黒龍、青き鷹にまみゆ
黒龍公だった男は暗い石牢の中で闇を見つめた。
東を滅ぼした北の大軍は、そのまま南下した。
"青い鷹"と渾名される若い将が率いる北の軍勢は、王国軍を圧倒し、1年も経たずに、戦は終局を迎えた。
"青い鷹"は強い男だった。
先の東方殲滅でユステリアヌスの名を賜ったアトーラの智将の娘婿だという。あの老獪な男が気に入って取り立てたというだけあって、ただ強いだけではなくて、こちらの策を見抜いて厄介な手を打ってくる嫌な敵だった。
枯れ谷で初めて対峙したときは、崖上からこちらを見下ろすその目を見て、なるほど"鷹"とはよく言ったものだと思った。
大軍を動かすときは、義父直伝の王道の用兵。それでいて、癖の強い小部隊での奇策も要所要所に混ぜてくるあたりが憎らしい。
足場の悪い河口付近での想定外の遭遇戦では、葦原からの待ち伏せ攻撃で、古参の側近をやられた。
平原での正面からのぶつかり合いや、夜戦では、まだこちらに歩があったが、アレがもう少し経験を積んだら、手がつけられないことになるだろう。
「(俺を売り渡した奴らは、そのあたりをまるでわかっとらんのだろうな)」
北のアトーラは近年、国力を伸ばしている。歴史ある王国の者たちは、いつまでもアトーラを新興の田舎者扱いしたがっているが、実のところ王国に過日の輝きはない。伝統という聞こえのいい言葉に寄りかかって、過去の威光の名残を後生大事になぞっているだけだ。
目先の利で、国内での勢力争いばかりしていると、早晩、ああいう男の出てくるアトーラに呑み込まれるだろう。
「(だが、まぁ。滅びるなら滅びてしまえ)」
彼は、開いていても閉じていてもどうせ何も見えない目を閉じた。
戦況が悪くなる中で、なんとか重要拠点を防衛していた彼は、味方の手ひどい裏切りにあった。拠点は落ち、彼は敵に囚われた。
早々に処刑されると思いきや、彼は牢内に放置された。
手違いか故意かはわからない。
最初のうちは見回りや食事の支給もあったが、それも途絶えた。闇の中でじわじわと死に向かっていくのは、戦場での危機よりも心身にこたえるものだと彼は苦笑した。
正気と体力を保つために、あらゆる努力をした。石壁に結露した水を舐め、身につけていた革帯を囓った。敵への怒りを適度に薪にして体温を保ち、生き延びたらすることを詳細に計画した。
それでも身体の衰弱は止められず、こんなところで野垂れ死ぬくらいなら、憎ったらしいあの若造と一騎打ちでもしておけばよかったと、是非もないことを思っているうちに、意識は闇に沈んだ。
風が動いた。
物音と複数人の足音とともに松明の熱を感じた。
「こんなところに人間を閉じ込めたまま引き継ぎを忘れるなんて、占領軍はどうなっていたのよ」
女の声だ。
「死んでおるようです」
意識が戻ったことを気取られぬように、目を閉じたまま慎重に呼吸する。人の気配は3つ……いや、4つ。声から判断すると一人は女で一人は年寄りだ。弱った体でも、隙をつけば逃げられるかもしれぬ。
「いえ、生きているわ。気をつけて。侮ると痛い目をみるわよ」
「承知しました。……おい、持ってきたそれを」
「はっ」
まずいことになる前に逃げようと身じろぎかけたところで、頭ごと足先まで、何やら大きな厚手の布で巻かれて、手も足も出せないまま、抱え上げられた。
「暴れますな」
「思ったより、元気ね。良かったわ。怪我をさせないで。大事な“資源”よ」
人質交換の役には立たんが、奴隷として売るなら、なるほど、多少の金にはなるやもしれぬ。
今すぐ殺す気がないなら、この状況でこれ以上暴れても仕方がなかろう。逃げる機会を伺うのはあとだ。
この先のろくでもない運命を考えるのが嫌になって、男は、なけなしの体力を使い果たした体から力を抜いて、意識を手放した。
