その日君は名もない男を英雄の名で呼んだ
「白い結婚、黒い悪妻 〜贅沢は素敵だ」
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の番外短編です。
先に本編をお読みください。
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二人の出会いの話です。
その日、軍団の上役にあたる正規兵から、追加の報告書を届ける仕事を押し付けられて、補助兵の青年は都の中央にある軍団長の邸宅を訪ねた。
門は通されたものの、広すぎて勝手が分からず迷い込んだ中庭は、艷やかな緑の葉が程よい影を作っていた。
まだひどく若く、こういうことに慣れていない青年はどちらに行けばよいか分からず、途方に暮れて、木陰で立ち止まった。
その少女は、中庭を囲む白い石造りの邸宅の奥から、突然、明るい日差しの下に駆け出してきた。
「ひょっとして、あなたがエリオス?」
美しい黒髪の少女は、少年のような白いチュニックの裾を翻しながら駆け寄ってくると、ほんのりと頬を上気させ、キラキラした目で青年を見上げた。
青年はどう答えていいか分からずドギマギした挙げ句、無邪気に小首をかしげて彼の返事を待っている少女に、どうにかこうにか「いや……違う」と答えた。
純粋な憧れと崇拝のこもった真っ直ぐな視線を受け止めきれなくて、思わず視線を落とした先には、チュニックの裾から覗く瑞々しい細い脚があって、日頃、むさ苦しい男ばかりの軍で生活している青年を、さらに動揺させた。
「ごめん……その人を待っていたのか」
「あ、ううん。違うの。ごめんなさい。私の勘違い!」
彼女は2歩ほど下がると、パタパタと両手を顔の前で振った。
青年は少女が自分を間近で見た結果、距離を取ったように思われて、胸がずくりと痛んだ。青年の目の色はこの国ではあまり見かけない色合いだ。間近で顔を見て市民権のない異国の蛮人と警戒されたのかもしれない。そういうことはこれまでにもよくあった。
「似てたのか?」
「いいえ。私が勝手にそうかもって思っただけ……だって"エリオス"っているかどうかわからない人だから」
多少、皮肉な気持ちで尋ねた問いに返ってきたのは意外な応えだった。不思議に思ってさらに尋ねて見ると、少女はその人物は実在しないかもしれないなどと突飛なことを言い出した。
「えーっと、その……"エリオス"は、私だけの英雄なの!すっごく強くて、賢くて、どんなピンチでも絶対に負けないの」
流石に夢見がちすぎて突拍子もないことを言っていると自分でも思ったのか、少女の顔はみるみる真っ赤になった。
青年は、そんな彼女を見つめたまま立ち尽くしてしまった。
「や、あの……忘れて!変なこと言いました。忘れてくださいっ!!」
来たときと同じように、あっという間に駆け去った少女を、呆然と見送った青年は、その後、その少女は軍団長が溺愛している秘蔵の末娘だと知った。
報告書の提出を補助兵などに任せたことで、その時の上役は叱責され、以後、青年の上役は別の兵になった。新しい上役は年配の親切な男で、青年に色々と便宜をはかってくれた。
補助兵ではあるもののそれなりに筋がよく、真面目な青年は、部下として便利だったからだろう。この上役は教師まで手配して、彼に基礎教育を施した。
このとき文字の読み書きや馬の扱い方の基礎をきちんと教えてもらえたことは、後年、大変に役に立った。
「改名……ですか?」
「そうだ。なんでもいいから、この国の者らしい名前を名乗れ。今呼ばれている"鷹"というのは渾名だろうが。それでは、小隊長に推挙もできん」
この国では、出世時に功績を讃えて改名することはよくある。親すら覚えていない素性の不確かな青年にとって、今の名は、単に視力が良くて物見で役に立っていたからつけられた呼び名だったので、改名に躊躇はなかった。出世できれば市民権をもらえるまでの年数も短くなるので彼にとってはありがたい話だったのだ。
どんな名にするかと問われて、彼は「エリオス」と答えた。