Episode.1/別世界の少年
──穏やかな風が、木々の間をすり抜けていく。
葉がそよぎ、その音が優しく耳に届いた。
「ん……、今日はいい天気だなぁ」
リアナは目を細めて空を仰ぐ。
天に翳した指の隙間から覗いた空は、一面の澄んだ青。雲一つない晴天だった。
お母さんと二人、森の奥深くで暮らすリアナにとって、空は外の世界を知るための唯一の窓だった。手には木桶。家から少し離れた川へと水を汲みに行くところだったのだ。
小鳥の囀り、小動物の気配、湿った土の匂い。そして、さらさらと流れる水の音。
五感を澄ませば、森が語り掛けてくるように感じられる。
スカートの裾をたくし上げ、木の根を避けて、少し開けた細い小道を進んでいく。
何度も通った道だ。あまり目印はないけれど、体が覚えている。
やがて小川に辿り着いたリアナは腰をかがめ、木桶を手に水面を覗き込んだ。
──そのときだった。
「……え?」
対岸の葦の茂みの奥に何かが横たわっているのを、リアナは目にした。
それは──人、だった。そして、その傍らには見たことのない金属の塊がある。
棒に翼の生えた十字架のような形。長く鋭利な切っ先があって、先端には小さな四枚の羽が付いている。形だけ見れば鳥みたいだけれど、違う。獣でもない──鉄の……何か。
緊張に半ば息を止めながら、リアナは川を渡り、葦を掻き分けその人影に近付いていく。
「だ、だれ……?」
近付いて分かった。それは、リアナは初めて見る男の人──少年だった。
赤黒い血と泥にまみれ、顏は血の気が引いて青白くなっており、唇が微かに震えている。
明らかに危ない状態だ。けれど、それでも──生きている。
リアナは反射的に少年の元に駆け寄ると、その身体を抱え上げた。
冷たいが体温はあった。胸に耳を当てれば鼓動も感じられる。
「……うん」
誰にともなく頷くと、リアナは少年を背負い、桶をその場に置いて元の道を引き返し始めた。
◇
「うぅ……重、い……」
はぁはぁと息を切らしながら、リアナは懸命に帰路を辿った。
彼の身体は想像以上に重く、そして運びにくかった。
森の木陰ががさりと揺れ、そこからリアナが顔を出す。
ようやく辿り着いたのは小さな丸太小屋。リアナがお母さんと暮らす家だった。
木製の扉を足で押し開けると、家の中にいたお母さんがこちらを向いた。
「あら、早かったのね──……リアナ? 何を──」
「お母さん……! あのね、川辺でこの人が倒れてたの!」
お母さんは一瞬だけ言葉を失っていたが、すぐにリアナの元に駆け寄ってきた。
それから一緒になって少年を乾草のベッドまで運び、そこに横たえた。
お母さんは慌てるリアナを前に手際よく少年の傷を確認し、薬草や包帯で処置を施していく。その手には一切の迷いがなかった。いつか、お母さんが言っていた通りだ。
「人を助けるときは、ためらっちゃダメよ」と。
「……深い傷はないけれど、脱水と衰弱が酷いわ。意識を取り戻して水を飲んでもらわないと」
「その……助かる、の?」
リアナが恐る恐る聞くと、お母さんはやや難しい表情で、それでも力強く頷いた。
「幸い、今すぐに死ぬような状態ではないわ。……気を抜かないことね」
リアナはお母さんの指示通り、改めて汲んできた水で湯を沸かし、布を絞って少年の額に当てる。睫毛の長い少年だ。その髪からは少し焦げたような匂いがする。
どこか引っ掛かりを覚える顔だった。けれど、それが何なのかリアナには分からない。
そこでリアナは、森の中で見た鉄の塊の事を思い出した。
気になると居ても立っても居られず、リアナはお母さんにそのことを話すことにした。
「お母さん、あのね──」
一通りリアナの説明を聞いたお母さんは、ほんの少しだけ目を細めて言った。
「それは……多分、『乗り物』よ。昔、戦争で使われていたものに似ているわ」
「戦争、の?」
「そんなに怖がらなくても大丈夫。あくまで似ているだけよ。でも、森に落ちていたのなら……そうね。この子は、空から来たのかもしれないわね」
リアナはその言葉を受けて、再び少年を見下ろす形で一瞥する。
まるで別世界から落ちてきたような少年。目を閉じ、寝息を立てている。
呼吸が浅く、時折譫言のように唇を動かすが、言葉にはならない。
リアナはそっと手を伸ばして、彼の手に触れた。
──もう冷たくはない。けれど、どこか壊れそうだと、そう感じた。
「……大丈夫だよ」
その言葉が届いたのかは分からない。けれど少年の呼吸は少し落ち着いた気がしたし、リアナは少年の手をぎゅっと握り直すと、同じ言葉をもう一度囁いた。
「大丈夫だから……今は、安心して眠ってね」