書簡1
妻側の話です。
時系列的には前話よりも前
結婚前〜オルウェイ赴任直前ぐらい。
「お父様、いつもお仕事遅くまでお疲れ様です。温かい飲み物はいかがですか」
「おお、ありがとう」
「少しでもお手伝いできたらいいのに……そうだ。提出文書や返信の書き方を教えてくださいな。基本のルールと、定形のよくある文例をいくつか教えていただいたら、お父様の走り書きを清書しますわ」
「そんなのはうちの書記官連中がやるから大丈夫だよ」
「あら、だって少しでもお父様のお手伝いがしたいのですもの。私、筆記は速くて綺麗だと先生に褒められましたのよ。ね?お願い」
厳格な軍人で、やり手の政治家の父親は、この末娘にはめっぽう甘かった。
「お父様、こちらの白箱分は定形のお断り文で宛先だけ変えて返信でよろしいですね」
「ああ。そこに置いた分はお前の判断に任せる。迷うものがあったらカレートゥスに聞け」
「はい。今日の赤箱分はこれだけあります。定形外で記載が必要な部分は、口述筆記にしますか?御自分でお書きになりますか」
「数が多いな。こちらの重要案件は自分で書く。これとこれは要点を説明するから、お前が体裁を整えて下書きをしてから、清書に回してくれ」
「はい。指示をつけて書記官に回します」
実際、子の中ではこの末娘が一番、有能だった。
娘可愛さに手伝いに入れたら、家での仕事の効率が上がったなどと、なかなかシラフでは口にできない話ではある。だが、娘であることと年齢を考えさえしなければ、父親は間違いなくこの娘に家を継がせ、仕事上の片腕として取り立てていただろう。
「あなた。いい加減にしてくださいませ」
「ううむ、しかしだな……」
「あの子には家の仕事も覚えてもらわなければならないのですよ。今は実家にいるとはいえ、家庭を持ったら一人で家政をまわさなければいけないんですから」
「そんなもの、いつまでもここに居れば良いでは無いか」
「呆れた!自分の欲を優先して、子供の幸せを考えない親なんてクズだと、いつも申し上げているでしょう」
「家政ぐらい、あやつなら教えなくてもすぐになんとでもすると思うがなぁ」
「家庭内の女の仕事を軽く見ないでくださいまし。だいたいあなたは年季明けの解放奴隷の手続きや賃金支払いも、新しい使用人の雇用も何もかもこちらに丸投げで……」
「わかった。わかった。奥向きのことは実際に顔を合わせる時間の長いお前が一番良く知っているから、任せているんだよ。面倒があれば言ってくれれば、ちゃんとやるから」
「ではイリューシオの件を早く決めてください」
「イリューシオというとカレートゥスの息子か」
「戦地から戻って、こちらで奉公したいと言っているんですが、雇うなら除隊時の市民権申請手続きで雇用証明をしにいかないと……」
「ん?カレートゥスの息子の年なら、まだ兵役満期ではないだろう?」
「士官まで出世していたそうですよ。補助兵士官の市民権取得期限短縮はあなたが通した法令でしょう」
「優秀な士官に除隊されるのは望ましくないなぁ」
「あら、お父様。私が提案したときは、軍団の内情を知っている士官経験者が他国に流れず、市井で予備役として確保できるのは良いことだって仰ってくださったではないですか」
籠いっぱいの瑞々しい葡萄を抱えた娘は、晴れやかな笑顔で父母に葡萄を見せた。
「農園から初物が届きましたの」
「あら、いい色ね」
「今年のワインは期待できそうかな」
「ワインを作るところもまた見たいわ。時期になったら連れて行ってくださいませ」
「いいとも。以前、お前にせがまれて飼った牛がなかなかよく乳を出すようになったらしい。その様子も見に行こう」
「本当?嬉しい」
好奇心旺盛な娘は、あらゆるものに興味を示した。
父母の仕事の手伝いをしながらも、博物学者のように万物を知りたがり、哲学者のように思索し、芸術家のように絵を描いた。
彼女は、散歩に出た先や旅先で、しばしば野の草木や鳥を描き留めていた。
農園の視察に同行したときも、彼女は葡萄園に画板を持って座り込んだ。
「お嬢様、そろそろ日没です。戻りましょう」
「待って、イリューシオ。あと少し。これを描き上げてしまいたいの」
「葡萄の絵を描くなら、虫食いや斑のある枯れかけの葉ではなく、収穫された実を描けばよろしいのでは?」
「それも後で描くわ。でも、この蔓のからみ具合や葉の感じも良いなと思うのよ」
「絵の教師は、完成された完全なものに美は宿ると仰っておりましたが」
「私は完全な調和による美も好きだけれど、取るに足りないものの不完全さにも美しさを感じるの」
戦場で脚を負傷して除隊した従者は、夕暮れの農場で自らの若い主人の描いた葡萄の絵をじっと見つめた。
「私にはその葡萄の葉は枯れているだけに見えますが、お嬢様の描かれた絵は美しいと思います」
「ありがとう。あなたは私の欠けたものへの愛を理解してくれるのね」
「……もう暗くなります。また、明日参りましょう」
暮れなずむ葡萄園を、膝の悪い従者と若い主人は一緒にゆっくりと歩いて農園屋敷に戻った。
「奥様、南部戦線からの報告書をお持ちしました」
「ありがとう」
結婚したというのに妻の顔も見ずに連戦している夫のいる戦地の報告書を、彼女は嬉しそうに受け取った。
「いつも喜んで読んでおられますが、それほど戦況がよろしいのでしょうか?」
幸せそうにさして長くないスクロールを眺めている彼女に、従者は尋ねた。
「戦況は悪くはないけれど、大勝もさせてもらってはいないというところかしら……取り立てて良い報告があるというわけではないのよ」
「では……?」
首を傾げる従者に彼女は微笑んだ。
「この、最後の所感の部分がね……あの人の文字なの」
文字の右のハネが上向きに上がる癖があるのだと言って、彼女は愛おしそうに書面を撫でた。
「下手な字ですね」
「流麗ではないけれど力強くて、それでいて少しぎこちないところがあって……ああ、軍に務めながら字を覚えたんだろうなって、そんなことを思うとちょっとかわいらしく思えるのよ」
「よくわかりません」
「ふふ。これは私が一人で思うことだから、あなたはわからなくていいわ」
「承知しました」
少し照れくさそうな女主人の傍らで、従者は静かに目を伏せた。
脇役に名前を付けてしまった。
(実は名前は初期からあったが本編ではキャラを絞るために名前を出すのを我慢していた)
イリューシオは本編で最初から最後までずっと主人公のそばにいた人です。実は本編の初台詞はこの人だったり……。
なかなかエリオスのターンに入れなくてごめんなさい。