第47話 昼・嵐の中の一人と一匹
部屋に子猫を連れ帰った。
「よいしょ……」
ドアを閉めると、ゴォォという風の音が少しだけ遠くなった。
でもまだ聞こえる。
建物が軋む音。
ミシミシ。
子猫を下ろすと、ブルブルと体を震わせていた。
びしょ濡れだ。
「寒いよね……タオル持ってくるね、待っててね」
タオルを取りに行って戻ってくると、子猫は部屋の隅で丸くなっていた。
小さい。
すごく小さい。
「怖いよね、知らない場所……私も最初そうだった。ここに来た時、すごく怖かった」
タオルで優しく体を拭いてあげる。頭を拭いて、背中も拭いて、お腹も。
すると──
ゴロゴロゴロ。
「!」
「ゴロゴロ言ってる!可愛い!めっちゃ可愛い!」
どうやら、気に入ってくれたみたい。
拭き終わると、子猫の茶色い毛並みが少しふわっとなった。
「ふわふわになった。可愛いね。すごく可愛い」
ボトル子に紹介する。
「ねえボトル子、見て。猫だよ。可愛いでしょ?すごく可愛いでしょ?」
ボトル子はいつものように笑ってる。いつも笑ってる。変わらない笑顔。
子猫はボトル子を見て、首を傾げる。
「にゃ?」
「これはボトル子。私の友達。変な友達だけど、いい子なんだよ。ずっと一緒にいてくれたんだ。昨日も、一昨日も、ずっと」
子猫は、私の足元にすり寄ってきた。
そして、丸くなった。
温かい。
気に入ってくれたのかな。
「君の名前は……グンちゃん」
「軍艦島の、グンちゃん。よろしくね」
子猫は、「にゃあ」と鳴いた。
「気に入った?よかった」
グンちゃんは、ゴロゴロ喉を鳴らす。
可愛い。
すごく可愛い。
外は、本格的な嵐になっていた。
窓ガラスを、雨粒が激しく叩きつける。
バシバシバシ。
ゴォォォという風の音が、まるで世界の終わりのよう。
怖い。
でも、グンちゃんがいる。
今日は、もう外には出られない。
「この嵐……台風だよね」
窓の外を見る。
暗い。
風が建物を揺らしてる。
「この島、大丈夫なのかな……」
不安になって、解説資料を開く。PCで検索。「軍艦島 台風」。
「台風との戦い……」
資料を読み始める。
軍艦島では、台風との戦いが常に命題だった。東シナ海に面した外海側には「防潮棟」と呼ばれる建物が造られた。
「防潮棟……波を防ぐための建物?」
31号棟、48号棟、51号棟。この3つの建物は、堤防に沿って壁のように建てられて、迫り来る台風の波浪から島を守る役割を担っていた。
「壁のように……建物が、防波堤の役割を?」
すごい。建物そのものが盾になってたんだ。
48号棟や31号棟では、居室が海側に一切面していない。波浪被害を軽減するため。廊下窓の外には、防潮用の板をはめ込む木製のスリットもあった。
「窓を板で塞ぐんだ……じゃないと、波が入ってくるから」
でも、これだと居室からの眺望が悪い。晴れた日にも海が見えない。
「それは寂しいよね……海の近くに住んでるのに、海が見えないなんて」
だから51号棟では、窓を極力小さくして、ベランダを二重構造にすることで、波浪を避けながら晴天時には海を眺められる構造にしたらしい。
「二重構造のベランダ……すごい工夫」
66号棟や監理員食堂では、屋根を二重構造にする工夫もされてた。
「屋根も二重……台風対策、すごい」
さらに読み進める。
鉱員社宅の1階は全て半地下に造られていて、かつては波浪によって島内に浸入した海水の「吐け階」としての役割を担っていた。「防潮階」と呼ばれてた。
「吐け階……海水が入ってきても、そこから流せるように……」
地下のある建物では、地下階段の入り口にシャッターを設けて海水の浸入を防いだ。65号棟などは、廊下の各所に鉄のシャッターが設置されてる。これも波浪浸水時の浸水防止のため。
「シャッター……どこまで波が来るの……怖い」
そして、全ての住宅や社宅は島の中央以外、外海側に建てられていた。
住宅棟全体が、島中央の岩礁と一体となって、内側に広がる区域全体を守る防潮壁になってたんだ。
「住宅棟全体が……防潮壁……」
「身を以て島を守る」
その言葉が、胸に刺さる。
「人が住んでる建物が、盾になってたんだ……」
潮降街っていう場所もあった。65号棟と66号棟に挟まれた場所。
時化や台風の時には、打ち上げられた高波が、堤防はおろか建物までも乗り越えて、雨のように降って来たって。
「波が建物を超えて……雨のように……」
想像できない。
どれだけの高さの波だったんだろう。
グンちゃんを見る。丸くなって眠ってる。
すーすー。
規則正しい寝息。
「でも、いいよね。今日は休もう、グンちゃん。外は危険だもん」
時計を見る。お昼だ。
「お昼ご飯食べよう。肉!元気出さなきゃ!」
昼食は、奮発してステーキを頼んだ。
やっぱり元気がない時は肉だよね!
