11、12「姫乃由莉園との出逢い」
11
先日、有紀暮を家まで送り届けたときに彼女から聞いた姫乃家の家庭事情。由莉園は家の話を一切しなかったので初めて知ったのだが、団地住まいの母子家庭で、母親は夜の仕事をしているのだと云う。
鷹峰たちが攫いに来たときも有紀暮は家にひとりで、そして玄関を開けてしまったのだろう。錠は開いたままとなっていたので、俺も勝手に這入ることができた。訊いてもいないのに「あそこが私の部屋だ」と外から指差していたのを見ておいて良かった。
由莉園も住んでいた部屋……狭くて、物が多くて、なんと云うか平凡だ。彼女にもこうして育った家があるんだなという、間抜けな感想を抱かされた。
居間の床に有紀暮を寝かせて待つと、日付が変わったころに目を覚ました。
「正念坂さん……? あれ……え! 私の家じゃないか! ……待ってくれ。私は誘拐されたんだよ。正念坂さんの親友だという人に!」
「あんなの親友じゃねえよ」
それから簡単に経緯を説明した。
彼女の方は、奴らの拠点に連れて行かれたまでは憶えているが、車内で強引に飲まされた薬のせいか、そこで眠ってしまったらしい。ただの睡眠導入剤だったのだろうか。少なくとも今は意識の混濁など、危なそうな様子はない。
「それよりも貴方だよ、正念坂さん。手当てが必要なのは!」
俺の顔や手が傷だらけなせいで、彼女はひどく慌てた。洗面所で一度洗い流したものの、また血が出てきたようだ。別に平気だが見栄えが良いとは云えないので、もう一度洗ってから彼女が出してくれた絆創膏を適当に貼った。
「本当にありがとう。正念坂さんは命の恩人だ。それに、申し訳ない。私の警戒心と云うか、注意が足りなかった……」
「悪いのは俺の方だよ。あいつらと俺との問題にきみを巻き込んだ」
「そうなのかな? しかし、いや……」
彼女は押し黙ってしまった。膝を抱え、視線を床に落として。感情も思考もまだ混乱しているのだろう。攫われたときの恐怖が蘇ったのかも知れない。
俺はその横顔を観察する。髪型、眼鏡、表情、それだけの違いはあるけれど、由莉園によく似た造形だ。
特に深い考えもなく、手の甲で輪郭をなぞるようにその頬を撫でた。
「ん? なんだい?」
「『だい』とか『かい』って訊き方、実際にしてるやつ初めて見た」
「ああ……こういう喋り方なんだよ。どうして顔を触る?」
「別に。元気出してほしくて」
すぐ隣まで移動するのと同時に、肩を抱いて引き寄せた。彼女は俺の腕の中で「正念坂さん?」と名前を呼び、戸惑っている。本当に不慣れのようだ。眠っている間に俺にショーツを履かされたと知ったら、どんな反応をするだろう?
まあそれはやめておくとして、「どうしたの」と訊いてみる。「いや……なんでもない」と云って、ずれてもいない眼鏡の位置を指でなおす有紀暮。顔を近づけて髪の匂いを嗅いでみると、びくりと震える。俺は「大丈夫?」と重ねて訊く。
「や――やっぱり駄目!」
俺から逃れるように身体をよじり、彼女は赤くなった顔で俺を見た。
「お、乙女っぽいのはNGなんだ。すまないが……」
「なにか勘違いしてるぞ、きみ」
苦笑してから立ち上がる。とりあえず平気そうなので、俺は出て行くことにした。有紀暮はこんな時間だし泊まったらどうだと云ったが、朝になって母親が帰ってきたとき、知らない男が寝ていたら面倒なことになるだろう。
玄関先で俺を見送る際、彼女はまた「正念坂さん、あの……本当にありがとうね」と云った。なにがそんなに有難いのか分からないが。
「ちゃんと戸締りしろよ。また連絡する」
「うん!」
しかし原付に跨って道路に出たくらいで、もう連絡することはないんじゃないかと気が付いた。有紀暮には話さなかったが、ポエマーbot事件は終わりだ。まだ続くかも知れないが、俺達にとっては終わりだ。
由莉園の詩は、鷹峰が俺をおびき寄せるために使ったギミックに過ぎない。この事件を追いかけて、失踪した由莉園に辿り着くことはない。麻雀牌の刺青を入れた人間で国士無双だとか、あんなくだらない話に関わっていられるか。
夜風を切りながら、俺の思考は醒めていく。
先ほど、有紀暮が俺を拒んでくれて良かった。俺は妙な気分になりかけていた。
考えてみれば、どうして俺は彼女が攫われたことに憤ったのだろう。あれほど積極的に動いたのだろう。彼女が危険な目に遭うということが、確かに俺を冷静でなくさせた。
由莉園の妹だから、なんだと云うんだ?
二人は全然違う。それなのに、俺は有紀暮に由莉園を重ね始めていたのだろうか?
