婚約者が他の令嬢に微笑む時、私は惚れ薬を使った
ポリーヌはバスケットを抱えて、騎士の詰所に向かっていた。
今日は婚約者であるジェレミーに、差し入れをするためにやって来たのだ。
騎士として貴族令嬢たちの憧れの存在でもあるジェレミーは、親同士が決めた婚約者であるポリーヌのことを、あまりよくは思っていないようだった。
いつも最低限しか会話をしてくれない。誕生日といった特別な日にプレゼントは贈ってくれるものの、義務的に感じられた。
領地にいた頃は年に数回しか会うことがなかったが、それなりに会話は弾んでいたはずだ。
しかし、一年前にポリーヌが王都にやって来てから、会える機会は増えたのに、冷たくなってしまったように感じる。
ポリーヌはジェレミーの態度を寂しく思いつつも、彼の役に立ちたくて、こうして差し入れをしようと考えたのだ。
王宮の中庭を横切っていたポリーヌは、ふと足を止める。
「あれは……」
中庭のベンチに、一組の男女が座っているのが見えた。
一人は騎士服姿のジェレミーで、もう一人は長い金髪を結い上げた美しい令嬢だった。
「ジェレミーさま……?」
ポリーヌは呆然とした。
ジェレミーがこれまで見たこともないような微笑みを、その令嬢に向けていたのだ。
ポリーヌは、そっとその場を離れた。
バスケットを抱えて、とぼとぼと歩く。
「ジェレミーさま、どうして……」
ポリーヌの目から涙が溢れた。
婚約者の自分には決して向けることのない、柔らかな笑顔。
思い出すだけで、胸が張り裂けそうになる。
「……私、思ったよりもジェレミーさまのことが好きだったみたい」
ポリーヌは、初めて自分の恋心に気づいた。
お互いに伯爵家同士、家格も釣り合うと親が決めた婚約者でしかなかったはずだ。
それなのに、いつの間にかポリーヌは、ジェレミーに恋をしていたらしい。
「私、馬鹿だな……」
ポリーヌは涙を拭うと、引き返していった。
*
それから数日、ポリーヌは落ち込んでいた。
「お姉さま、どうしたの?」
自室にこもって、ぼんやりと窓の外を見つめていると、妹のマノンがやって来た。
マノンは一つ年下で、十六歳の愛らしい少女だ。
「マノン……」
「最近、元気ないわね。何かあったの?」
「いいえ、大したことでは……」
ポリーヌは言い淀んだ。自分の恋の悩みなど、妹には聞かせにくい。
「……やっぱり、こんな茶色の髪と瞳の地味な女より、華やかな金髪に青い目の美人の方が、いいに決まってるわよね」
それでもつい、弱音が口から漏れてしまう。
ポリーヌは、自分の髪を一房つまんで、ため息をついた。
「え? お姉さま、急にどうしたの?」
マノンは驚いて姉を見つめてくる。
「私って地味だし、美人でもないし……。ジェレミーさまもきっとそう思ってるんだわ」
ポリーヌがまたため息をつくと、マノンは呆れたように言った。
「私も同じ色なんだけれど」
「マノンは巻き毛が可愛いし、明るくて人気者じゃない。私とは正反対」
ポリーヌはうなだれた。
「お姉さま、ジェレミーさまが好きなの?」
「え……」
ポリーヌは驚いて顔を上げる。
すると、目の前の妹は悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「やっぱり、そうなのね! 政略結婚でも、好きになることはあるわよね。良かったじゃない!」
「え、ええ……」
ポリーヌは、マノンの勢いに押されて頷いた。
「でも、ジェレミーさまは……」
見知らぬ令嬢と一緒にいたジェレミーのことを思い出し、ポリーヌはまた落ち込んでしまう。
マノンは、そんな姉を見てため息をついた。
「お姉さまは、ちょっと自信がなさすぎなのよ。でも、安心して! 実は、こんなものを用意したの!」
そう言って、マノンはポリーヌに小箱を差し出した。
「これは?」
ポリーヌは、小箱を開けてみる。
中に入っていたのは、花びらを使った可愛らしい砂糖菓子だった。ほのかに甘い香りが漂ってくる。
「惚れ薬よ!」
