138:逝雪平原
音もなく。
はらりと白い一片が暗がりから降ってきて一面の白に溶けあい、一つの風景になる。
手を伸ばしたすぐ先は一見すると何処までも続く夜の雪原だった。
……ただ一点、目の前を謎のメカニズムでもって水と空気とを隔てる境界が存在しなければ。
マリンスノーが分解されずに何処までも降り積もる平らな海底。
それがお隣ダンジョンの第5階層だった。
第4階層の時点で少しその気配はあったが、最早人間が探索する事を考慮に入れていない。人は普通深海を進めるようには出来ていない。
ダンジョンの采配は理解に苦しむものの、メタルゴーレムにとって深海はさしたる障害ではない。
謎の境界を越えればごぼりという重い音と共に重水の圧がメタルゴーレムの全身を包み込んだ。
「俺の方は大丈夫だ。……行けるか?」
「……うん。大丈夫そう…」
振り返ればユキヒメの魔力体……水の身体が境界を越えて重水の中へと入ってくる所だった。
気分転換に新しい所を探索しようと思ったらユキヒメもついて行きたがったので、ふと思い出したこの階層を少し探索してみようと思ったのがつい先ほど。
少し辛気臭くはあるが駄々広い平原というのも悪くはない。
踏み入ってみて初めて分かったが、マリンスノーの沈殿層と水との間に重い油のような別の層が一つ水と沈殿とを隔てているようだ。
特に気にはしていなかったがこれはこれで好都合だな。
橙色空間魔力を円盤状に成型した転移門を開いて先ほど作ったカルゴボード改を沈殿の上の油層に置く。
橙色空間魔力に白色魔力を反応させて下の油層を固化させれば、メタルゴーレムの重量が乗りかかっても、油層はしっかりと体重を支えてくれた。
「……っし、良さそうだ。しっかり掴まってろよ」
「うん」
しっかりとボードと足を固定した後に手招きすれば、ユキヒメが水の触手を出してメタルゴーレムの身体へと巻き付く。
それぞれの準備が整った所でボードの推進器へと魔力を流せば、発水宝玉からJ字パイプを通って噴き出した水が、滑るようにカルゴボードを前へと押し出した。
しんと音を吸い込んだ深海の雪原の中をカルゴボードは二人を乗せて滑るように進む。
実の所これは現実逃避……もとい気分転換だ。
虚ろの種籾は中々興味深い素材だった。
実際ユキヒメが作ったらしいネコミミやボールプールなどに利用したし、探索の方でも一つ面白い使い方が出来た。今日も用意はしてきたので必要になれば使ってみたいと思う。
そこまでは良かったのだが、第8階層で手に入れた目玉素材、魔力カードを調べようとして、そこからが険しいハードルだった。
大体の魔力カードはまあ何となくは内部の魔力を操作する事が出来た。ただ精神操作能力を持っていたグリフワームが引っ付いていた石碑から生成された星幽のカードだけはどうやっても内部の魔力を操作する事が出来なかった。
正直期待していただけに落胆は大きい。ぶっちゃけ手に入れた他のカードであれば自前で変質魔力を作り出したり、代替品があったりするから有用性で見ればそこまで重要じゃないし。
実の所、カードその物についてもお手上げだったりする。
うんともすんとも言わない星幽のカードをどうにか使うために他のカードを精査してみたが、分かったのはカードという体積以上に魔力が封入されていること、その割に魔力濃度自体は特に変化している様子は見られないこと、カードそのものは破壊困難、ほぼ不壊と言っていい耐久性を持っていることの三つだ。
いやあ成形機の変形粉砕機能を使っても変わらずにピンピンしていた時は手違いか不具合を疑ったね。
当然のことながら紺鉄鋼のダガーで突き刺そうとしても刃先が滑って刺さらないし、モノのハズなのに何故か転移門は通らない。
これらの性質は仮に再現できれば非常に強力な現象なのだが、赤色魔力を通して見ても現象解明に至る手掛かりらしい手掛かりは得られず、次第に頭が沸騰して来たので少し気分転換が欲しくなったのだ。
しんと静まり返って動く気配を見せない白い沈殿の雪原は……うん、ドライブは捗るんだけど少し単調だな。
「ユキヒメはどうだ?」
「ん? ……好き」
イマイチよく分からない返答が返ってきたが、取り合えずつまらなかったり苦痛だったりはしないようだ。少しホッとする。
変化球はいつでも投げられるが見渡す限りの雪原では少し間が悪い。
実の所この雪原の下には先ほどからぽつぽつと赤色魔力索敵レーダーに映り込む魔力反応が確認出来てはいた。
腕程の太さの大ぶりなウナギといったサイズの潜伏者は啄ばむ奪衣婆なる名前をしたモンスターだったが、捕捉当初の警戒に反して接近しても上を横切ってもまるで襲ってくる気配を見せなかった。
カルゴボードで油層の上を移動しているからなのか、あるいは別の理由があるのかは不明だが、スルーできるのならばそれでいい。
素材が有用だったとしても雪原に広く分布している事は分かっているからな。後で適当に探して調査狩猟するだけで十分だ。
メタルゴーレムにもたれかかるようにして水の触手を絡み付けるユキヒメがふと瞬きをする。
その視線を辿れば仄白い海底の向こうにちょっとした起伏が出来ているのが辛うじてわかった。
他に目印もない。
丁度いいのでユキヒメが見つけた起伏へと進路を変更して向かう事にする。
「これは……、うん……」
「……きれい」
「えっ。あ、うん。……まあ綺麗っちゃ綺麗だな、うん」
雪原にぽつんと忘れ去られた起伏には、名状し難きモノが群生していた。
強いて例えるなら頭も手も足もない骸骨、胸部だけの骸骨が透明な肉を羽織って群れている感じだろうか。
懐古する狂骨と名付けられていたやっぱりおどろおどろしい名前をしていたそれはどうやらモンスターのようだ。
攻撃してくる気配どころか脊椎を直に起伏に固着させたまま動く気配を見せないが。
ユキヒメの言うようにその色合い自体は淡い透明の肉の中を真っ白で細微な曲線を描いて綺麗ではある。その曲線が描き出す形の意味する所を考慮に入れなければの話だが。
何とも言えず二人して眺めている間に、肋骨が呼吸するように膨らんで、それから背部の尻尾のような管がぶふると震えて水を吐き出す。所謂これはホヤという奴だろうか? 食っても美味くはなさそうだが。
各固着体が思い思い好き勝手に呼吸する様はこちらを一向に顧みない。成程懐古すると名付けられるわけである。
「欲しいな……」
「え゛」
ぼうっと眺めていたユキヒメがふと思いもよらない言葉を零す。
どうやらこのおどろおどろしいモンスターを工房の前の泉で育てたいらしい。
「……ダメ?」
「いや、ダメとは言わんが……育つか分からんぞ?
まずここ海水……なのかまず分からんな。
まあとにかく生育条件が全く違うだろうし。
……それでもやるか?」
「……うん」
そういう事になった。
拙作をお読みいただきありがとうございます。




