目と目で通じ合う
ありがたいことに、歳を取ると思春期の胸の痛みは摩耗する。
アストリアス領の女領主はまだ30前ではあったが、政治と経済の圧倒的指導者としてのこの10年は、普通の若い女性らしく恋に悩む叙情性を、彼女から根こそぎ奪っていた。そして、叙情性の足りない人間に延々と悲劇のヒロインごっこはできない。
オルウェイの発展のためにバカみたいに積み上がった仕事をこなすにはナイーブさなんて馬に食わせた方がよかったし、激務を乗り越えれば関係者一同と笑い合えた。経済的躍進はゆとりを生み、諸々の活動の成果物は生活を豊かにした。
なんだかんだで今日のご飯がおいしいと、人間そうそう不幸な顔はしていられない。
精一杯背伸びして気を張って抱いた決意は、歳月で生活に埋もれた。平和な日常において、この世の終わりに立ち向かうような悲壮さは持続しない。適度に小さな達成の喜びや休息がある暮らしは人をそこそこ幸せにするからだ。
すっかり蓋をして完了済みの分類に放り込んだ想いは、ふとした拍子に痛むことはあっても、慣れればそれも人生の一部になる。
だから彼女は、自分はこのまま生涯、色恋とは無縁なまま趣味に生きるのだろうなと思っていた。
彼が本当の意味で自分の元に帰ってきたその日までは。
§§§
「なにか不都合がございましたか」
「これは夜分に失礼しました。騒ぎ立ててしまい申し訳ありません」
明かり持ちの従者を連れて回廊をやってきたアストリアス領の女領主に、ゴドランは丁寧に一礼し無作法を詫びた。
「育ちの悪い野良犬が紛れ込んでおりましたので、放り出そうとしていたところです」
「おい」
真顔で野良犬呼ばわりされた英雄は、憮然とした顔でゴドランを肘で小突いた。女領主はやや空々しく困ったようなポーズを取った。
「それはうちの警備の者の不手際ですわね。ご迷惑をおかけしました」
「いえ、自分は貴女の専属特別顧問ですので、このくらいは」
なんだそれは! と、ぎょっとしたエリオスからの視線をゴドランは涼しい顔で無視した。
「頼もしいですわ。でも、そちらは当家の身内の者ですので、どうぞご心配なく」
「身内といいましても、つけあがらせていい身分の相手でもございますまい。お優しいご当主殿の情に甘えて無法を成すような狼藉者は私がきちんと躾けておきましょう」
「おい」
「ゴドラン様、大変ありがたいお話でございます。アストリアス家臣団一同を代表してこのイリューシオからも是非ともお願いいたしたく」
「承知した」
「イリューシオ、専属特別顧問というのはそういうことを相談する役職ではないのよ」
三人はちらりとエリオスの様子を見た。無敗の英雄は無言のまま、憮然、困惑を通り越して、少し途方に暮れたようないささか情けない顔をしていた。
これ以上は悪ふざけが過ぎる。
意見が一致した一同は、何事もなかったかのように社交辞令の定型文のやりとりに戻った。
「なんにしても今夜はもう遅うございます。お部屋でお休みくださいませ。もしまだ男同士積もる話がお有りでしたら、談話向きの客間も用意がございますが」
「お気遣いなく。コヤツとは北辺からこちらずっと二人旅でしたので今さら積もる話などありません」
「そうでございましたか」
女主人は、ゴドランぐらいにしかわからない程度にわずかにためらってから、彼らの立場上、政治的に微妙な話題に踏み込んだ。
「そういえば、北辺でお二人になられた経緯もまだお伺いしておりませんでしたわね」
「それは……」
「日を改めてお話いたしましょう。語れば長くなりますし、このようなところで立ち話で済ますことでもないですから」
「……そうですわね」
ゴドランはすぐに引いた女主人の様子をあらためて観察した。
髪はほつれもなく結われたまま。衣服は薄物だが、留帯や装身具は就寝向きではない品で乱れはない。上から羽織っている織物も非常に装飾性が高い新しいものだ。
おそらく彼女は休んでいたところを起こされて慌てて駆けつけたのではなく、夫が帰ってきたら話をするつもりで起きていて……いつもより少々めかし込んでさえいるのだろう。
なるほど。軍を抜けて今まで消息を絶っていた理由などという、背任罪だの脱走罪だのに直結する話題は、気になってもすぐには持ち出したくはないのだろう。そのくらいのことはすぐに分かった。
「(このバカにそれがわかるかどうかは、しれたものではないがな)」
女が自分のところに来る時に着飾っている意味どころか、着飾っているかどうかの判断すら覚束ない男だ。
目も勘も頭もいいくせに、ことそういう事柄については気が回らない野暮天に、これまでもさんざん苛つかされてきたゴドランは、あきらめ気味に対応策を決めた。