マノンは、胸を張って言った。
「惚れ薬……?」
「ええ。このお砂糖にはね、恋の魔法がかけられているの。これを食べさせれば、ジェレミーさまもお姉さまの虜よ!」
マノンは自信満々に言う。
ポリーヌは、じっと手の中にある砂糖菓子を見つめた。
「でも、惚れ薬なんて……禁制品じゃないの?」
「大丈夫! これは危険な薬ではなく、おまじない程度だから。それに、お姉さまがジェレミーさまに振り向いてもらえないと、私も困るのよ」
「え?」
ポリーヌは首を傾げた。
マノンは、姉を元気づけるように言った。
「だってお姉さまが無事に結婚してくれないと、私の縁談もこじれちゃうもの。早く幸せになってもらわないと困るわ」
「え、ええ……」
ポリーヌは戸惑ったが、妹に励まされたことで胸が温かくなった。
「ありがとう、マノン」
そう言って微笑んだポリーヌに、マノンも笑みを返した。
惚れ薬だという花びらの砂糖菓子を眺めながら、ポリーヌは自室で一人考えた。
この砂糖菓子を食べさせれば、ジェレミーは自分を好きになってくれるという。
「でも、本当にいいのかしら……」
ポリーヌの脳裏には、あの令嬢と親しげに話すジェレミーの姿が浮かんでいた。
惚れ薬でジェレミーの気持ちを変えることができたとしても、いつかは後悔しそうな気がする。
「やっぱり、やめておこうかしら」
妹の気遣いは嬉しかったが、ポリーヌは悩んだ。
すると、ジェレミーがポリーヌを訪ねてきたという知らせが入った。
「どうしよう……」
ポリーヌは迷ったが、ジェレミーを待たせるわけにもいかず、砂糖菓子の小箱を持って部屋を出る。
応接室に向かうと、ジェレミーはソファに座って待っていた。
「ポリーヌ嬢、急にすまない」
ジェレミーは立ち上がって、申し訳なさそうに言った。
ポリーヌは慌てて首を横に振る。
「い、いえ……少し驚きましたが、嬉しいですわ」
「……そうか」
ジェレミーはほっとしたように表情を緩めた。
ポリーヌはどきりとする。
こげ茶色の髪と青い瞳は、温和な印象を与える。だが、鍛えられた体つきに引き締まった口元、精悍さを感じさせる顔立ちが、彼本来の持つ魅力を引き立てていた。
婚約者なのに、ジェレミーの顔を正面からまじまじと見たのは久しぶりだ。ポリーヌは胸が高鳴るのを感じた。
「それで、今日はどうされたのですか?」
ポリーヌが尋ねると、ジェレミーは言いづらそうに口を開いた。
「実は……きみに話があって来たんだ」
「私に……?」
「ああ。その……」
ジェレミーは、そこで言葉を詰まらせる。
言い淀む姿を見て、ポリーヌは嫌な予感がした。まさか、婚約破棄を言い渡されるのではないだろうか。
「あ、あの! お茶を持ってきますわ」
ポリーヌは逃げるように、応接室を出た。
「あ、ああ……」
ジェレミーの戸惑ったような声が聞こえたが、構わずにキッチンへ向かう。
「まさか、本当に婚約破棄を言い渡されるのかしら……?」
不安な気持ちで、お茶の準備を始める。
手元には惚れ薬だという砂糖菓子があった。
「……これを、食べさせれば……」
ポリーヌは迷ったが、覚悟を決めて砂糖菓子をお茶に浮かべた。
すぐに砂糖は溶けて、花びらがお茶に浮く。甘い香りが湯気に漂う。
「これで、きっと……」
ポリーヌは、震える手でお茶を運んだ。
ジェレミーのいる応接室に戻ると、彼は窓の外を眺めていた。
「お待たせしました」
「ああ、ありがとう」
ジェレミーの前にお茶を出すと、彼は微笑んで礼を言った。
「おや、この花びらは……?」
お茶に浮かぶ花びらを見て、ジェレミーが驚いたような顔をする。
「さ、砂糖菓子ですの」
ポリーヌは笑顔を返したが、内心どきどきしていた。
しかし、ジェレミーは花びらを眺めながら、ふっと口元を緩めた。
「……そうか。俺が甘いお茶を好きだって、覚えていてくれたんだな」
ジェレミーはそう言って、砂糖菓子入りのお茶を飲む。
「美味いよ」
そう言って笑った顔に、ポリーヌの胸が高鳴った。
