Episode.3/拾い上げた指輪
──夜、二人が寝静まったあと。
リアナはベッドに座り込み、小さな麻袋の中身をそっと広げた。
中に入っていたのは、幾つかの綺麗な石と、古びたクルミの実、そしてお母さんが昔買ってきてくれた手のひらサイズのスケッチブック。どれも、リアナの大切な宝物だった。
誰にも披露したことはない。今日、スケッチブックに加わった新しいページもだ。
お母さんから教わった文字。一枚の紙に、鉛筆で綴られた名前。
拙い文字ではあったが、そこには『Fin』と書かれていた。
「フィン。……あんなふうに、笑うんだ」
今日の川辺での出来事を、リアナはまだ胸の奥で繰り返していた。
助けて貰った瞬間の腕の逞しさ。近付いた体温。
そして、あの優しくて柔らかな声。
──フィンのことを、もっと知りたい。
もっと、そばにいたい。
そう思う気持ちは、もう隠しきれないほど大きくなっていた。
けれどそれを『恋』なんて呼んでいいのか、リアナには分からなかった。
今まで誰かにそんな感情を抱いたことなんて、一度もなかったから。
彼は記憶を失っている。
過去に、大切な人がいたのかもしれない。帰るべき場所があるのかもしれない。
「……それでも、私は」
声に出してみて、急に怖くなる。
この想いが本物になってしまうのが。
でも、心のどこかで。それを秘密にしたくない思いも、確かに芽生えていた。
言わなければいい。知られなければ、この先、傷付くこともない。
けれど、同時に──何も始まらない。
スケッチブックを閉じると、麻袋の紐をそっと結び直す。
今夜は何の夢も見ないような、そんな気がしていた。
現実の温もりが、胸に強すぎる印象を刻み込んでいた。
◇
数日ぶりの快晴だった。雲一つない青空の下、川辺に心地よい風が吹き抜ける。
リアナは、空の木桶を抱えて、水辺へと向かっていた。
何度も通い慣れたはずの道なのに、今日はなぜだか、胸騒ぎがしていた。
風がざわついているせいだろうか。草木が、普段よりも大きくざわめいているように感じた。
「……フィン。今日は来なかったな」
今日は薪割りのために家に残った彼の事を思い出し、胸の内にぽつんと寂しさを覚える。
ずっと平気だったはずなのに。今は一人で川へ来るのが、少しだけ心細い。
早く帰ろう。そして、フィンといっぱいお話をすればいい。
「……うん。そうしよう」
そんなことを考えながら水を汲んで立ち上がった、そのときだった。
川べりに何か黒いものが引っ掛かっているのに気付いた。
濡れた、厚手の布のような──ずしりとした本のようなもの。
リアナは思わず桶を置き、足場の悪い石の上を慎重に歩いて、そこに近付いた。
そうして水から引き上げたのは、濡れてよれた手帳だった。
さらには、その手帳の布製のカバーの間に、何かが挟まっている。
──それは、銀色の指輪だった。
見たことのない精緻な細工が施されている。内側には、何か文字が刻まれていた。
「……ソ、フィア…………?」
指輪の内側に指先を宛がって文字をなぞると、それが浮かび上がるように感じた。
同時に気が付いた。──これは名前だ。知らない人の、名前。
それなのに、その響きはやけに優しく、それでいて胸に鈍い痛みをもたらした。
恐る恐る手帳を捲ると、そこにはページの所々にインクの滲んだ記録が記されていた。
そこに書かれていたのは、兵士としての日々──そして、祖国の敗戦を示唆する内容だった。
頭が、真っ白になった。
この手帳は、きっとフィンのものだ。
そしてこの指輪は、彼が大切にしていた誰かとの証だったのだろう。
──ソフィア。きっと、それがその人の名前。
何も、言葉が出てこなかった。
ページの中のフィンが、あまりにも『知らない誰か』に見えてしまった。
帰り道、手帳と指輪を懐にしまいながら、リアナの頭の中はぐるぐると渦を巻いていた。
このまま、フィンにこれを渡すべきだろうか。
彼は記憶を失ったままだ。このまま渡さずにいれば、彼はずっとここにいてくれる──?
だけど、それは──。
「……悪いこと、だよ……ね」
呟いた声は、一際強い風に搔き消された。
それでも、リアナ自身の胸にははっきりと届いていた。