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Episode.4/告白




 その日の晩、リアナは夕食の席でもほとんど言葉を発さなかった。

 匙を動かす手もぎこちなく、目の前の湯気の立つスープも、何の味もしない。


 対面の席では、フィンが「最近、薪割りのコツが掴めてきたんだ」と笑っていた。

 なのに、どうしてだろうか。その声がやけに遠く感じられる。


 彼の声を聞く度に、今日拾った手帳と指輪の存在が胸を締め付けてくる。


 ──あんなものを見た後で、私はフィンと笑っていていいの?

 そんな自問に対して、リアナは何も答えを見出せずにいた。


 何も言えないまま、目の前の空気が、黒く重い濁りに淀んでいくような錯覚に沈んだ。


 夕食後、お母さんが食器を片付けて、フィンが水浴びに向かった隙を見計らい、リアナは自室の戸を静かに閉ざした。そうして懐から、あの手帳と指輪を取り出す。


 ページの中に書かれていたのは、フィンが兵士として戦っていた過去を綴った記録。

 指輪の内側に刻まれた『ソフィア』の名は、まるでリアナの胸に鋲を打ち込むように重い。


「……こんなに、大切だったんだ」


 リアナの胸が、きゅうと苦しくなる。

 フィンの過去──言い換えれば、『想い出』に触れてしまったことで。

 彼の隣に立つ資格さえも失ってしまったような、そんな気がした。


 ──と、その時だった。


 コンコン、と戸を叩く音が聞こえた。


「……っ」


「……リアナ。少し、話さない?」


 お母さんの声だった。慌てて布団で手帳と指輪を隠し、戸を開けに行く。

 そこには既に寝間着に着替えたお母さんが、柔らかな微笑を湛えて立っていた。


 お母さんを部屋に招き入れ、二人並んでベッドの縁に腰を下ろす。

 しばらくの沈黙の後、お母さんが穏やかに口を開いた。


「今日、何かあったの? ずっと顔が曇っていたわ」

「……なんでも、ないよ」

「『なんでもない』っていう時のリアナは、決まって何か抱えてる。……そうでしょ?」


 少し得意げにそう言って、お母さんは口角を緩めた。

 どこか懐かしいような眼差しに触れて、リアナは思わず視線を落とした。


「隠し事は、必ずしも悪じゃないわ。ただ──持ち続けるには、それなりの覚悟が要るの」


「もし……! もし……、その隠し事が、誰かを傷付けるかもしれないって、分かってたら?」


 胸の奥から込み上げてくるものを抑え切れず感情的になったリアナの声が、少しだけ震えた。

 お母さんは黙って、リアナの言葉に耳を傾けている。


「その人のこと、好きで……でも、本当のことを言ったら、きっと、ここからいなくなっちゃうような……そんな気が、するの。……それでも、本当のことを言った方がいいの?」


 もうずっと前から分かってる。この気持ちは、本物だ。

 フィンにずっといて欲しい。けれど、彼の幸せを奪いたくはない。


「リアナ」


 お母さんの手が、そっとリアナの震える肩に触れた。


「『正しいこと』って、いつも一つじゃないわ。でも、自分が大切だと思う人に、胸を張れる選択をしなさい。……たとえ、その選択があなたにとって辛いものであったとしてもよ」


 リアナは何も言えなかった。ただ、言葉が見つからなかった。

 それでもその言葉は、胸の奥に灯をともすように、少しだけリアナに勇気を与えてくれた。


 しばらくして。お母さんは「……そろそろフィンが戻ってきちゃうわね」と言って、「じゃあね。おやすみなさい」とリアナの部屋を後にした。

 リアナはしっかりと戸を閉め直して、布団を捲り、再び手帳と指輪を手に取った。


 窓から差し込む月明かりに、指輪の銀が仄かに光っている。


「……フィンに、渡さなきゃ」


 小さな決意。


 だけれど、自分にとっての大きな一歩を、リアナは踏み出す決心をした。




     ◇




 朝の光が、木々の隙間から零れて淡く大地を照らしている。

 その日、リアナは早起きをして朝食の支度を手伝った後、自室に籠っていた。


 ──机の上に置かれた、小さな包み。

 それを見つめては、触れかけた指先を引っ込める──そんな動作を何回も繰り返していた。


「…………。うん」


 今日こそ、渡そう。そう決心がついたのは、陽が南中に差し掛かってからのことだった。


 リアナは深く息を吸って、部屋を出る。


 庭に向かうと、斧を持ったフィンが切り株の上に立てた薪を前に立っていた。

 額に大粒の汗を滲ませながら、彼はリアナに気付いて微笑んだ。


「リアナ。もう体調は大丈夫なの?」


 優しさに満ちた言葉。ずっと部屋に籠っていたから心配してくれていたのだろう。

 ──そんな優しいところも、好きだった。


「うん。……あのね、フィン。ちょっと、話したいことがあるの」


 フィンの手が止まり、リアナの方に向き直る。

 その真っ直ぐな瞳を見た瞬間、胸の奥がきゅっと縮こまった。


 けれど、逃げちゃダメだ。ここで逃げ出しちゃったら、意味がない。

 リアナは、体の後ろに隠していた包みをそっと差し出した。


「これ。……川で、見つけたの。たぶん……フィンのものだと、思って」


「……僕の?」


 フィンは微かに眉を顰めながら、包みを受け取った。


 布をほどき、中から現れた手帳と指輪を見た瞬間。

 フィンの指先が僅かに震えた。


「……これは」


 ページを捲る手が、何度も止まる。

 眉が寄り、頭痛を我慢する時のようにフィンは頭を手で押さえる。


 そして、やがて──指輪の内側に刻まれた名前に、彼の目が止まった。


「ソフィ、ア……?」


 その名前を口にした瞬間、フィンの瞳が揺らいだ。

 遠くにある記憶を呼び覚まそうとするように。何かが浮かび上がろうとするかのように。

 しかし、それははっきりとした形を結ばず、朝霧のようにぼやけている。


 手帳を持った手が力なくだらりと垂れ、フィンは苦悶の表情で立ち尽くす。

 初めて見る顏。──私にはきっと、してもらえない顏。


 リアナは泣きそうになりながらも必至で言葉を探して、そっと彼に声をかけた。


「きっと……すごく大切な人だったんだと、思う。でも、無理に今すぐ思い出せなくてもいいと思うよ。いつか思い出せるように、私も……手伝うから」


 フィンは頭に手を当てたまま、しばらく黙したまま思案に沈んでいた。

 ──やがて、手帳を胸に抱くようにして、彼は静かに口を開く。


「ありがとう、リアナ。これを……君が渡してくれて、本当によかった」


 その言葉に、リアナの瞳が潤んで震えた。じわりと涙が溜まっていく。

 思わず目を逸らしそうになるのを、必死で堪える。


「あのね……私、怖かったの。これを渡したら、フィンが遠くに行っちゃうような気がして」


「……そっか、──」


 フィンは何かを言おうとしたみたいだった。けれど、その先に続く言葉はなかった。


 二人の間に、優しい風が吹き抜けた。

 言葉はそれ以上続かなかったが、けれどそこにあった沈黙は、拒絶ではなかった。

 むしろ、ほんの少しだけ──心の距離が近付いたような、そんな気がした。





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