「ありがとうございます……」
ポリーヌは、どうにか声を絞り出した。
本当に惚れ薬は効果があるのだろうか。
ポリーヌは、ジェレミーをそっと盗み見る。
「……」
ジェレミーは、じっとポリーヌを見つめていた。
視線が合うと、彼は照れたように笑う。そして深呼吸をすると、ポリーヌの目を見ながら口を開く。
「ポリーヌ嬢、きみはとても可愛いな」
「えっ?」
思いがけない言葉に、ポリーヌは赤面した。
まさかジェレミーにそんなことを言われるなんて夢にも思わなかった。
「こんな可愛い婚約者と結婚できるなんて、俺は幸せ者だ」
そう言って、ジェレミーは微笑んだ。その笑顔にまた胸が高鳴る。
ジェレミーは、ゆっくりと立ち上がった。そして、ポリーヌの前までやって来ると、彼女の手を取って跪いた。
「え……?」
呆然とするポリーヌを真剣な目で見つめると、ジェレミーは口を開いた。
「ポリーヌ嬢、俺はきみが好きだ」
「……っ!」
突然の言葉に、ポリーヌは息を呑んだ。
まさか、本当に惚れ薬が効くとは思わなかった。
「ジェレミーさま……」
ポリーヌは動揺して俯いた。心臓がうるさいくらいに鳴っている。
「すまない。こんなことを急に言って驚かせたと思う。だが、本気なんだ」
ジェレミーはそう言うと、ポリーヌの手をぎゅっと握った。
「俺たちは政略結婚だ。互いに愛情を持つことは難しいかもしれない。それでも、俺はきみと幸せになりたいと思っている」
「ジェレミーさま……」
ポリーヌは顔を上げる。彼の真摯なまなざしに、胸が高鳴った。
「きみは俺をどう思ってる?」
「……わ、私は……その……」
ポリーヌは口ごもった。まさか告白されるなんて思っていなかったのだ。
「……っ」
顔が熱い。きっと赤くなっているだろうと思いながら、ポリーヌは口を開いた。
「わ、私も……ジェレミーさまをお慕いしております」
勇気を出してそう告げると、ジェレミーは驚いた顔をした。しかし、すぐに笑顔になる。
「そうか、良かった……」
そう言って、ジェレミーは握ったままのポリーヌの手に口づけた。
「きゃ……」
ポリーヌは驚いて手を引っ込めようとするが、ジェレミーにしっかりと掴まれていて抜け出せない。
そのまま彼は、指先にも口づける。
「あ……っ」
思わず声が出た。恥ずかしさで顔が熱くなる。
すると、ジェレミーは立ち上がって、今度は正面からポリーヌの体を抱きしめた。
「……っ!」
突然のことに驚いたものの、ポリーヌもおずおずと彼の背中に腕を回す。
しばらくそうしていたが、やがてゆっくりと体を離した。そして、顔を見合わせて互いに照れくさそうに笑う。
「嬉しいよ、ポリーヌ嬢」
「……私もです」
ポリーヌは微笑んだ。ジェレミーも嬉しそうに笑う。
こうして、二人は恋人同士になったのだった。
*
それからというもの、ジェレミーはポリーヌにとても優しくなった。
「ポリーヌ嬢、今日は天気がいいから庭を散策しないか?」
「ええ、よろこんで」
ある日の昼下がり。ジェレミーの誘いに、ポリーヌは笑顔で応じた。
二人は連れ立って庭に出る。
歩幅をポリーヌに合わせて、ジェレミーはゆっくりと歩く。
「足下に気をつけて」
「ありがとうございます」
ジェレミーの優しさがくすぐったくて、ポリーヌは笑みをこぼす。
こんな風に穏やかな時間を過ごすことができるなんて思っていなかった。
だが、思い返せば、ジェレミーはいつもポリーヌに対して優しかった。
冷たいと感じていたときでも、言葉が足りなかっただけで、彼の行動はいつもポリーヌを気遣っていたのだ。
彼のそういったところに惹かれたのだったと、今さらながらに思い出す。
「……っ」
ポリーヌは、ジェレミーへの申し訳なさで胸が痛くなった。
「どうしたんだ?」
急に黙り込んだポリーヌを心配して、ジェレミーが声をかけた。
ポリーヌは慌てて首を横に振った。
「いえ、なんでもないんです」
そう言って微笑むと、彼も安心したように笑った。
「そうか……」