次に気がついたときは、堅い寝台に横たえられていた。目には布が当てられていてあたりの様子は見えない。思ったよりも長く意識を失っていたらしい。
体を動かそうとしたが、拘束されているようだった。
誰かが絞った布で顔を拭いて、別の柔らかい湿った布を口に含ませた。布を伝った水が、乾いた唇と口内を潤した。
身体は反射的に水を求めた。
「あせらないで。ゆっくりと、少しずつよ……あなたは辛抱強い人でしょう?」
心地よい声は咎めるようで、それでいて優しくなだめるようで、乾いた心が癒やされた。
優しい手に頬や額を撫でられながら、少しずつ水を含み、虜囚はまた眠った。
気を抜いたせいか高熱が出た。
熱に朦朧としたまま、寝たり覚めたりを繰り返し、幾度か優しい声と手に介抱されたように思う。
水以外のものも口に運ばれた。
「ひどい匂いで苦いけれど飲んで。毒ではないわ」
一口分ずつ与えられたのは、穀物を煮た汁の上澄みにすり潰した青臭い苦草を混ぜたような代物で、言われた通りの味と匂いだったが、弱った体には天上の甘露にも思えた。
「全部飲めて偉いわね。はい、ご褒美」
最後に唇に柔らかい細い指が触れ、なにかねっとりとしたものが塗られた。
ひと垂らし分だけの蜂蜜だ。
甘さに全身が震えた。
ようやく熱が引いたときには、目に当てられていた布は取られていた。
あらためて入浴させられて、簡素だが清潔なアトーラ風の服を与えられた後で、連れて行かれたのは、大きな机が置かれ、周囲に山のように書簡や木簡が積まれた部屋だった。
部屋の中央では、若い女が机の上に広げた地図を指しながら、まるで戦場の司令官のように、周囲の男たちに矢継ぎ早に指示を出していた。
立ったまま、従僕が差し出した杯の中身をグッと飲んだ彼女は、そこで顔を上げてようやく、連れてこられた男に気づいた。
「あら。意外に似合うわね」
医者は熱が下がれば問題ないと言っていたが、もう調子はいいのかと問う声は、何度も聞いたあの声だ。
男の顔をじっと見た女は、何がおかしいのかニイッと口角を上げた。
「枷は似合わないわ。取って」
「しかし……」
男の両脇で枷に通した紐を握っていた兵士二人は渋ったが、女は譲らなかった。
「ごめんなさい。ここでは暴れないと約束していただけるかしら。大事な書類がいっぱいあるから散らかると困るのよ」
「十分に乱雑なようだが?」
「人が足りないのに、仕事が増える一方なので片付かないの」
「わかった。君の邪魔はしないと約束しよう」
枷を外された男は、手首を揉みながら、面白そうに女を眺めた。
「それで?なぜ俺はここに連れて来られたんだ?」
女は新たに届けられた報告書に目を通しながら、おざなりに答えた。
「ああ、ここに来てもらったのは、私が病棟に行く時間がなかったからよ。悪いわね」
「指示待ちの部下が多い司令官はそんなものだ」
「ご理解いただけて嬉しいわ」
男はなんとも愉快な気持ちになって、この生意気な若い女をじっくりと見つめた。
長い黒髪は結い上げられているが、北方の貴婦人の標準からするといささか乱暴な纏め方だ。
服装も、男装とまではいかないが普通の女はしないような、飾り気のない動きやすさ重視のナリである。
顔や佇まいに品があるので、そうは思えないが、どちらかというと山賊や海賊の女首領といった風情ですらある。
「では、手短に済ませよう。用件は?」
「一応、本人の意志を確認したかったの」
女は書簡を部下に渡して、2,3指示を出すと、大机を回り込んで男の前に立った。
「あなた、地下で忘れられて死ぬのと、刑場で大衆の娯楽になって死ぬのと、戦場で死ぬのとどれがいい?」
自分を見上げる女の、挑戦的な黒い眼が、まるで黒曜石のようだと男は思った。