ウィーンとトレーが出てくる。肉の匂い。香ばしい匂い。温かい匂い。
でも、この部屋は相変わらず冷たい。
タッチパネルから出てきたステーキは、本格的でいい匂い。肉の香りが部屋に広がる。
「すごい!美味しそう!いい匂い!」
グンちゃんを見る。起きた。
「グンちゃんも食べる?」
お肉を少しだけ切り取って、お皿に乗せる。地面に置くと、グンちゃんが近づいてくる。
クンクン匂いを嗅いで、食べ始めた。
「食べた!美味しい?」
グンちゃんは夢中で食べてる。
気に入ったみたい。
しっぽをフリフリしてる。
私もステーキを食べる。ナイフとフォークで切ると、柔らかくて、肉汁があふれる。
「いただきます……わっ、美味しい!じゅわっと肉汁!最高!お肉って最高!」
一人と一匹、嵐の部屋で、静かに食事をする。
昨日までの、張り詰めるような孤独が、嘘みたいだ。
昨日は、一人だった。
完全に一人だった。
でも、今日は違う。
グンちゃんが、ただそこにいてくれるだけで、この部屋が、温かい「家」になった気がする。
「そう、家だ」
ボトル子に話しかける。
「ねえボトル子、家みたいでしょ?グンちゃんがいるだけで、全然違う。一人じゃないって、こういうことなんだね」
ボトル子は笑ってる。いつも笑ってる。変わらない笑顔。
ステーキを食べ終わって、満足。お腹いっぱい。グンちゃんもお肉を食べ終わって、お腹いっぱいみたい。
「にゃあ」
「よかった。お腹いっぱいになった?」
外の嵐の音を聞く。
ゴォォォォ。
でも、さっきより少しマシになった気がする。
「あれ?少し静かになった?」
窓の外を見る。雨はまだ降ってるけど、さっきより弱い。風も少し落ち着いた?
「今のうちに……」
ふと思いつく。
グンちゃんのために、何か必要なものがあるかもしれない。
お皿とか、寝床にするダンボールとか。
「グンちゃん、ちょっと出てくるね。すぐ戻るから」
グンちゃんを見る。丸くなって眠そう。
「大丈夫、すぐだから」
カーディガンを羽織って、外に出る。
「うわっ!」
風が強い。まだまだ強い。髪が乱れる。
でも、さっきよりはマシ。歩ける。
階段を下りる。濡れた地面。滑りそう。慎重に。
「何かないかな……」
周りを見渡す。この島のどこかに、使えるものが残ってるかも。
歩いていると、資料で読んだ場所に出た。
「あ、ここが……65号棟と66号棟の間……」
潮降街だ。
Day13の資料で読んだ。
「潮降街……ここが……」
建物に挟まれた通り。
薄暗い。
狭い。
二つの建物が、壁のように立っている。
その時だった。
ゴォォォォォ!
突然、風が唸り声を上げた。
「え?」
見上げると、遠くの海から、巨大な波が立ち上がっていた。
「うそ……あれ……」
波が、防波堤に激突する。
ドォォォォン!
