Episode.2/フィン
──窓の隙間から、柔らかな陽光が射し込んでいた。
部屋に漂うのは草木の香りと、微かに鼻を擽る薬草の匂い。
外では鳥が囀り、薪の爆ぜる音がぱちぱちと小さく部屋に響く。
「…………、ん」
低く、掠れた声。
火の番をしていたリアナが炉から振り返ると、布団の中で顔を顰める少年と目が合った。
──真っ黒な瞳。リアナの持つ翠色とは対照的な、深く澄んだ色だった。
「……。お、きた……?」
思わずリアナが声を上げると、彼の瞼が僅かに動く。
焦点の定まらない目が、ぼんやりと宙を彷徨う。
「ここは……?」
掠れた声ながら、今度ははっきりと少年が喋った。
リアナは水差しからコップに水を注ぎ、彼の側にそっと置く。
「私とお母さんの家。──あなた、川で倒れてたの。覚えてる?」
「……君の、家。川に……?」
頭痛がするのか、少年は苦しそうに顔を顰める。
痛みを堪えるように唇を結ぶ彼の手を、リアナはそっと握る。
「ひどい怪我だったの。でも、ちゃんと手当はしたから。もう大丈夫よ」
少年はしばらくリアナの目を見据えたままで固まっていた。
やがて彼は苦しげに、ぎこちなく首を横に振ると、唇を微かに動かした。
「……フィン」
「え?」
ぼそりと呟かれた言葉に、リアナは首を傾げて聞き返す。
少年は片手で頭を押さえたまま、苦痛に耐えるような低い声で唸った。
「僕の名前、だと思う。……でも、それ以外が、何も思い出せないんだ」
リアナは目を見開く。──記憶喪失、というやつだろうか。
少し迷った挙句、リアナは両手で少年の手を取る。
しばし考えたあと、目を閉じ、もう一度しっかりと握り締めた。
「思い出せなくてもいいよ。少しずつで、大丈夫だから」
例え何も思い出せなくても、名前が分かった。
それだけで彼が少し身近に感じられた。
「フィン、って。いい名前だね。私はリアナ。よろしくね」
リアナは改めて少年──フィンに対して自己紹介をする。
「……リアナ」
フィンはその名前を噛みしめるように繰り返し、どこか安心したように口許を緩めた。
「……ありがとう、リアナ」
「う……うん」
──たった一言の、簡単なお礼の言葉。
ただそれだけなのに。
その言葉はリアナの胸に、深く染み渡っていった。
◇
それから、彼──フィンは、リアナとお母さんと一緒に暮らすことになった。
記憶は戻らないまま、けれど言葉や動作にはすぐ不自由しなくなった。どこか育ちの良さを感じさせる喋り方に、リアナは時折、胸の奥がざわめくのを感じた。
彼は今も、知らない『誰か』でありながら、確かにこの家に溶け込んでいる。
それが不思議で、少しだけ怖くもあった。
朝。リアナが目を覚ますと、フィンが椅子に座って、開いた窓の外を眺めていた。
手には湯気の立つマグカップ。視線の先には、朝方の森の深淵が広がっている。
その背中が、どこか遠くを見ているように感じて、リアナは思わず声をかけた。
「……寒くない?」
「ああ……大丈夫だよ。風の音が、耳に心地よくて」
帰ってきた声は柔らかく、それでいて例えようのない空白を孕んでいた。
彼の目は、過去を見ようとしている。でも、何も映らない。
そんな虚ろな眼差しが、リアナにはどうしても痛ましいものに思えて仕方がなかった。
「……ごめんね。やっぱりまだ、何も思い出せないんだ」
ぽつりと零されたその声に、リアナは首を横に振った。
「謝ることじゃないよ。フィンは生きてた。それだけで、十分だから」
想いのままを言葉にしてみて──そこで、リアナははっと気づいた。
そうだ。私は。『フィンが生きていてくれたこと』を、心の底から安堵していたのだ。
それきり黙り込んでしまったリアナに、フィンが椅子から立ち上がって声をかけた。
「ありがとう、リアナ。……そろそろご飯かな。一緒に行こうか」
お母さんの作ってくれた朝食を食べたあとは、庭仕事や薪割りをフィンに手伝ってもらった。フィンは見るからに不器用だけれど、黙々と堅実に働いた。
何かに集中している間だけは、空白が和らぐのかもしれない──そんなことを思った。
それを側で見つめるリアナは、ふと、胸の奥に小さな灯がともるのを感じていた。