詳細を説明するからとあらためて設けられた席で、女は彼に、一軍の将として、アトーラの遠征軍に補助兵を率いて参加しろと言った。
「どうせ戦場で死ぬなら、うちの役立たず共を一緒に連れて行って、多少なりとも役立ててやってちょうだい」
彼女の言う役立たず共というのは、捕まった野盗などで、凶状持ちの人でなしもいるが、戦乱で食い詰めて武器を取らざるを得なかったものも多いという。
「処刑してしまえばよいではないか」
「何言ってるの。あんた達が戦争で殺し合いすぎたせいで、人が足りないのよ。残っている成人男子は、質はどうあれ有効活用しなきゃもったいないわ」
「……俺もか?」
「ええ。あなたは最上級品質のとっておき」
彼女は眩い宝物を見るようにうっとりと目を細めた。
「本当はここの仕事を手伝ってもらいたいのだけれど、あなたが最もあなたらしく一番活躍できるのは、たぶん西征の戦場だから、あっちを任せるわ」
「……俺は元敵軍の将だぞ」
「あちらには裏切られたんでしょ。戻るところもないんだからうちで働いて。補助兵でも上級士官の隊長クラスは、満期除隊を待たずにアトーラの市民権を得られるわよ」
こうやって、優秀なら外部の者でも貪欲に取り込むところが、アトーラという国の強さだなと、属領出身の異民族であるがゆえに王国内で差別を受けてきた男は、しみじみと思った。
あとから、この自国外出身者への市民権の付与の制度を整えたのがユステリアヌスだと聞いたときには、なるほどと納得した。かの智将は戦場でも強かったが、政治において本領を発揮する男なのだ。国を強くするのは軍の力だけではない。
「船を仕立てるわ。向こうの軍に合流するまでの食料もこちらで用意する。兵の名簿と渡せる積荷の目録は後で纏めるわね。悪いけれど武具はろくに持たせてあげられそうにないのだけれど」
「ならず者の寄せ集めに武具や食料まで渡して船で送り出そうなどとは正気か?どう考えても、船を奪って好きに逃げるだろう」
「それで逃げた先で、また野盗としてその日暮らしをして、野垂れ死ぬの?それとも海賊になって海の藻屑になり果てる?」
女はくいっと顎を上げた。
「そんなのはイケてない生き方だって、あなたが教えてやってくださいな。男が武器を持って戦うなら、そんな卑近な欲に流されるより、大きな野望と誇りを抱いたほうが輝けるってね」
彼女の黒い目が、貫くような強い輝きを放った。
「あなたはそうやって生きてきた男でしょう?南の黒龍。シャージャバル公ゴドラン」
出発前に、女は名目上は志願兵という体裁になっている補助軍の兵達の前に立った。
艷やかな黒髪を金の髪留めで美しく結い上げ、裾が長くてドレープの多い白い薄衣をまとった彼女は、戦勝の祈りを捧げる巫女のようだった。
彼女は凛としたよく通る声音で、堂々と彼らに告げた。
「テメェら、しけた面してんじゃねぇぞ。顔を上げろ人殺し野郎ども!いいか?よく聞け。ここでは人殺しは死刑だが、戦場では人殺しは英雄だ。西では輝ける英雄が日々戦場で手柄を立てているぞ!どうせ生き延びるためにあがくなら、勝って成り上がっていく奴の尻尾にしがみついて人生変えてこい!!」
彼女は高々と拳を突き上げた。
「目指せイッカクセンキン!不敗の英雄とともに、勝って勝って勝ち上がって、栄光と報奨と市民権をぶんどって来い。勝てば英雄、負けても英霊だ。どうせ一度は腐れ死にしかけたお前らだ。男なら人生ここで一発逆転してみせやがれ!!」
男達の野太い叫びが轟いた。
戦働きで成り上がってやると息巻く小汚い男達を積み込んで、船は西の戦場に向かった。
甲板で海を見ながら、補助軍の指揮官を引き受けた男は、出発前夜のことをなんとなく思い出した。
その夜、彼は夜が更けてから彼女の執務室を訪ねた。
案の定、明かりがついていて、彼女は机に向かっていた。