轟音。
地面が揺れる。
そして――
「……え?」
波が、防波堤を超えた。
空高く跳ね上がった白い飛沫が、建物を越えて、こっちに向かってくる。
「嘘でしょ!?」
雨?
いや、潮だ!
海水だ!
バシャアアアアア!
上から、大量の潮が降ってきた!
まるで、バケツをひっくり返したみたいに!
「うわああああ!」
逃げる!走る!
でも間に合わない!
ザバアアアアア!
全身びしょ濡れ!
冷たい!
しょっぱい!
「うわっ!冷たい!しょっぱい!」
目に入る!口に入る!
「ぺっ!ぺっ!しょっぱい!海水!」
必死に走る。
また波が来る!
ドォォォォン!
また!
バシャアアアアア!
「きゃあああ!」
もう一度びしょ濡れ!
「もう無理!逃げる!」
全力で階段を駆け上がる。
息が切れる。
心臓がバクバクする。
でも走る!
部屋のドアを開けて飛び込む。
バタン!
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
床に倒れ込む。
全身びしょ濡れ。
グンちゃんが近づいてくる。
「にゃあ?」
「グンちゃん……潮降街……本物だった……」
息が切れる。全身びしょ濡れ。髪から水が滴る。服も全部濡れてる。
「波が……建物越えた……すごかった……怖かった……」
立ち上がる。鏡を見る。
「……うわぁ」
海藻みたいな髪。
びしょびしょの服。
顔に海水の跡。
「海から上がってきた人みたい……」
グンちゃんが足元で「にゃあ」と鳴く。
「笑わないで、グンちゃん……これが潮降街だよ……」
でも、笑えてくる。
なんだこれ。
昨日まで、泣いてばかりだったのに。
今日は、笑ってる。
「あはは……すごかった……本当にすごかった……」
Day13で資料で読んだ「潮降街」。
上から潮が降るって。
「本当に降ったよ……上から……」
シャワーを浴びる。海水を洗い流す。
お湯が気持ちいい。
体が温まる。
「あったかい……」
着替える。乾いた服。最高。
「生き返った……」
グンちゃんのとこに戻る。
「ただいま、グンちゃん。潮降街体験してきたよ。すごかった。怖かったけど、すごかった」
グンちゃんは「にゃあ」と鳴いた。
「もう外には出ないよ。約束する」
ボトル子に報告。
「ねえボトル子、潮降街行ってきた。波が建物を越えて降ってきたよ。全身びしょびしょになった。でも、すごい体験だった。島民の人たちは、これを何度も経験してたんだよね。すごいよ」
ボトル子は笑ってる。いつも笑ってる。変わらない笑顔。
「笑ってるでしょ?私も笑っちゃった。でも、本当にすごかったんだよ」
台風の中で生きる。
それがどれだけ大変か。
身をもって知った。
「島民の人たち……強かったんだね」
午後は、グンちゃんと一緒に、本棚の専門書を読んだ。
ベッドに座って専門書を開くと、グンちゃんが膝の上に乗ってきた。
「わっ、乗った!」
丸くなる。
そして、眠り始めた。
すーすーという、規則正しい寝息。
温かい。
膝の上で眠るグンちゃんの温かさを感じていると、不思議と難しい内容もすらすらと頭に入ってくる。
「メッシュの最適化……なるほどね……ライティングの設定……へぇ……そういうことか」
時折、窓を揺るがすほどの突風が吹くと、グンちゃんはビクッと体を震わせた。
「大丈夫だよ、私がいるから」
グンちゃんの頭を、優しく撫でる。
ふわふわ。
グンちゃんは、また眠る。
それは、グンちゃんに言っているようで、本当は、自分自身に言い聞かせている言葉だったのかもしれない。
グンちゃんがいる。
ボトル子もいる。
26番さんも、見守ってくれてる。
一人じゃない。
本を読み続ける。
嵐の音も、グンちゃんがいれば怖くない。
むしろ、心地いい。
温かい部屋。
膝の上のグンちゃん。
手元の本。
これが、幸せなのかもしれない。
時間が、ゆっくり流れる。
いい時間。
貴重な時間。
今日も、一人じゃなかった。




