第82話 朝・ウサギと奇跡の瞬間
二十八日目の朝。
「ん……もう朝……?」
重い瞼をこじ開けると、PCのモニターがまだ青白く光ってる。あ、そうだ。昨夜、再統合の処理を走らせたんだ。三日連続の徹夜で、もう体がバキバキ。頭が鉛みたいに重くて、首がまともに持ち上がらない。口の中が砂漠みたいにカラカラで、喉が焼けるように痛い。
「やば……これマジで限界かも」
ベッドから這い出ようとして、足がもつれる。昨夜は机に突っ伏して眠ってしまったけど、知らない間にベッドで寝てたようだ。体のあちこちが変な方向に曲がってたみたいで、痛い。筋肉が悲鳴を上げてる。
「うわっ!」
よろけながらなんとか立ち上がる。鏡を見ると、目の下のクマがヤバい。パンダじゃん、これ。いや、パンダに失礼かも。髪もボサボサで、完全にホラー映画の呪われた少女。でも、そんなこと気にしてる余裕ない。今日が、最後の日だから。
あ、そうだ。今日の衣装。
LAUNDRYボックスの上を見ると、見覚えのある紙袋が、まるで挑戦状みたいに置かれてた。いや、これは挑戦状だ。間違いなく。
「え……まさか」
嫌な予感がする。心臓が早鐘を打つ。恐る恐る近づいて、袋の中を覗く。
「……やっぱり」
Day24に私が全力で『拒否』した、あのウサギの耳付き衣装。バニースーツ。光沢のある黒いサテン生地が、室内の照明を受けて妖しく輝いてる。妙になまめかしくて、思わず目を逸らしそうになる。
「最後の最後で、これかよ!マジで!?」
思わず声が大きくなる。誰も聞いてないけど。でも、手に取ってみると、意外と生地がしっかりしてる。安物のコスプレ衣装じゃない。ちゃんとしたやつだ。内側にワイヤーとボーンが入ってて、体型を補正する仕組みになってる。
「これ……本格的じゃん……」
もう外に出て撮影することはない。この灼熱地獄の部屋で、たった一人で着るだけ。ケンタくんに見られるわけでもない……いや、窓越しには見えちゃうけど!でも、でも。
胸の奥で、何かが囁く。
『最後だよ』
そうだ。最後なんだ。あと二日で、ここから出られる。この島での、最後の朝。だったら。
「あー、もう!どうにでもなれ!」
ヤケクソ気味に、その黒い生地に身を包む。背中のファスナーを上げるのに少し手間取る。でも、着てみると——
「あれ……?」
意外と肌触りがいい。サテンのポリエステルが、肌に吸い付くように馴染む。そして、ワイヤーとボーンのサポート効果で、体がキュッと引き締まる感覚。
「なにこれ……めっちゃフィットする……」
ウサギの耳を頭につけて、しっぽもつける。スナップボタンで簡単に装着できた。鏡を見る。
「……」
そこに映ってるのは、知らない私。いつもの、ボサボサ髪でクマだらけの疲れ果てた高校生じゃない。
黒いバニースーツに身を包んだ、ちょっと大人っぽい——いや、かなり大人っぽい——女の子。
「変……マジで変……でも……」
ウサギの耳としっぽが、最初は虚しく見えた。でも、じっと見てると、なんだか可愛く見えてくる。
「あれ……?なんか……悪くない……?」
鏡の前でくるっと回ってみる。しっぽがふわって揺れる。
「……ちょっと、可愛いかも」
思わず、そんな言葉が口から出た。自分で言っててビックリする。
私、何やってるんだろう。高校二年生の夏休みに、廃墟の島でバニースーツ。こんな青春、誰が想像する?でも——
「まあ、いっか。もう何でもいいや」
鏡に映る自分に、力なく笑いかける。いや、力なくじゃない。ちょっと、楽しくなってきた。
「お腹すいた……」
朝食のタッチパネルを開く。メニューを見てたら、なんか急にテンションが上がってきた。
「トースト!今日はトーストにしよ!」
出てきたトーストには、バターとジャムが添えられてる。
「両方塗っちゃえ!もうどうにでもなれ精神!」
バターをたっぷり塗って、その上からイチゴジャムも塗る。カロリー?知らん。もう知らん。一口かじると、甘くてバターの香ばしさが口いっぱいに広がる。
「うまっ!これ最高!」
もぐもぐ食べながら、グンちゃんが足元で「にゃあ」って鳴いてる。私の足元、バニースーツの黒い生地とハイヒールを見上げてる。
「はい、グンちゃん。ちょっとだけね」
トーストの端を小さくちぎってあげる。グンちゃん、嬉しそう。
「ねえボトル子、聞いて。今日バニースーツ着たんだよ。信じられる?」
ボトル子は相変わらず、あの優しい笑顔で立ってる。
「最初は超嫌だったんだけどさ……着てみたら、意外と……悪くない……かも」
食べ終わって、恐る恐るPCの画面を確認する。心臓がバクバクする。ううん、バクバクなんて生易しいものじゃない。胸が破裂しそう。昨夜、再統合の処理をかけて寝落ちしちゃったけど、ちゃんと終わってるかな?
画面を見る。
『処理が完了しました』
「……!」
目を見開く。呼吸が止まる。世界が、一瞬、静止したみたいに感じる。
やった!無事に終わった!
疲労を超えた、確かな達成感が、胸の奥からこみ上げてくる。熱いものが、喉の奥を駆け上がってくる。
窓の向こうを見ると、ケンタくんも同じ画面を見てる。彼も気づいたんだ。私たち、目が合う。
「今日、完成する……」
震える指で、最後のレンダリングボタンにマウスを合わせる。手が震えて、なかなかクリックできない。マウスカーソルが、ボタンの上で小刻みに震えてる。
「よし……いくよ……」
深呼吸して。大きく、大きく。
カチッ。
クリックした。
窓の向こうで、ケンタくんも同じタイミングでクリックしたのが見えた。まるで、打ち合わせたみたいに。シンクロしてる。私たち、本当にシンクロしてる。
次の瞬間、PCが、これまで聞いたことのないような大きな唸り声を上げ始めた。
「ブーーーーン!!」
「うわっ、すごい音!壊れない?!大丈夫?!」
ファンが全開で回ってる。まるで飛行機のエンジンみたい。CPUの温度計を見ると、すでに80度を超えてる。
「熱っ!PCが熱い!」
プログレスバーが表示される。
『推定残り時間:6時間』
「6時間……!?マジで!?」
長い。すごく長い。でも、これが最後の計算。本当に、最後。
「ねえボトル子、最後だよ。あと6時間で、私たち、完成させるんだよ」
ボトル子は笑ってる。いつもの、優しい笑顔。
「グンちゃん、これが最後の計算だよ。あと6時間」
「にゃあ」
「そう、あと6時間。待とうね」
「にゃあ」
グンちゃんが、私の足に体をすりすりしてくる。バニースーツの生地に、グンちゃんの温もりが伝わってくる。
今日も、一人じゃなかった。グンちゃんとボトル子と、そして窓の向こうのケンタくんがいる。
そして、最後の計算が始まった。あと6時間。待つしかない。
鏡をちらっと見る。黒いバニースーツ姿の私が、そこにいる。
「……意外と、いいかも」
小さく呟く。誰にも聞こえないように。でも、心の中では、もう認めてる。
ちょっと、気に入ってきた。このバニースーツ。




