第1話 朝・目覚めと絶望のメニュー
意識が浮上する。
静寂。あまりにも深い静寂が、耳を圧迫している。
重い。何もかもが重い。瞼、体、頭。
「ん……なにこれ……」
呼吸が苦しい。空気が、違う。
重い瞼を必死にこじ開けると、視界に飛び込んできたのは——見知らぬ天井だった。
「……!」
心臓が跳ねる。
水が染みたような黒いシミが広がる、コンクリート打ちっぱなしの冷たい平面。ひび割れた亀裂が、まるで不気味な地図みたいに走っている。ひんやりとした空気を吸い込むと、カビと潮の匂いが混じって、肺がじっとりと湿るような不快感。喉の奥に、微かに錆びた鉄の味がした。
「私の部屋じゃない……!」
ガバッと起き上がる。瞬間、全身の血が逆流して、ぐらりと世界が揺れた。
いつも見慣れたアイドルのポスターも、友達とお揃いで買ったふわふわのぬいぐるみも、どこにもない。硬くて軋むベッド、触れるとコンクリートの粉が指につきそうなざらついた壁。何もかもが違う。何もかもが間違ってる。
「ちょっとまって、どこここ!?」
慌てて立ち上がろうとして、バランスを崩してベッドから転げ落ちた。
「痛っ!」
硬い床に強かに打ち付けたお尻をさすりながら、必死で昨日の記憶の糸をたぐる。
えーっと、確か昨日は……部活が終わって、ミカとコンビニに寄って……そうだ、期間限定のチョコミントアイス。ミント感が強めでマジ神だって二人で盛り上がって、駅の改札で「また明日ね」って手を振って……
それから?
「思い出せない……は?」
思考がそこで、ぷつりと途切れている。まるで、映画のフィルムが焼き切れたみたいに。
背筋に、冷蔵庫の氷を直接当てられたような、冷たい汗が流れた。緊張と不安がせり上がってきて、無意識に右手の指が左耳の後ろをかいていた。幼い頃、お祖母様の不思議な話を聞くたびに出てしまう、私の癖。
「とりあえずスマホ!」
私の世界との唯一の繋がり!夏用の制服のポケットを探ると、ひやりと冷たい、慣れ親しんだ感触があった。
「あった!」
神様、ありがとう。祈るような気持ちで画面をつける。
目に飛び込んできたのは、絶望的な二文字だった。
『圏外』
「は?」
追い打ちをかけるように、バッテリー残量は12%。まるで、私と世界を繋ぐ命綱が、じわじわと切れていくみたいだ。マジか。モバイルバッテリー、カバンの中だ。そのカバンはどこ?
「いや、なんで圏外なのよ!ここ、日本だよね!?」
部屋の中をうろうろと歩き回り、スマホを天に掲げてみる。でも、アンテナは一本も立たない。
いつもなら、LINEやインスタ、Xからの通知で画面が埋め尽くされているはずなのに、今はただ静まり返っている。通知が来ないだけで、こんなに心細いなんて。指が微かに震える。
これが、現代JKのスマホ依存症ってやつ?
社会から、世界から、私だけが切り取られてしまったみたいだ。
「ドアだ!とにかく外に出なきゃ!」
外の空気だけでも吸わないと、おかしくなりそう!ドアノブに手をかけ、ガチャガチャと必死に回す。
でも、びくともしない。
冷たい金属の感触だけが、手のひらに虚しく残る。
鍵がかかってる。
「開けて!誰かいるんでしょ!」
ドンドンドン!と拳でドアを叩く。硬いドアに、骨が響いてじんじんと痛む。
「助けて!ここどこ!?出してよ!」
返事はない。
私の声だけが、誰も聞いていない虚空に吸い込まれていく。この世界に、本当に私しかいないんじゃないかって、急に恐ろしくなった。
ただ、私の叩く音が、がらんとした建物の中に虚しく響くだけ。
まさか……誘拐?監禁?
「いやいやいや、そんな非現実的なこと、ムリムリムリ!私、普通の女子高生だよ?」
窓!窓からなら、外の様子が分かるかも!
