第81話 夜・コーヒーと化学式
気がつくと、もう夕方になっていた。
体が重い。
汗ばんでる。
「シャワー浴びよう……さっぱりしたい……」
そういえば、今日は忙しくて一度も着替えてなかった。
昨日と同じアイドル衣装。
「今日、忙しすぎて着替えてなかった……昨日と同じアイドル衣装のまま……」
バスルームに入る。
シャワーを浴びる。
温かいお湯が体を流れていく。
「はぁ……気持ちいい……」
頭を洗う。
体を洗う。
疲れが少し取れる気がする。
「この島、共同浴場が基本だったんだよね……」
資料で読んだ。
軍艦島の風呂事情。
共同浴場が4カ所。
61号棟の地下にあった「下風呂」が一番大きくて、8号棟1階の「上風呂」も大規模だった。
66号棟の地下には鉱員用の小さな風呂。
31号棟の地下には下請業者用の風呂。
「入浴時間が15時から20時まで……5時間だけ……」
人口3,700人弱。
約200人が1時間に1つの風呂を使う計算。
めちゃくちゃ混雑してたんだ。
「でも、それが島民の絆を深くしたんだって……」
内風呂があったのは、職員社宅の3号棟だけ。
海底水道が敷設された後。
島内のアパートで唯一。
あとは鉱長社宅や職員クラブハウス、旅館の清風荘、病院。
「私、一人でシャワー浴びられるだけでも贅沢なんだ……」
感謝。
シャワーを終えて、タオルで体を拭く。
髪も拭く。
「さっぱりした……」
そうだ、今日の服。
LAUNDRYボックスを開ける。
「今日は何だったんだろう……」
開ける。
見る。
「!?」
中には、チェック柄の、アイドルみたいなステージ衣装が入っていた。
「え……これ……昨日と同じ衣装じゃん!?」
よく見る。
昨日のは赤と白のチェック。
今日のは青と白のチェック。
「ただ色を変えてくるとか新しい嫌がらせだわ……!」
でも、昨日着たアイドル衣装、意外と動きやすかった。
軽いし、可愛いし。
「まあ……昨日のアイドル衣装、意外と悪くなかったしな……」
着てみる。
鏡を見る。
青と白のチェック。
フリルのついたスカート。
「うん……やっぱり可愛い……動きやすいし……」
ちょっとだけポーズを取ってみる。
アイドルっぽく。
ピースサイン。
「……何やってんだ私」
でも、嫌いじゃない。
むしろ、気に入ってきた。
「これ、気に入ってきたかも……」
グンちゃんが見てる。
「にゃあ?」
「グンちゃん、どう?似合ってる?」
「にゃあ」
「ありがとう」
よし、これで作業再開!
その夜、私たちは、コアデータを慎重に除去した。
一つ一つ、確認しながら、削除する。
慎重に。
失敗できない。
一つ削除。
確認。
また一つ削除。
また確認。
そして、再統合の処理を開始した。
プログレスバーが表示される。
1%。
遅い。
もう、失敗は許されない。
お腹がすいた。
タッチパネルで夕食注文。
ゴーヤチャンプルー。
「ゴーヤチャンプルー!沖縄料理……また……」
ウィーン。出てきた。ゴーヤの匂い。豚肉の匂い。
部屋は冷たくて、温かい料理が染みる。
食べる。
苦い。
でも、美味しい。
「苦いけど、美味しい!この苦味が、今の私にはちょうどいいかも」
もぐもぐ食べる。
栄養補助食品も食べる。
かじる。
味がない。
でも、食べる。
処理が終わるのを待つ。
プログレスバー。
10%。
「遅い……でも、待つしかない」
グンちゃんに話しかける。
「グンちゃん、遅いね」
「にゃあ」
「そうだよね」
ボトル子にも。
「ねえボトル子、待つしかない」
ボトル子は笑ってる。今日は、静かに笑ってる気がする。
「そうだよね」
眠気覚まし。
コーヒーを淹れる。
淹れて、飲む。
苦い。
でも、飲む。
また淹れる。
また飲む。
何杯も。
眠気覚ましに、何杯もコーヒーを飲む。
数える。
5杯。
まだ飲む。
6杯。
「もう、コーヒーが血液になってる気がする……」
グンちゃんが見てる。
「にゃあ?」
「大丈夫、グンちゃん。大丈夫だから」
「にゃあ」
でも、眠い。
「眠い……でも、飲む」
メモを書く。
弱音。
『もう、コーヒーが血液になってる気がする』
グンちゃんに託す。
「お願い、グンちゃん」
「にゃあ」
「ありがとう」
しばらくして、返事が来た。
「にゃあ!」
「グンちゃん、ありがとう」
開く。
読む。
『カフェインの化学式はC8H10N4O2だ。過剰摂取には気をつけろ』
「……!化学式?C8H10N4O2?」
「……知るか!今、そういうこと言ってるんじゃない!」
声が出る。
でも、笑える。
私は、悪態をつきながらも、その理系男子すぎる励ましに、少しだけ、笑ってしまった。
「くすっ……理系男子、全開……でも、ありがとう」
心配してくれてるんだ。
不器用な励まし。
でも、嬉しい。
ボトル子に報告。
「ねえボトル子、聞いて。ケンタくんが化学式教えてくれた。C8H10N4O2だって。理系男子すぎる。でも……ありがたい」
ボトル子は笑ってる。今日は、楽しそうに見える。
グンちゃんも見てる。
「にゃあ」
「グンちゃんもそう思う?」
「にゃあ」
「だよね」
窓の向こうを見る。
ケンタくんの部屋。
明かりがついてる。
彼も、きっと、同じように、コーヒーを片手に戦っている。
同じ。
「一人じゃない。確かに、私たちは、二人で、一つのチームなんだ」
嬉しい。
疲れてる。
でも、嬉しい。
コーヒーを飲む。
また飲む。
【残り日数:3日】
画面の数字を見る。赤い数字。冷たい数字。
「あと3日……もうすぐ……」
夜明けは、もうすぐだ。
終わりが近い。
でも、まだやることがある。
頑張る。
ケンタくんと、一緒に。
プログレスバー。
まだ進んでる。
30%。
「まだかかる……眠い……でも……」
あくびが出る。
「ふぁ……眠い……」
グンちゃんが心配そうに見てる。
「にゃあ?」
「大丈夫……大丈夫だから……」
でも、まぶたが重い。
PCの画面を見つめながら、私は、いつの間にか、青と白のアイドル衣装を着たまま、机に突っ伏して眠ってしまった。
「おやすみ、26番さん……」
「おやすみ、ボトル子……」
「おやすみ、グンちゃん……」
「おやすみ、ケンタくん……」
小さく呟いて、意識が遠のいていく。
今夜も、一人じゃなかった。
そして、残り3日。
最後まで、走り抜ける。
「走り抜ける……絶対に、完成させる……」
最後の言葉を呟いて、私は深い眠りに落ちた。
アイドル衣装のフリルが、静かな部屋の中で、私の規則正しい寝息に合わせてわずかに揺れていた。
解決への道筋が、見えてきた。