姫乃由莉園。あの異様に現実離れした少女に、俺の心はまだ囚われている。
12
美濃和高校に入学した四月のことだ。
同じクラスの鷹峰と話すようになってすぐ、休み時間に彼が別のクラスから中学の連れだと云ってよく分からない男を連れてきた。
「こいつの顎。顎、触ってみ?」
鷹峰がそう云うので男の顎に手を伸ばすと、男が俺の手を素早くぺろんと舐めた。どうやらそれが男の挨拶というか持ちネタで、鷹峰はそれを見て笑うというお決まりの流れがあって、俺も乗せられたということらしかったが、俺は反射的にもう片方の手で男にアッパーを食らわせたので、男は舌が半分ほど千切れて血だらけになった。
男は病院に行った。鷹峰は最初だけ驚き、あとは爆笑していた。「正念坂、お前すげえな!」とかなんとか。「すげえな!」の意味は分からない。
その日の放課後、遊びに行こうという鷹峰の誘いを断って、俺はそそくさと帰って行った女子を追った。俺が舌を噛ませた男の血が隣に座っていたその女子に掛かって、彼女は今日一日体操着で過ごしていた。別に俺は悪くない気もするが、一言謝っておこうという気持ちがあった。
帰宅部らしいその女子に、正門を出たところで追いついた。
謝ると「なんのこと?」なんてすまし顔で訊かれて、なんだこいつ気にしていないポーズでも取っているのかと思った。
「血が掛かっただろ」
「血が掛かった――それは正しいけれど、普通、それが含有する意味に対する意識は抜け落ちていると思わない?」
「はあ?」
「血液には一〇〇㎤あたり四八㎎の鉄が含まれてる。血が掛かったという言葉には、鉄が掛かったという意味が含まれてるの。塩素やナトリウムでもいいけれど」
「……なに云ってんの?」
「私にはなにが含まれてると思う? きみは私に話し掛けた。ひとつの正解を云えば、きみは愛に話し掛けたの。運命や呪いでもいいけれどね」
だいぶ面食らった。ただの大人しい子だと思っていた。俺が謝っても俯いて「いえ、大丈夫です……気にしないでください……」とか蚊の鳴くような声で云って足早に去っていくだろうと見込んでいた。それが実際は、こんな調子っぱずれな奴だったとは。
よく見ると、意外に整った顔立ちをしている。表情が全然変わらない。髪が短い。手足はすらりと長い。首も長い。血が通っているのか疑わしいほどに肌が白い。
「罪の意識を感じていて拭いたいなら、きみ、今から私に付き合える?」
「それは、どこに行くか……いや、なにするのか次第だが」
「どこにも行かない。なにもしない。きみ、なんて名前?」
「憶えてないのか」
「興味がなかったからね。今までは」
「正念坂だよ。俺もきみの名前は憶えてないが」
「そう。じゃあついて来て」
「おい、きみの名前を云う流れだろ」
「へえ。不思議なことを云うんだね、正念坂くん」
彼女ははじめて微笑みを浮かべた。本当に可笑しそうに。
「私は、姫乃由莉園。きみの名前とよく似ているね」
「……どこが?」
当然、俺はこのときに彼女に惚れただとか、良いなと思っただとか、そんなことは一切ない。自分は独特な感性を持っているのだとアピールして得意がっている痛い奴だと思ったし、相手にしていられないと思った。
しかしこの日から、俺はたびたび彼女と二人で行動するようになる。普段は鷹峰らと遊ぶが、それとは別に彼女との時間ができる。大抵は放課後に彼女から誘ってきて、次第に俺から誘うことも増える。
二人でいて、特になにかをやっていたわけじゃない。学校やその周辺をぶらぶらと歩いたり、時には自転車や電車、あるいは俺が適当に盗んできたバイクで百条湖とか清逸夜見川沿いまで出掛けたが、其処でもやっぱりぶらぶらと歩いていた。そうしながら、彼女のよく分からない話を聞いていた。
俺は妙にその時間を気に入ってしまった。別に面白くも楽しくもないのだが、他にはない心地良さがあった。彼女の話は大半が意味不明だったけれど、たまに分かることもあって、そういうときには自分でも意外なほど感心したり納得したりした。
それまで俺はアホとしかつるんでいなかったから、新鮮でもあったのだろう。彼女と過ごす時間は意味があるそれに思えた。段々と俺も自分の考えとかを口にするようになり、それで話が合うと、はじめて他人とまともな会話をしたような気持ちになった。
彼女も俺も、あまりお喋りな方ではなかったと思う。だが不思議なことに、二人でいると話すことは尽きなかった。
そうやって一ヶ月ほどが過ぎ、あれは清逸夜見川沿いの小路を歩いているときだ。
「正念坂くんは、恋ってなんだと思う?」
手を後ろで組み先を歩いていた由莉園が、振り返ってそう訊ねた。
「また随分、小っ恥ずかしい話を振ってきたな……」
「恥ずかしい。私も同意見だよ。なら話は早いね」
手を口元にあてて、からかうように微笑む由莉園。
「正念坂くん、私と恋人になろう」
「は? なんで?」
「人間を人間たらしめるのは、恥ずかしさを知ることだよ。服を着て、知恵を付けて、本音を隠して、上品に振舞って、こんなふうに挙げたらキリがないけれど。文化や社会の基盤となっているよね?」
「つまり……なんだ? 全然分からねえ」
「だから私達も、恥ずかしいことをするの。体験しないと、知ることにはならないからね。恥ずかしいことをたくさん知った後には、二人で人間になろう?」
彼女の突拍子のなさには慣れてきたつもりでいたが、これはまたレベルが違った。
俺が答えないでいると、彼女は間近まで近づいてきた。俺は一歩退いたが、すると彼女は一歩詰めて背伸びして、鼻と鼻が触れそうになった。
「嫌なの? 正念坂くんは私のことが嫌い?」
彼女にはこういう強引なところがあった。
これが他の奴なら俺だって相手にしないのだが、彼女にこうされると弱かった。
「……分かった。なにをするのか知らないが、付き合うよ」
「うん。改めてよろしくね、正念坂くん」
そして俺と由莉園の、恋人としての交際が始まった。