第68話 昼・釣れない魚と心地よい沈黙
部屋に戻る。
「ただいまー……」
グンちゃんが出迎えてくれた。
「にゃあ!」
「グンちゃん、ただいま。頑張ったよ」
抱きしめる。
「にゃあ」
タッチパネルで昼食を注文。
湯豆腐定食。
「湯豆腐定食……」
ウィーン。出てきた。豆腐の匂い。昆布だしの匂い。温かい匂い。
部屋は冷たいけど、その冷たさが体に染みる。
出てきた湯豆腐定食が、きれい。
真っ白な豆腐から湯気が立ち上る。
昆布だしのいい匂い。
ポン酢で食べる。
一口。
「美味しい!昆布だしが効いてて、すごく上品な味……」
豆腐が柔らかい。
ポン酢でさっぱり。
もぐもぐ食べる。
「日本人でよかった……本当に……」
心から思う。
グンちゃんにも少しあげる。
「はい、グンちゃん」
「にゃあ」
ボトル子に報告。
「ねえボトル子、今日すごかったよ。完璧な連携だった。ケンタくんと。言葉なくても分かるの」
ボトル子は笑ってる。いつも笑ってる。今日は、なんだか嬉しそうに見える。
食べ終わって、PCを起動。
「よし、データ処理しよう」
膨大なデータをPCに投入する。
今日の写真と、ケンタくんのレーザーデータも。
「統合処理……開始!」
プログレスバー。
部屋の換気扇が、低く回ってる。ヴーーーン。
「処理中……」
1%。
「遅い……」
計算時間は、昨日以上にかかりそうだ。
待つしかない。
2%。
「……」
3%。
「……暇だね、グンちゃん」
グンちゃんを見る。
「にゃあ」
「暇だよねー」
部屋の中を見回す。
何しよう。
部屋の隅に、釣り糸がある。
手に取る。
安全ピンも見つけた。
「これで……釣り針作れる?」
作ってみる。
釣り糸に安全ピンを結ぶ。
即席の釣り針。
「できた!釣り、できるかな……」
グンちゃんに話しかける。
「ねえグンちゃん、ケンタくんを誘ってみよう」
「にゃあ」
メモを書く。
『釣り、しない?』
「これでいいか」
グンちゃんに託す。
首輪に結ぶ。
「お願い、グンちゃん。届けてくれる?」
「にゃあ」
「ありがとう」
グンちゃんが出発した。
しばらくして、グンちゃんが帰ってきた。
「にゃあ!」
「グンちゃん!返事は?」
首輪からメモを外して、開く。
『乗った』
「!」
「乗ってくれた!嬉しい!」
釣り糸を持って、外に出る。
私たちは、それぞれの部屋の前の岸壁から、釣り糸を垂らした。
じりじりと肌を焼く真夏の日差し。
「暑い……じりじり……」
空を見上げる。
入道雲がもくもくと湧き上がっている。
コンクリートの岸壁から陽炎が立ち上る。
遠くの廃墟の輪郭が曖昧に揺らいでいた。
もちろん、餌なんてない。
でも、それで良かった。
巫女服の緋袴の裾をたくし上げて、岸壁に腰を下ろす。
汗で張り付く生地。
気持ち悪い。
でも、それすらもこの夏のリアルだった。
ただ、穏やかな午後の日差しの中で、ぼーっと海を眺める。
深い藍色の水面。
太陽の光を反射して、ダイヤモンドみたいにキラキラと輝いていた。
「きれい……」
釣り糸を垂らして、待つ。
魚は来ない。
でも、いい。
時々、窓越しに顔を見合わせる。
ケンタくんも見てる。
汗を拭う仕草。
こちらを見てた。
釣れないね、とでも言うように、彼が小さく肩をすくめて笑う。
私も、おかしくなって笑い返した。
言葉はいらない。
この静かで、満ち足りた時間。
遠くで鳴くウミネコの声。
規則正しく寄せては返す波の音。
それだけが、私たちの間に流れている。
「十分……」
東京の夏は、いつも何かに追われていた。
夏期講習、バイト、友達との約束。
いつも忙しかった。
こんなふうに、ただ時間が溶けていくのを全身で感じることなんて、一度もなかったかもしれない。
贅沢。
幸せ。
一時間経った。
私たちのバケツは、空っぽのままだった。
魚は一匹も釣れなかった。
でも、心は、なんだか、すごく満たされていた。
ただ隣にいる。
それだけで、こんなに安心するなんて知らなかった。
ケンタくんとの間に流れる、静かで穏やかな空気感が、たまらなく心地よかった。
今日も、一人じゃなかった。
そして、何も釣れなかったけど、心が満たされた。
幸せな時間。




