第20話 昼・金属の反響と鎮魂歌
部屋に戻ったら、もう汗だく。でも、汗が冷たい。冷や汗。
「疲れた……精神的に疲れすぎた……」
白いナース服が汗でべったり。背中にも張り付いてる。
「気持ち悪い……このナース服、汗吸いすぎ……」
脱ぎたいけど、他に着る服がない。
「着替えたい……でも洗濯出したらもう服ないし……このまま着るしかない」
ナースキャップを外す。髪が汗でぺたっとしてる。
「うわ、髪もべたべた……気持ち悪い……」
でも、今は食事が先。
ボトル子に話しかける。
「ボトル子、病院怖かった……本当に怖かった。あんな場所、東京じゃ絶対行かない」
ボトル子は黙ってる。でも、聞いてくれてる。いつも聞いてくれる。
「そうだよね、でも頑張らなきゃだよね。午後も行かなきゃ。このナース服で」
タッチパネルで昼食を注文。今日はうどんにしよう。
「怖い場所に行った後は、温かいものが一番。うどんで心を温める」
熱々のうどんが出てくる。湯気がもくもく。出汁の香りが、部屋に広がる。
温かい匂い。
でも、この部屋は相変わらず冷たい。無機質で、冷たい。
「いい匂い……出汁の香りが癒される……かつお節の香り……」
一口すする。
「あっつ!熱っ!舌焼けた!」
舌を火傷しそうになる。痛い。
「熱すぎ!待てばよかった!焦りすぎた!」
フーフー冷ましながら、ゆっくり食べる。
「うどんの優しい出汁が、冷えた心にじんわり染み渡る……」
温かいスープが体を温めてくれる。さっきまで冷えてた体が、少しずつ温まってくる。
「美味しい……ほっとする……」
でも、頭の中はさっき見た光景でいっぱい。手術室の無影灯。薬瓶が散乱した調剤室。レントゲン室の古い機械。
「午後、あそこにもう一回入るのか……手術室に……このナース服で……」
箸を持つ手が止まる。食欲がなくなる。
「正直、気が重い……めっちゃ重い……」
でも、やらなきゃ。逃げられない。脱出するためには、全部撮影しなきゃいけない。
最後の一口を食べ終わって、口を拭く。
「よし、行こう。もう後がない」
ナースキャップをもう一度被る。鏡を見る。
「……ナース。私、ナース。病院に行くナース」
なんか、変な気持ち。でも、少しだけ、覚悟ができた気がする。
「この服を着て、あそこで働いてた人たちの気持ちを、少しでも……」
カメラを持って、もう一度病院へ。
階段を下りながら、自分に言い聞かせる。
「大丈夫。怖くない。ファインダー越しに見れば、少し距離が取れる。四角い世界の中だけの過去」
白いナース服が、階段を下るたびに揺れる。
病院の前に立つ。
「……やっぱり怖い。何回来ても怖い」
でも、カメラを構える。
「よし、入るぞ。もう逃げない。ナース服で、堂々と」
ファインダーを覗く。四角い世界。そこに切り取られた現実。
「これなら……少しだけ、大丈夫。客観視できる」
受付から撮り始める。もう午前中に見た場所だから、少しだけ慣れた。恐怖心が少しだけ減ってる。
廊下を進む。診察室も撮影。白いナース服の裾が、歩くたびに揺れる。
「内科、外科……レントゲン室……」
一つ一つ、丁寧に。重複率を意識して。
足音だけが、響く。
そして、手術室。扉の前で立ち止まる。
「……入らなきゃ。もう逃げられない」
深呼吸。何度も、何度も。
「大丈夫。ただの部屋。もう誰もいない。何も起きない」
恐る恐る中に入る。足音が響く。白いナース服が、冷たい空気に触れる。
無影灯が天井から吊るされてる。ステンレスの手術台。医療器具が散乱。
「……撮ろう。それしかない」
カメラを構える。ファインダーを覗く。
でも、すぐに問題に気づく。
「あれ?写真が真っ白?なんで?」
モニターを確認する。ステンレスの手術台や医療器具が、光を反射して白く飛んでる。
「ちゃんと撮れてない。これじゃダメだ」
何枚か撮り直すけど、同じ。全部真っ白。
「金属の反射……そっか、ステンレスだから……」
そういえば、制作進捗の項目に「金属反射除去」って書いてあった。
「どうすればいいんだろう……フラッシュ?設定?」
フラッシュを使わずに、いろんな角度から試す。
窓からの光だけで撮ってみる。
「まだ白い……反射してる……」
自分の体で影を作ってみる。手術台の上に影を作る。白いナース服が、光を遮る。
「あ、ちょっとマシになった?影で反射が抑えられてる?白い服が役に立ってる?」
