学での地域社会プロジェクト、移民家庭の多文化支援活動。そして――火星社会研究会における異文化宗教圏の代表としての発表。

 学校側は、イスラム世界の視点を持ちつつ英国教育に順応できる“象徴的存在”として、彼女を推薦入試枠に引き込んだ。


 母は言った。「ここから先は、もう私の知る世界じゃない。行きなさい、アイシャ。」


 母の瞳に宿るのは、誇りか、不安か、あるいはその両方か。

 彼女は深呼吸をして門をくぐった。


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### Ⅱ 祈りの国と戦争の国


 アイシャが「アフガンの歴史」に本格的に触れたのは十三歳の秋だった。

 授業の課題で「家族のルーツ」を調べることになり、図書館の端末に“Afghanistan”と入力した瞬間、画面には母の語らなかった現実が広がった。


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#### 1. 王政の終焉と冷戦の狭間(1970年代前半まで)


 かつてアフガニスタンは、緩やかな近代化を進める立憲王政国家だった。

 だが1973年、ムハンマド・ダウド元首相がクーデターを起こし、王政は廃止され共和制へと移行する。

 しかし、その政権は経済停滞と部族間対立に苦しみ、国内外での支持を失っていった。


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#### 2. 対ソ依存と内乱(1978~1979年)


 1978年、人民民主党(親ソ連派)が軍事クーデターを起こし、共産主義政権を樹立。

 急進的な土地改革や宗教政策は農村部の反発を招き、各地で反乱が勃発する。

 ソ連はこれを抑えるため、1979年末に軍事侵攻を開始した。


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#### 3. ソ連侵攻と泥沼化(1979~1989年)


 ソ連軍は首都カブールを制圧したが、山岳地帯でのゲリラ戦に苦しめられる。

 アメリカ、パキスタン、中国、サウジアラビアがムジャヒディン(イスラム武装勢力)を支援し、戦争は国際代理戦争の様相を呈した。

 民間人は爆撃と地雷で命を奪われ、数百万人が隣国へ避難。

 10年後、ソ連は撤退したが、国土は疲弊し国家機能はほぼ崩壊していた。


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#### 4. 内戦とタリバーンの台頭(1989~2001年)


 ソ連撤退後、ムジャヒディン各派が権力を巡って内戦を繰り広げた。

 首都は砲撃で廃墟となり、経済は完全に麻痺。

 1990年代半ば、パキスタンで育成された宗教学生兵“タリバーン”が急速に勢力を拡大し、1996年にカブールを制圧。

 厳格なシャリア法が施行され、女性教育は全面禁止、音楽や芸術は禁じられた。


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#### 5. 米国の介入と長期占領(2001~2021年)


 2001年9月11日の同時多発テロを受け、米国はタリバーン政権をテロ支援国家と断定。

 英軍・NATO軍とともに侵攻し、短期間で政権崩壊。

 国際援助の下で新政府が樹立されたが、地方ではタリバーンが反攻を続け、治安は回復しなかった。


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#### 6. 米軍撤退とタリバーン復権(2021年)


 バイデン政権は米軍撤退を急ぎ、計画は混乱の中で進行。

 タリバーンは瞬く間に全土を掌握し、20年ぶりに政権復帰。

 多くの市民、特に教育を受けた女性や西側協力者が国外脱出を試みた。

 このときの混乱は、アイシャの母が十代の頃に間接的に経験した“大脱出”の記憶として家族の中に残った。


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#### 7. 2100年のアフガニスタン


 火星開発に国際資源が振り向けられた結果、アフガンは支援優先度を失い、政治的孤立を深めた。

 都市部の一部では緩やかな近代化が進んだが、農村と山岳地帯は依然として武装勢力と貧困が支配する。

 国際社会は「内政不干渉」の名の下に介入を避け、アフガンは自らの力で生き延びるしかなかった。


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### Ⅲ 虚構のふるさと


 やがてアイシャは、母の話が実体験ではないことに気づく。

 母は2062年生まれ。ソ連侵攻もタリバーンの勃興も、彼女にとっては曽祖母から聞いた物語にすぎない。

 それでも母は、それらを自分の記憶のように語った。難民キャンプで繰り返し聞いた「誰かの悲劇」を、自らの物語に編み直して。


 ――祈りは、母を守った。

 しかし同時に、母を過去の物語に閉じ込めた。


 アイシャはノートを開き、詩を書いた。


> わたしの母は

> 誰かから聞いた祈りを今も語る

> わたしはその祈りの意味を

> 本当は知らない

>

> でも

> 祈りと記憶の裂け目で

> わたしだけの声を探したい


 その瞬間、彼女の中で「帰る場所」という概念は崩れ落ちた。

 残ったのは、語られた物語と、歴史資料の断片、そして“空白”だけだった。


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### Ⅳ 進路の迷路


 十七歳になった秋、A-levelの履修はすでに終盤を迎えていた。

 彼女の科目は英語、歴史、現代社会、宗教学。数学は標準履修のみ。

 英国の大学システムでは、この選択は日本風に言えば事実上“文系”と見なされる。


 雨の日の午後、進路面談室。

 窓の外、濡れたプラタナスの葉が芝生に貼り付いている。


「……もし私が、宗教を切り離して合理的に生きると決めたら、進む道はありますか?」


 アン先生は机越しに静かに彼女を見つめた。「貴女は何を“合理的”と呼んでいるの?」


「救いを外部に求めないことです。支援や善意の枠組みに、自分をはめない。

 本当に生活基盤を持てる場所に行きたい。」


「NGOや国際機関では、それは難しいと?」


「はい。あれは……難民であることを再生産するだけです。」


 アン先生は頷いた。「もし本当に、あらゆる手段を取る覚悟があるなら――“日本”という選択肢はどうかしら?」


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### Ⅴ ジャパニーズドリーム


「日本……?」


「そう。近年、日本は越境人材の受け入れを拡大している。

 貴女のように英国で学び、日本人留学生を受け入れた経験を持つ者は、推薦や国際枠で歓迎されるわ。」


「でも、私は理系じゃない。」


「火星TECH-DAOや新世代プロジェクトは、文理の枠を越えた人材を求めている。

 宗教・詩・歴史を背景に持つ貴女は、越境者の組織への組み込みや、逆に引き続き支援の必要な地方に対する計画設計で価値を持てる。

 日本なら英国で貴女が突き当たるA-levelの壁を越えられる総合選抜枠があるわ。」


 アン先生はさらに言葉を重ねた。

「中村哲医師を知っているね?

 彼は日本とアフガニスタンをつなぎ、現場で人々の未来を築いた。

 今、日本の大学はそうした“越境の物語”を未来の人材像として描こうとしている。」


 アイシャは、雨に煙る窓の向こうを見た。

 灰色の空、その向こうにまだ見ぬ国。

 どこにも帰れなかった自分が、どこへでも行ける存在になれるだろうか――。


「……やってみたいです。」


 アン先生は微笑んだ。「では、日本行きの準備を始めましょう。」


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### 終章


 外の雨はやみ、雲間から淡い光が差し込んだ。

 濡れたプラタナスの葉が光を受け、地面の上で静かに輝いている。

 灰と残響の向こう側――そこに彼女の新しい物語が始まろうとしていた。


――EmberFlight外伝・アイシャ編。これはEmberFlight第一章のすこしあとの物語。


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