Episode.6/永逝/その続きを
朝。いつもと同じように目が覚めたはずだった。
けれど、部屋はひどく静かで、胸の奥にぽっかりと穴が空いているようだった。
上体を起こすと、枕元に何かが置かれているのに気が付いた。
それは、一枚の紙。折り畳まれたくしゃくしゃの便箋。かつて黒い手帳で見た筆跡。
彼の字だった。
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リアナへ。
君と過ごした日々は、夢みたいに穏やかだった。
こんな風に心から笑える日が、もう一度訪れるなんて思ってなかった。
でも、僕は。自分の記憶を見過ごすことができなかった。
婚約者が生きているかは分からない。けれど、
彼女が待っているかもしれない場所へ、戻らなきゃいけない。
これは僕の罪であり、果たすべき約束だから。
本当は、君の手を取って、このままこの場所で生きて行けたらと思った。
でもそれは、今の僕には許されない未来だ。
ありがとう。
君のくれた温もりだけが、僕の最後の救いだった。
──君はどうか、幸せになって。
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便箋を握る手が小刻みに震える。それでも、涙は出なかった。
ただ、何か大切なものが失われたという空虚な感覚だけが、そこにあった。
リアナはゆっくりと立ち上がり、窓辺へと歩を進めた。
そして徐に窓を開け、森の方角を見て──、
──その瞬間。信じられないものが、視界を掠めた。
あの、壊れていたはずの戦闘機が、確かに空を飛んでいた。
雲を引き裂くようにして、まっすぐに、空を。
胸が高鳴る。修理が、上手くいったのだ。
あれに、フィンが乗っている──。
息が止まる。唇がわななく。
何かを叫びたかった。彼の名前を呼びたかった。
けれど、その前に。
一瞬。瞬きをしたその刹那。空に、耳を劈く轟音が響き渡った。
「──あっ……!」
がたん、と窓枠に手を着き、リアナは身を乗り出す。
目の奥が一瞬にして熱くなる。
空の彼方で、戦闘機がバランスを崩したのを、リアナは目にした。
黒煙が尾を引き、機体が急角度で傾いて、急降下していく。
そして――空気が収縮するような奇妙な音の後、大爆発が空に咲いた。
凄まじい閃光が弾ける。空中で四散する破片。
音が、振動が。爆風に乗って肌を叩き、身体を突き抜ける。
何が起きたのかを遅れて理解して、リアナの顔はくしゃっと歪んだ。
「フィン……い、や……嫌ぁぁぁあああああ────っ!!」
喉が裂けるほどの叫びが空に響く。
崩れるように床に膝をつき、便箋を胸に抱き締めて泣いた。
──どうして、引き止められなかったの。
──どうして「いかないで」って言えなかったの。
何度も何度も彼の名前を呼びながら。
リアナは青空の下、響く嗚咽を止められなかった。
◇
──春が、来ていた。
森には若葉が芽吹き、戦闘機のあった川辺には新しい花が咲いていた。
それでも、リアナの時間はあの日から止まったままだった。
──あの日、空で炸裂した轟音と爆発。
フィンの名前を叫んだあの朝から、リアナの胸の奥には深く根が張っていた。
けれど――リアナは、生きていた。
水を汲み、洗濯をし、薪を割り、料理を作って、ベッドで眠る。
お母さんとともに営む日常の中で、リアナは少しずつ、少しずつ自分を取り戻していった。
あの手紙は、今もスケッチブックの間に大切に挟まれている。
彼が帰ってくる気がして、何度も読み返した。
そのたびに、胸が締めつけらた。けれど同時に、不思議な温もりが残った。
『──君は、どうか幸せになって』
手紙の最後に綴られていた言葉の意味が、ようやくほんの少しだけ分かってきた気がした。
彼が見た空。彼が背負った記憶。そのすべてが、リアナの心の一部になっていた。
──彼は私との未来じゃなく、過去を求めて飛び立った。
リアナは静かに、小さく息を吸う。
そして今日も、森の奥にある、あの戦闘機の残骸のもとへと足を運ぶ。
そこには、フィンが整備に使っていた工具と、彼が持っていたあの手帳があった。
空白だったはずのページの最後には、彼の字で、たった一言だけ。
『Liana』の名が綴られていた。
「……君がここにいてくれて、よかった」
リアナは微笑んだ。
涙はもう出なかった。
空を見上げる。今日の空も青かった。
けれど、あの日よりも少しだけ、穏やかに見えた。
風が髪をそっと揺らす。
それはまるで、彼の声のようにも思えた。
──彼の願った未来。
その続きを、自分が生きていくのだと、リアナは思った。