安堵した様子の彼に、ポリーヌの罪悪感はますます大きくなる。
この愛情は、惚れ薬によって作られたもの。本物の愛情ではないのだと思うと、胸が苦しくなった。
いつか効果が切れて、自分の本心ではないことを知ったら、彼はどんな顔をするだろう。
きっと傷つくに違いない。それは嫌だと思った。
「あの……ジェレミーさま……」
ポリーヌは意を決して口を開いた。しかし、言うべき言葉が見つからない。
すると、ジェレミーがポリーヌの手を握った。
驚いて顔を上げると、彼は優しく微笑んでいた。
「きみに何か不安なことや悩みがあるのなら、遠慮なく言って欲しい」
その言葉に、ポリーヌの胸は甘く締め付けられた。
「はい……ありがとうございます」
ポリーヌは微笑むと、握られた手を握り返した。
この温もりが偽物でもかまわない。
今だけは幸せな気分に浸っていたいと、胸の痛みを見ないふりをした。
「お姉さま、ジェレミーさまと順調そうね。こんなに効果があるなんて思わなかったわ」
そう言って、妹であるマノンは嬉しそうな顔をした。
「ええ……」
ポリーヌは複雑な気持ちで相槌を打った。
マノンは満足そうに頷いている。
妹の入れ知恵のおかげで、ジェレミーと恋人同士になることができた。
しかし、彼を騙して彼の気持ちを手に入れたような気がして、ポリーヌは罪悪感が拭えなかった。
「どうしたの? 浮かない顔をして」
マノンが不思議そうに尋ねてくる。
「……本当にこれでいいのかしら。私は、ジェレミーさまを騙してるのよ」
ポリーヌがそう言うと、マノンは呆れたようにため息をついた。
「何言ってるの? 惚れ薬なんていっても、おまじない程度のものよ。お姉さまが気に病む必要なんてないわ」
「でも……」
「それに、もう何日経っていると思ってるの? 効果なんてとっくに切れているわよ。それでも、ジェレミーさまはお姉さまを好きだって言っているのよ。それでいいじゃない」
「そうかしら……」
マノンの言葉にも、まだ不安が残る。
すると、マノンはまた大きなため息をついて言った。
「じゃあ、こうしましょう。惚れ薬を売っていたお店に行って、惚れ薬の効果を消す薬をもらってくるの。そうすれば、お姉さまが罪悪感を感じる必要はなくなるわ」
「え……?」
ポリーヌは驚いて妹を見た。
マノンは真剣な顔で続ける。
「お姉さまが気に病んでいるなら、私も協力するわ。二人でジェレミーさまに謝って、惚れ薬の効果を消せばそれでいいじゃない」
「マノン……」
妹の言葉に、ポリーヌは心が軽くなるのを感じた。
「……そうね。そうしましょう」
ポリーヌは笑顔で頷いた。
そして早速、二人は惚れ薬の店へと向かうことにした。
まじない小路と呼ばれる、王都のはずれにある通りだ。占いの店やお守りを売る店などが軒を連ねている。
ポリーヌは、妹に先導されてまじない小路に入った。
「こっちよ」
妹は迷いのない足取りで進んで行く。ポリーヌは慌ててその後を追った。
しばらく歩いていったところで、マノンが突然足を止める。慌てたように、妹はポリーヌの腕を掴んで物陰へと引き込んだ。
「どうしたの?」
「……あれ、まさかジェレミーさま? どうしてこんなところに……」
マノンが小声で呟く。
視線の先には、ジェレミーといつか王宮の中庭で見た金髪の令嬢の姿があった。
「……っ」
ポリーヌは思わず息を呑んだ。
令嬢は、親しげな様子でジェレミーに話しかけている。
ジェレミーはぼんやりと頷いていた。
そして二人は、そのまま店の中へと入って行く。
「……っ!」
胸が締め付けられるように痛む。息が苦しい。
ポリーヌは思わず胸を押さえた。
すると、マノンが心配そうに声をかけてきた。
「お姉さま?」
「……大丈夫よ」
そう言って微笑むものの、ポリーヌの顔からはすっかり血の気が引いていた。
きっと惚れ薬の効果が切れて、ジェレミーは本来の姿に戻ったのだろう。
ポリーヌは、自分がジェレミーの本当の気持ちを踏みにじってしまったことを悟った。