壁にかかった薄汚れたカーテンを、勢いよく引き開ける。
そして、私は息を呑んだ。
「……は?」
音が、ない。
車の音も、電車の音も、人の声も、音楽も、何もない。あるのは風と波だけ。
目の前に広がっていたのは、信じられない光景だった。
崩れかけたコンクリートの建物、建物、建物。
窓という窓が黒い口を開けて、こっちをじっと見ているみたい。夥しい数の廃墟が、まるで巨大な墓標のように乱立している。
そして、その向こうには——
「海……?」
どこまでも、どこまでも続く、残酷なくらいに青い海。
視界の限り、陸地なんてどこにも見えない。
「うそでしょ……島?私、島にいるの!?」
窓を開けようと必死に手をかけるけど、内側から頑丈な鉄格子が溶接されている。触れると、ひんやりと冷たくて、絶望的な硬さだった。
完全に、詰んだ。
「誰かー!助けてー!」
私の声は、遮るもののない海風にさらわれて、ただ寂しく溶けて消えた。
パニックになりそうな頭を必死に押さえつけ、もう一度、部屋の中を冷静に観察する。
狭いユニットバス。電気ポットと小さな流し台だけの簡易キッチン。
そして、部屋の隅に不釣り合いなほどハイスペックな作業机と、体にフィットする黒いゲーミングチェア。
なんでこんな場所に?
机の上には、黒くてゴツいプロ仕様っぽいカメラが3台。『SONY α7R V』って書いてある。写真部でもないし、機械とか全然わかんないんだけど。
それに、プロペラのついた灰色の機械が2つ。……ドローンだ。
そして、青く光るPC。
恐る恐るゲーミングチェアに腰を下ろすと、その座り心地の良さに少しだけ現実逃避してしまいそうになる。
モニターに、無機質な文字が浮かび上がっていた。
『起動してください』
震える指でマウスをクリックすると、画面が切り替わる。
『ようこそ、No.27。端島(通称:軍艦島)へ』
「軍艦島……No.27って何? 私……27番目?」
妙に丁寧な歓迎メッセージが、逆に不気味だ。まるで、私がここに来ることを最初から予定していたみたいに。
軍艦島……聞いたことある。社会の授業で習った。世界遺産になった、廃墟の島。長崎の沖合にある、かつて炭鉱で栄えた場所。
って、なんで私がそんなところに!?
画面が自動的にスクロールして、次々と情報が表示される。
『端島——通称「軍艦島」。長崎県の沖合約4kmに浮かぶ、周囲わずか1.2kmの小さな島』
小さな島。
『明治23年、三菱社が買収し、本格的な海底炭鉱として採掘開始』
『最盛期の昭和30年代には、世界最高の人口密度——東京の約9倍——5,300人近くが暮らした』
「東京の9倍!?こんな小さい島に!?」
息を呑む。
『日本最古の鉄筋コンクリート造アパート、国内初の海底水道、国内初の屋上庭園……数々の「日本初」が詰まった、超近未来都市』
そして——
『昭和49年、閉山。全島民が一斉退去し、一瞬にして無人島に』
画面に映し出される、操業時のセピア色の写真。
高層アパートがひしめき、路地に人があふれ、笑顔の子供たちが走り回っている。活気に満ちた、確かにここで人々が生きていた証。
でも、その写真が切り替わって——
同じ場所の、現在の写真。
廃墟。静寂。誰もいない。
ゾクッと背筋が凍った。
「50年前まで、5,000人以上が住んでた……それが今は……」
画面が再び切り替わる。
『あなたは本日より30日間、この島に滞在していただきます』
『解放条件:この島の全建造物を、それなりにフォトグラメトリでデジタル化すること』
「ふぉと……ぐら……めとり?」
なにそれ。新しい加工アプリ?インスタの新しいフィルターか何か?「映え」ってこと?廃墟をエモく撮れってこと!?