「どうしたの?なにか不備がありました?」
「ああ……俺の報酬のことだ。一部、前払いが欲しい」
彼女は申し訳無さそうな顔をした。
「ごめんなさい。今は財政に全然余裕がないの。明日の船に載せる分もあれで精一杯なのよ。もう少しして多少の余裕ができたら、あなたへの報奨金を最優先で工面するわ。だから……」
男は大股に近づくと、ペンを持ったままの彼女の手を取った。
「金が欲しい訳では無い」
彼は彼女の手からペンを取り上げた。
「出かける前に、少しばかりご褒美を貰いに来ただけだ」
ギクリと身を引きかけた女の手を掴み、男はニヤリと笑った。彼女の手に口を寄せ、その汚れた指先を一度、軽く舐めてから、そっと咥える。
「あ……あなたがそんなに気に入っているとは、思っていなかったわ」
赤面して小さく震える彼女を引き寄せて「喰わせろ」とささやくと、彼女は用意をするから少し待って欲しいと答えた。
「いや~、それにしてもとんでもない女だったよなぁ」
下卑た男達の笑い声に、海を見つめていた男は振り返った。
甲板で野盗顔の兵士が数名、集まってバカ話をしている。
「流石は大将軍の娘だよなぁ。肝の据わり方が違げーわな」
「あれだろ?これから行く軍の軍団長があの女の婿なんだろ」
「そうそう。戦勝の報奨で娘を貰ったものの、顔も見ないで戦から戦で、とうとう一度も会いもしないまま西に遠征に出ちまったって話だぜ」
「へー、勿体ねぇなぁ。若くていい女だったじゃねぇか」
「案外あれじゃねぇか?あの奥方の尻に敷かれるのが怖くて、逃げ回ってんじゃねえか?」
「ハッハッハ!ありそうな話だ」
俺ならあの女が女房ならどうするこうすると、品のない話をし始めた男達を、まとめてぶん殴ってノシてから、男はため息をついた。
「(アレがお前たちのような三下にどうこうできるような女か)」
あの夜、少しソワソワした気分で待っていた彼の前にトンと置かれたのは、小さな壺だった。
片手に収まる程の小壺には”ご褒美”と書かれた札が紐で下げられていて、中には蜂蜜が入っていた。
「………………これは?」
「私の取っておきだけど、そんなに気に入ったのなら仕方がないから分けてあげるわ」
「………………すまん」
戦場の猛将、南の黒龍と呼ばれた男は、蜂蜜の小壺を持って、すごすごと小娘の部屋を出た。
西の戦場で、彼は援軍の将として”青い鷹”にまみえた。
彼を警戒して反発する部下を制して、北の英雄は元敵軍の将が差し出した書簡を受け取った。
「必要なものはこちらで用意しよう。隊はひとまずそのままシャージャバル公が取り纏めてくれ。直属の独立部隊として扱う。名称に希望は?」
「では、イッカク隊としてくれ。出掛けにそう呼ばれたからな。俺のことはゴドランと」
報告も自己紹介もこんなものでいいだろうと、彼は思った。
この若造に、テメェの女房がどれぐらいいい女かを、わざわざ教えてやることもあるまい。
こうして南の黒龍は、北の青い鷹の軍で、ともに戦うことになった。
出会ったときには人の妻。
残念ながら赤い糸が繋がっていません。
静かな奥様の印象をひっくり返すような話ですが、まぁ、こういう人です。
本編の感想返しで書いたこぼれ話を一部再掲しておきます。
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イッカク隊のいわれは実は"一攫千金"。
ヒロインが激励の言葉の中で、うっかり原語で発音してしまったのを、ゴドランが半分覚えていたもの。ゴドランにとっては未知の単語で、この世界の一本角との発音の一致はない。(隊員全員"イッカク"ってなに?と思っている)
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やっと本来のここの用途が!