「私……なんてことを……」
ポリーヌは俯きながら呆然と呟いた。
マノンはそんな姉の様子を見つめていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「お姉さま、乗り込んでやりましょう」
「え?」
唐突な提案に、ポリーヌは驚いて顔を上げた。
マノンは真剣な表情で続ける。
「ジェレミーさまはお姉さまの婚約者なのに、他の女と浮気していたのなら許せないわ。だから、乗り込んで文句を言ってやるのよ」
マノンはそう言って、ポリーヌの腕を掴んだ。
「でも……迷惑じゃないかしら……」
ポリーヌは不安になりながら言う。
しかし、マノンは力強く言った。
「大丈夫! だってお姉さまは正式な婚約者なのよ? 堂々としてればいいのよ。それに……ジェレミーさまの様子、なんだか変だったわ」
「え……? そういえば、確かにぼんやりとしていたわ」
ポリーヌは、先ほどまでのジェレミーの様子を思い返した。
「でしょう? きっとあの令嬢に何かされたのよ! だからお姉さまが助けてあげなきゃ!」
そう言ってマノンは意気込む。
そんな妹の姿を見ていると、不思議と気持ちが落ち着いてきた。
「……そうね。行きましょう」
ポリーヌはそう言って頷いた。
マノンも嬉しそうに笑って頷く。
「そう来なくちゃ!」
そして、二人はジェレミーと令嬢が入っていった店へと乗り込んだ。
店の中は薄暗く、怪しげな香が焚かれていた。甘ったるい香りにむせ返りそうだ。ポリーヌは思わず咳き込んだ。
「お姉さま……」
マノンが心配そうに見上げてくる。ポリーヌは優しく微笑んで妹の頭を撫でた。
「……っ」
その瞬間、店の奥からジェレミーと令嬢が現れた。
彼は、虚ろな瞳でぼんやりとしているように見える。まるで薬でも飲まされているかのようだ。
令嬢はそんなジェレミーにしなだれかかりながら笑う。
「あら、あなた……元婚約者のポリーヌさんね? ちょうど良かった」
彼女はそう言って、妖艶な笑みを浮かべた。
「あなたは……」
ポリーヌは警戒しながら尋ねる。
すると、令嬢は芝居じみた口調で答えた。
「私は、ジェレミーさまの運命の相手ですの」
「……え?」
ポリーヌは戸惑った。彼女が何を言っているのか理解できない。
だが、令嬢はうっとりとした表情で続けた。
「ジェレミーさまは私と結ばれる運命だったのです。それをあなたが邪魔をしたのでしょう? でも、もう大丈夫。私が彼を幸せにして差し上げますから」
そう言って令嬢はジェレミーに抱きつく。
彼は抵抗しないどころか、令嬢をぼんやりと見ていた。
「そんな……」
ポリーヌは呆然とした。
確かに、惚れ薬を使ってジェレミーの心を自分に向けさせた。二人の邪魔をしてしまったのかもしれない。
罪悪感で胸が押し潰されそうになる。
それでも、諦めるわけにはいかなかった。
だって、自分はジェレミーが好きなのだ。たとえ彼の心が自分の方を向いていなくても、自分の気持ちを偽ることはできない。
ポリーヌは意を決して口を開く。
「いいえ! 彼は私の婚約者です!」
そう言ってジェレミーの手を引いた。
令嬢が驚いたように目を見開く。
「お姉さま……」
マノンもハラハラとした様子で見守っている。
だが、今は気にならなかった。
「ジェレミーさま、行きましょう?」
ポリーヌはジェレミーに呼びかける。
ジェレミーはぼんやりとした様子で、ポリーヌを見た。
すると、虚ろだった瞳の中に光が宿った。そして、彼は驚いたように目を見開く。
「ポリーヌ嬢……?」
「ジェレミーさま!」
ポリーヌは思わず彼の名を叫んだ。
しかし、ジェレミーは戸惑ったような顔をしている。そして、令嬢の方を見た。
「これは、どういうことだ……?」
令嬢は不機嫌そうに舌打ちする。そして、ジェレミーに詰め寄った。
「どうして……私の言うことを聞かないのよ! 私は運命の相手なのよ? 私のことを忘れてしまったの? あなたは私を愛していたのよ……!」
