宵の口
一周年記念に、長い夜の始まりを、ほんのちょっとだけお送りします。(「晩餐1〜3」の後です)
藍色の夜に、橙色の火の粉がはぜてチラチラと登っている。篝火の入った鉄籠は闇に黒く沈んでいて、中庭の小さな池の水面には火だけが映っていた。
「こちらへ」
小鳥の形の灯燭を手にした女主人に先導されて、二人の旅人……帰ってきたこの領の元領主とその友は、回廊を通って別棟に案内された。回廊の突き当りから横に伸びた階段には、所々、小さな灯火が置かれている。
「段差がございます」
この客は、月のない夜に切り立った岩山の崖でも登れるたぐいの奴らだということは、主人も重々承知しているだろうに、当たり前の習慣のように気遣いの言葉が出る。足腰の弱い老人の客を迎えることが多いのかと、ゴドランは考えたが、すぐにそうではないと気づいた。
彼の隣で、物珍しそうにソワソワとあたりを見回していたエリオスが、言われて慌てて足元を確認していたからだ。
「(浮足立ちおって、みっともない)」
ゴドランは、エリオスがいつものふてぶてしいほどの落ち着きっぷりをすっかり無くして、挙動不審になっているのに呆れ果てた。
彼の立場で考えてみれば、たしかに多少の緊張はするかもしれないが、それにしても敵地や未踏の地に赴いているわけでなし、自国のしかも妻のいる自宅に帰ってきて何をやっているのか……と、そこまで考えて、その先に思い至ったゴドランは、階段の最後の段を踏み外しかけた。
これはマズイ。
特大の危機を告げる悪寒で背筋が寒くなった。
「申し訳ないのですけれど、今夜はこちらの客間でお休みいただいてもよろしいですか?」
本来なら主寝室に迎えるべきお方を……と消え入りそうな小さな声で言われて、隣でエリオスが息を呑む気配がした。緊急事態だ。
「いえ、お気遣いなく」
ゴドランは内心の焦りを一欠片も表に出さずに、穏やかに応えた。
「我々は道端でゴロ寝してきた浮浪者同然の身なので、えり好みを言える立場ではありませんよ。そもそもここにくる前に寄った宿というのも……おお!そうだ」
「どうなさいました?」
「大変申し訳ないのですが、私は今夜はこちらに泊まることができません。ここにくる前に、ハズレ市で今夜の宿を取ってしまったんですよ。いかねば宿の主人に義理が立たない」
にこやかに何か変なことを言い出したゴドランを、エリオスは二度見した。ハズレ市の中の簡易宿で二言三言話しただけの胡散臭い初対面の主人相手に立てる義理とはなんなのか。
青い鷹の目が信じられないものを見る目でこちらを見ているのを完全に無視しきって、ゴドランは女主人に丁寧に詫びを告げた。
「義理堅いことですのね、ゴドラン様。でも、よろしければうちからその宿に使いを出しますよ」
「いえ、それには及びません」
黒龍と呼ばれた男は、黒い目を細めて少し声を落とした。
「浮浪者同然の旅の他所者が領主の館で賓客としてもてなされたなんていう噂が広まると面倒です。私は一度宿に戻って、普通の旅人として過ごしてまいります」
「それならば俺も……」
「バカ。お前は小ざっぱりしすぎた」
風呂と散髪ですっかり身綺麗になっていたエリオスはとっさに言い返せなかった。この二人の間では、とっさに反論できないというのはすなわち敗北である。
「その顔で戻って一泊して、のちのちあの宿に"英雄殿お立ち寄りの宿"の看板でもかけさせる気か」
「むう……それをいうなら貴様も……」
「俺はお前よりは目立たん。このあたりは王国人も多いから似たようなヒゲの男はいくらでもいる」
「ゴドラン様は飛び抜けて良い男ですから、身元を隠すつもりなら、余程気を使わないとそうそう雑踏の一人に紛れるなんてできませんよ」
「若い奥方様にそのように持ち上げられると、世辞でも悪い気はしませんな。心しましょう」
小国の王子として生まれた大将軍は、どこの城でも宮殿でも見劣りしない堂々たる様子で優雅に貴婦人への礼をして、颯爽と……可及的速やかに……その場を立ち去った。
「ゴドラン様はユーモアもおありね」
楽しそうに、ゴドランの撤退を見送った女主人は、微笑みを浮かべたままエリオスの方に向き直って、「では」と言った。
「寝室にご案内いたしますわ」
手燭の鳥の嘴の先で、炎がゆらりと揺れた。
「あんな場に同席していられるかーっ!」
by ゴドラン