壁に光を反射させてみる。間接照明みたいに。
「これもいいかも!柔らかい光になった!」
試行錯誤を繰り返す。角度を変えて、光の当て方を変えて。
一枚、また一枚とシャッターを切っていく。
カシャ、カシャ、カシャ。
シャッター音だけが、静まり返った手術室に響く。
「静かだな……」
その音が、まるで鎮魂歌みたいに聞こえた。追悼の音楽。過去への祈り。
カシャ、カシャ、カシャ。
ここで、たくさんの人が手術を受けた。助かった人も、助からなかった人も。看護師さんたちも、必死で働いた。
「痛かっただろうな……怖かっただろうな……」
自分の白いナース服を見下ろす。
「この服を着て……ここで働いてた人たちも……」
急に涙が出そうになる。目がじんわり熱くなる。
「ダメダメ、泣いちゃダメ。今は撮影に集中。後で泣こう」
目を拭いて、撮影を続ける。
手術台の足元、無影灯の下、医療器具の一つ一つ。
「全部記録する。あなたたちの存在を、ちゃんと残す」
気づいたら1時間も経ってた。夢中になってた。白いナース服は、汗でさらにべったり。
「疲れた……もう限界……集中力が切れた……」
手術室を出ようとした時、床に落ちてる何かに気づいた。
「これ……レントゲン写真?」
拾い上げて、窓の光にかざす。
人間の胸の骨が写ってる。肋骨がはっきり見える。そして肺の部分に、白い影。もやもやした白い影。
「これが……塵肺……」
資料で見た。石炭の粉を吸い込んで、肺が真っ白になる病気。治らない病気。
写真に触れた瞬間、冷たいノイズが指先から流れ込んでくる。共感覚的記憶。
冷たい。重い。苦しい。
「うわっ!」
思わず手を離しそうになる。でも、堪える。
持ち主の苦しさ。咳が止まらない日々。息ができない恐怖。痰に血が混じる。夜も眠れない。看護師さんたちの心配そうな顔。
全部、流れ込んでくる。
「苦しかったんだ……ずっと……毎日……」
涙が出てくる。止まらない。
「ごめんなさい……勝手に触って……ごめんなさい……」
レントゲン写真を元の場所へそっと戻す。丁寧に。
そして、手を合わせた。白いナース服の袖が、両手に沿って垂れる。
「安らかに……」
静かに祈る。目を閉じて、心を込めて。
しばらくそのまま、頭を下げてた。時間の感覚がなくなる。
静寂。
長い静寂。
「……よし」
顔を上げて、深呼吸。涙を拭く。
「ありがとうございました。記録させていただきました。ちゃんと残します」
病院を出る。
外の空気が、こんなに美味しいなんて。
「はぁ……終わった……やりきった……」
太陽の光が眩しい。暑い。でもこの暑さが嬉しい。生きてる証拠。
白いナース服が、陽の光で輝く。汗でびっしょりだけど。
「生きてるって、こういうことなんだな」
部屋への帰り道、階段を上りながら考える。
「病院は、命の砦だったんだ」
助けられた命も、助けられなかった命も、全部ここにあった。生と死が隣り合わせだった。看護師さんたちも、必死で戦ってた。
そして今、私が生きてここにいる。
「ありがたいことなんだな。当たり前じゃないんだ」
部屋に戻って、ボトル子に報告。
「ただいま、ボトル子!手術室、撮れたよ!怖かったけど頑張った!」
ボトル子は黙ってる。でも、そこにいてくれる。変わらず、そこにいてくれる。
「白いナース服、汗でびっしょり。シャワー浴びる」
白いナース服を脱いで、LAUNDRYボックスに放り込む。
「あー、やっと脱げた!気持ち悪かった!」
でも、鏡に映った自分を見る。
「……でも、似合ってたかも。ナース服」
少しだけ、誇らしい気持ちになった。
シャワーを浴びる。
「あー気持ちいい!最高!」
冷たい水が体を洗い流す。病院の空気も、恐怖も、全部流れていく。
「病院の空気、全部流れてけー!ナース服の汗も流れてけー!」
ゴシゴシ洗う。髪も体も、念入りに。シャンプーを泡立てる。
「さっぱり……生き返る……」
でも、髪を洗ってたら、案の定シャンプーが目に入る。
「痛っ!もう!毎日これ!学習しろって自分!」
水で流す。もう慣れた。毎日のルーティン。
シャワーから出て、タオルで髪を拭く。
鏡を見る。疲れてるけど、目は生きてる。
「私、頑張ってる。えらい。ナース服も着こなした」
小さくガッツポーズ。握りこぶしを作る。
一週間。
もう、一週間。