昨日までの私なら、絶対に知る必要のなかった言葉。それが今、私の生き延びる鍵になってる。人生って、こんなに急に変わるものなんだ。
『期限は30日。頑張ってください』
その文字と共に、画面の右上に、赤いデジタル数字が冷たく時を刻み始めた。
【残り日数:29日 23時間 52分】
「え」
数字が減った。
【残り日数:29日 23時間 51分】
「え、ガチじゃん!ちょっとまって!フォトグラメトリってなに!?それなりってなに!?アバウトすぎでしょ!」
画面に向かって叫ぶ。返事なし。
デスクトップには、『フォトグラメトリ入門』といったPDFファイルと並んで、『軍艦島フォトグラメトリ撮影順リスト』『軍艦島解説資料』というファイルがあった。
「PDFかよ...動画で説明してよ、令和だよ!?」
わけがわからないまま、『撮影順リスト』を開く。
【Day1:ちどり荘】
「ちどり……そう?」
とにかく、お腹が空いた。緊張と混乱で、エネルギーを使い果たしたみたい。
壁に埋め込まれた、SF映画みたいなタッチパネルに気づき、触れてみる。
『本日の食事メニュー』
【朝食】トーストセット(500円)和食セット(600円)カップ麺(200円)
「え、選べるの?監禁生活なのに妙に親切……」
下には『月額予算:45,000円』『残高:45,000円』と表示されている。
「予算制なの!?しかも月額って……本気で30日間いさせる気じゃん!」
1日平均1,500円か……。高校生のお小遣いよりは多いけど、3食賄うには計画性が必要そうだ。コンビニで新作スイーツとか買い漁ってたら、一瞬で溶ける金額じゃん。
とりあえず少しでも安いトーストセットを注文すると、ウィーン、という小さなモーター音と共に壁の一部がスライドし、温かい食事が乗ったトレーが出てきた。
「すごい……けど、気味が悪い……ハイテクすぎて逆に怖い!」
焼きたてのトーストの香ばしい匂いが、この非現実的な状況とのギャップを際立たせる。こんな状況なのに、バターがじゅわっと溶けていくトーストはちゃんと美味しいのが、なんだか腹立たしい。
トーストをかじりながら、PCで『軍艦島解説資料』を開く。膨大な文字と、セピア色の古い写真。その中から「ちどり荘」の項目を探し出した。
『ちどり荘 築年不詳使用目的:教員住宅構造:RC造2階建て戸数:6戸間取:2DK(4.5畳+3畳+ダイニング+内便所)』
「なになに……島の北端に建つ、小学校の先生のためのアパート……2DKだけどメゾネットタイプで、かなり狭い……?」
読み進めるうちに、私は少しだけ親近感を覚えた。
2階建ての鉄筋コンクリート造で、間取りは4.5畳と3畳の部屋にダイニングキッチン。
「うわ、私の部屋より狭いかも。家族で住むのは大変だったろうな……」
でも、と、私の目は一つの記述に釘付けになった。
『窓が北側を向き、堤防越しに中ノ島や高島が見える眺望は抜群で、北端に建つこの建物の特権だったに違いない』
狭くても、不自由でも、そこには特別な景色があったんだ。
それに、閉山時に番号がついていなかった唯一の住居棟、っていうのも、なんだか特別感があっていい。忘れられたアパート、みたいな。
「ちょっとだけ、見てみたくなったかも」
ただの建物じゃない。
先生たちが、家族と、どんな景色を見て、どんな毎日を送っていたんだろう。少しだけ、知りたくなった。
私も今、わけのわからない場所に閉じ込められてる。でも、ちどり荘の先生たちは、この小さな島で、家族と、子供たちと、確かに生きていたんだ。
世界最高の人口密度。5,300人が暮らした島。
それが今は——私一人。
5,300人の賑わいの記憶と、たった一人の私。この対比が、胸を締め付ける。
でも、記憶は残ってる。建物に、路地に、この島のすべてに。
「よし」
小さく呟いて、立ち上がる。
怖い。分からないことだらけ。でも、立ち止まってたら、何も変わらない。
震える手で、カメラを手に取った。
今日から私は、記憶の狩人だ。