彼が。いつか全てを思い出して、どこかへ帰ってしまう時がくるのだろうか。
その時、私はどうすればいいのだろう。
──まだ『好き』なんて呼べる感情じゃない。
けれど、失うことを考えたとき、胸が詰まるような感覚に襲われた。
その日の夜。
炉の側に椅子を並べたリアナは、隣に座るフィンに聞いた。
「……もし、全部を思い出したら。フィンはどこかに帰っちゃうの?」
不安げな口調で投げかけられた問いに、彼は少しだけ黙って、じっと火を見つめる。
やがて縦とも横とも取れる曖昧な角度で首を振ると、静かに口を開いた。
「分からない。……でも、帰らなきゃいけない気はする。大事な約束を、してた気がするんだ」
──大事な約束。それは、今の生活よりも大事なのだろうか。
忘れてしまっていて、今もまだ思い出せないのに。
そう思ってしまうほど、その言葉は確かに、リアナの心に小さな棘を落とした。
けれど、彼に迷惑をかけるのは嫌だった。嫌われたくなかったからだ。
「……そう、なんだ。うん、やっぱりそうだよね……!」
どうしてだろう。笑って返そうとしたのに、唇が引き攣ってしまう。
フィンが火からこちらに顔を向けてしまう前に。
リアナは火に薪をくべて、フィンから顔を逸らした。
◇
翌日は、朝から霧が濃かった。
森の空気はしっとりと湿り、草木の輪郭がぼやけて見える。
リアナが川に水を汲みに行こうとすると、フィンが「手伝うよ」と言って着いてきた。
二人で並んで歩くのは嬉しかったけれど、本当は着いてきて欲しくなかった。
……無言の時間が続いて、やけに長く感じられる。
気まずい訳じゃない。けれど、リアナはずっと言葉を選び続けていた。
「リアナ」
足を止めたフィンに唐突に名前を呼ばれ、リアナは肩をびくりと跳ねさせる。
後ろを振り返ると、フィンがほんの少しだけ困ったような顔をしていた。
「さっきから、ずっと黙ってたから」
「……あ、ごめんね。なんでもないの」
「……。今のリアナ、『なんでもない』って顔、してないよ」
図星を衝かれてしまい、思わず俯く。だって、どんな顔をしたらいいか分からない。
そう言われると、余計に胸の奥がざわざわしてしまう。
再びゆったりとした歩調で歩き始め、川のせせらぎが聞こえてきた頃。
リアナはふと、口を開いた。
「……あのね。フィンが帰るって、言ったら……やっぱり、寂しいと思う、かも」
言ったあと、リアナの心臓がどくんと跳ねた。
フィンは驚いた顔でこちらを見つめ、それから優しく微笑んだ。
「……そっか。僕も、きっと同じ気持ちなんだ」
「……え?」
「リアナと過ごしてる時間は安心する。何も思い出せなくてもいいんだって、そう思えて。……うまく言えないんだけどね。ここにいると、自分が人間に戻れた気がするんだ」
その言葉に、何か言葉を返そうとする喉が詰まった。嬉しくて、泣きたくなるくらいに、嬉しくて──でも、その先を口に出すのが怖くて、視線を落とす。
──そのときだった。心ここにあらずのまま歩いていたからか、つるりと苔石に足を取られて、リアナはバランスを崩した。
「きゃ──!」
直後にくるであろう痛みに堪えようと、リアナは身体を強張らせて目を瞑る。
けれど、いつまで経っても痛みはやってこなかった。
からん、と木桶が地面に転がる音が鼓膜を震わせた。
自身の体を支える力強い感触に、リアナは恐る恐る目を開ける。
想像の通りだった。フィンがリアナを抱き留める形で支えてくれていたのだ。
「……っ、あ、えっ、」
何か言おうとするが、気が動転して言葉にならない。近い。フィンの胸に顔が押しつけられて、リアナは息を飲む。体温、鼓動、匂い──フィンの存在が、ひどく近い。
「……怪我はない?」
フィンの言葉にリアナはこくりと頷く。顔が真っ赤になっているのが自分でも分かる。
視線をうまく合わせられず、どこか名残惜しく感じながらも体をそっと引き離す。
「あ……ありがとう、フィン」
「うん」
木桶を拾うと、二人はそのまま川へ向かって歩き出した。
けれど、さっきまでと違い、肩と肩の距離が、ほんの少しだけ縮まっていた。