彼女は必死の形相で叫ぶ。
しかし、ジェレミーは冷たい目で彼女を見返した。
「……俺はポリーヌ嬢を愛しているんだ。きみを愛せるはずがない」
ジェレミーはきっぱりと言った。
令嬢の顔が怒りに染まる。
「そんな……どうして……私はあなたのために……!」
彼女はヒステリックに叫んだ。
ジェレミーが、冷めた眼差しを向ける。
「……きみが違法薬物に手を出していたことは知っている」
ジェレミーの言葉に、令嬢は目を見開いた。
「な……どうして……」
「きみの行動を調べていたんだ。まさか、俺にまで薬を使うとは思わなかったがな」
そう言って、ジェレミーは令嬢を睨んだ。
彼女は青ざめて震えている。
「そんな……だって、私は……」
「言い訳はいらない。きみときみの実家には、然るべき処分が下るだろう」
ジェレミーはそう言って、窓から外に合図を送った。
すると、店の外で待機していた騎士たちが現れる。
令嬢は悲鳴を上げた。
「いや……やめて! 私は悪くないわ! 運命の人なんだから、私のことを愛するべきなのよ! 私を愛するのが、ジェレミーさまにとっての幸せでしょう!?」
令嬢の叫び声が、店の中に響き渡る。
しかし、ジェレミーは冷たい眼差しを向けたまま答えた。
「……俺の幸せをきみが勝手に決めるな」
ジェレミーの冷え切った言葉に、令嬢はついに泣き崩れた。
騎士が彼女を捕らえて連行していく。
その様子を呆然と見守っていたポリーヌだったが、我に返って慌ててジェレミーに声をかけた。
「あの……大丈夫ですか?」
すると、ジェレミーはハッとしたようにポリーヌを見た。そして安心させるように微笑む。
「ああ、大丈夫だ。きみのおかげで助かったよ。ありがとう」
「いえ、そんな……私は何も……」
ポリーヌは戸惑いながら答えた。
外に騎士たちが待機していたことから、おそらくジェレミーは事前に事態を予測していたのだろう。
ポリーヌはそんなことも知らずに、踏み込んでしまったのだ。
むしろ迷惑に思われているのではないか。そう思うと不安になる。
そんなポリーヌの心情を察したのか、ジェレミーは優しく言った。
「そんなことはないさ」
そして、ポリーヌの手を取ると、その甲に口づける。
「っ!」
ポリーヌの顔が真っ赤に染まった。心臓の鼓動が速くなる。
ジェレミーはそんな彼女の様子を愛しそうに見つめながら言葉を続けた。
「きみが呼びかけてくれたおかげで、俺は正気に戻ることができたんだ。本当に感謝している」
そう言って、ジェレミーはポリーヌを抱きしめた。
「あ……」
突然の出来事に動揺しながらも、ポリーヌはおずおずとジェレミーの背中に手を回す。そして、彼の胸に顔を埋めた。
心臓がドキドキとうるさいくらいに鳴っている。
それでも離れたくなかった。
そんな様子を見ていたマノンが、からかうような声で言った。
「お姉さまったら大胆ね!」
その言葉にハッと我に返る。ポリーヌは慌ててジェレミーから離れた。
しかし、ジェレミーは気にしていない様子で微笑んでいる。そして、ポリーヌの手を取ると再び口づけた。
「ありがとう、本当に感謝している」
そう言って微笑むジェレミーは、今までに見たどんな彼よりも素敵だった。
ポリーヌの心臓は再び高鳴る。
顔が熱い。きっと真っ赤になっていることだろう。
そんな二人の様子をマノンがニヤニヤしながら見ていたが、それを気にしている余裕などポリーヌにはなかった。
*
その後、令嬢とその実家は、違法薬物の売買と使用で取り締まられた。
ジェレミーは調査のため令嬢に近付いていたのだ。
すると、令嬢はジェレミーを自分の運命の相手だと思い込み、薬を使って彼を自分のものにしようと画策していたらしい。
それを聞いたポリーヌは、令嬢に対して怒りを覚えると同時に、自分も同じようなことをしていたと胸が痛くなる。
「ジェレミーさま、申し訳ございません。実は私、あなたに惚れ薬を……」
「知っているよ」
ジェレミーの言葉に、ポリーヌは驚いた。
すると、彼はくすりと笑う。