「というか、貴様。未だにちゃんと事情を話しておらんのか。一体、昨日から1日何をしておった。さては浮かれ上がってのぼせておるな」
「はっ!? いや……そんなことは」
「(バカ、さっき事情は話しただろう。彼女と話はしたが、話題がそこまでたどり着かなかっただけだ)」と、エリオスはゴドランを肘で小突いて、視線と気配で言い訳を並べ立てた。ゴドランはエリオスのサンダルの小指部分を、遠慮なく踏んづけた。
目の前の男達の一瞬の攻防に気づかなかったのか、見て見ぬふりをしたのかは定かでなかったが、女主人はひどく気遣わしげにおずおずと尋ねた。
「あの……浮かれ上がってとおっしゃいましたのは、それほど帰還にご苦労がお有りだったのでしょうか?」
「そりゃもう、このバカ者のせいで色々としなくて良い苦労はさせられましたが、大方は些末事です。お気遣いいただくほどのことではありません。ただ……」
ゴドランは一歩進み出て、女主人の顔を見下ろすように覗き込んだ。
不安と僅かな期待に揺れる黒い眼。
「(この目だな)」
特に目立った特徴のない彼女の、品が良く大人しい顔立ちの中で、この黒い眼の輝きが全ての印象を書き換えて、人を惹きつける。
目立って大きいわけでも、形が目を引くわけでもない。ただ、このほっそりした身のうちに秘められた途方もない情熱が、眼から溢れ出て人の心を焼くのだ。
「(バカな男だ)」
ゴドランは社交的な微笑みを浮かべて、彼女に手を差し伸べた。
「帰還を決めた事情ぐらいは早めにお話しておいた良いでしょう。いかがですか。私にご用意いただいた部屋でよろしければ、そちらでお話しましょう」
「待て」
女主人の手を取る寸前で、ゴドランの腕はがしっと後ろから掴まれた。
彼は一瞬目を閉じて片眉を器用にはね上げてから、なにくわぬ顔で半身だけ振り返って背後の男を肩越しに見た。
「なんだ」
そこにあったのは、あの島で帰ると告げたときと同じ、焦燥と独占欲に駆られた男の目だった。
宵闇でなお燃える青。
……バカモノめ。
腕を掴む指の力が強すぎて、ゴドランは顔をしかめた。
「それは俺から話す」
「お前では要領を得ん。どうせまたつまらぬ意地でグダグダと要らぬ隠し事をして言葉足らずになって、不要な誤解で問題を起こすのだろう」
苦労してきた男の言は重みが違った。
「領主殿、この男このとおり見た目は良いのですが、とんだバカモノでして。戦だ交渉だと仕事をさせればそれなりにこなせるのですが、こと自分の内々の事情や心情を伝えることとなるとまるっきり要領の悪いデクノボウと化すのですよ」
ゴドランは、煩わしそうにエリオスの手を振りほどいて、鼻で笑ってみせた。それから、彼を背で押しのけるように身体を割り込ませて、黒髪の女主人に顔を寄せた。
「保身が過ぎて殻の開け方を忘れた貝みたいなもんです。マヌケな話でしょう」
ゴドランは、目を丸くしている彼女のすぐ間近で「貴女と同じです」と口の動きだけで告げた。
彼女の目にハッと理解の色が差し、すぐにゴドランの後ろに逸れた。ゴドランの持つ手燭の明かりは小さくて、彼女が見ている相手の姿を彼女の瞳に映すことはなかったが、そんなものがなくとも彼女が誰を見つめてそんな顔をしているのかは自明だった。
後ろからぐいっと肩を引かれ、ゴドランは身をひねるように起こしながらも「ですから」と言葉を続けた。
彼はうら若き黒髪の夫人に明かりを渡した。
「どうか辛抱強く容赦なく徹底的になりふり構わず聞き出してやってください。一体何を考えてはるばる帰ってくる気になったのか」
彼女は己の夫である男を見つめたまま、ゴドランから小さな灯火を受け取り、促されるままに一歩前に出てエリオスを見上げた。
ゴドランはエリオスの手の力が緩んだところでするりと抜け出し彼女と入れ替わるようにして従者のいる側に下がった。そのまま無言で従者に、自分を部屋まで案内するよう指示を出す。この従者がくっついていては話は弾みそうにない。
振り返るとエリオスはもうこちらなど全然見ていなかった。
俺はテメェのそういう態度には物凄く不平と不満があるぞ、このバカ野郎めが地獄に落ちろ!
という強いメッセージを、表情とハンドサインで端的かつ明確に投げつけると、ゴドランは静かにその場を立ち去った。
貧乏くじが似合う男、ゴドラン。
言語外の意思疎通が激しい回です。
目は口ほどにものを言い……口で言えないことも言い。
奥様はオルウェイ城塞と家臣団という強烈な殻に守られた黒真珠。身近な者たちは全員、彼女を不在のエリオスのことで不安にさせるようなことは極力避けてきた。だから彼女の恋心というのは深い深いところに沈んで何層もの防御でコーティングされています。
さてエリオスのかっこいいところも書かないと……