「あの花びらの砂糖菓子だろう? 今回の件でまじない小路の店全体も調べたからね。あれが惚れ薬として売られていたことは、すぐにわかったさ」
「そう……だったのですか」
ポリーヌは呆然として呟いた。まさか、気づかれているとは思わなかった。
「ああ。あれが単なる、酒に漬けた花びらの砂糖菓子だっていうこともね」
「……え?」
ポリーヌは驚いて目を見開く。
一瞬、意味がわからなかった。あれが惚れ薬ではないと言っているのだろうか。
「ちょっとした媚薬のような効果はあるかもしれないけれどね。そもそも、特定の感情だけを都合良く変える薬なんてないよ」
「で、でも、あれからジェレミーさまの態度が変わったのは……!?」
思わず詰め寄ると、ジェレミーは気まずそうに視線を逸らした。
「あれは……その、実は……」
ジェレミーはもごもごと口籠もりながらも告白した。
「きみがそれを使っているところを見て、つい嬉しくなってしまってね。俺だけの一方的な想いではなく、きみもそんなものを使うくらいに俺を好きでいてくれているんだと……」
そう言ってジェレミーは恥ずかしそうに頬を染める。
ポリーヌは絶句した。まさかあの惚れ薬がただの砂糖菓子だったとは。そして、それをジェレミーが知っていたなんて考えもしなかった。
呆然とするポリーヌを見て、ジェレミーは困ったように眉を下げた。
「すまない。そうやってきみを思い詰めさせてしまったのは、俺の態度が悪かったからだよな。本当にすまなかった」
そう言って、ジェレミーはポリーヌの手を握った。
「……きみが王都にやって来たとき、すっかり大人びて綺麗になっていて驚いたよ。それで、気後れしてしまってね。どう接していいかわからず、つい素っ気ない態度を取ってしまったんだ」
ジェレミーはポリーヌの目を真っ直ぐに見つめて言う。その瞳には熱が籠もっていた。
ポリーヌの心臓が早鐘を打つ。
「でも、それでは駄目だと思った。だから、自分の気持ちをしっかり言葉にしていこうと決意したんだ。きみが好きだとね」
ジェレミーの言葉に、ポリーヌは耳まで熱くなるのを感じた。
心臓が壊れそうなほど脈打っている。きっと顔も真っ赤になっているだろう。
そんなポリーヌを愛おしそうに見つめながら、ジェレミーは続けた。
「初めて会ったときから、ずっときみに惹かれていた。でも、きみの想いが俺と同じものなのか確信が持てなくて……そのせいで不安にさせてしまってすまない」
「そんな……」
ポリーヌは首を横に振った。
「私も同じです……あなたが私以外の誰かを好きになってしまったらと思うと怖くて……」
そう言って俯くと、ジェレミーは優しく微笑んだ。そして、彼女の頬に手を添える。
「大丈夫だ。俺はもうきみを不安にさせない。これからずっと一緒だ」
「……はい」
ポリーヌは小さく頷いた。
すると、彼はポリーヌの顎に手をかけて上を向かせる。
そしてゆっくりと顔を近づけてきた。
ポリーヌは目を閉じる。
二人の唇が重なった。
柔らかく温かい感触に、ポリーヌは頭が蕩けそうになる。
やがて唇が離れると、ジェレミーは照れくさそうに笑った。
そんな彼を見て、ポリーヌも自然と笑みがこぼれる。
「ふふ……なんだか夢みたいです」
「ああ、俺もだよ」
二人は顔を見合わせて笑い合った。
そして再び口づけを交わす。
今度は深く長い口づけだった。
8月20日に『妖精番の姫 侍女に騙されて身分を奪われましたが、運命の相手と恋に堕ちました』が一迅社文庫アイリス様より発売予定です。
初の書き下ろし作品で、Web上での公開はなく、書籍が初出です。
ざまぁなし、キャッキャウフフ・イチャイチャするお話です。
優しい雰囲気の恋愛ファンタジーを目指しました。
麗しい素敵なイラストは椎名咲月先生です!
一迅社文庫アイリス創刊16周年フェアの対象作品です。
書泉様ではサイン本抽選販売や有償特典アクリルコースター付きもあります。
ぜひお手に取っていただけると嬉しいです!