10「アスクレピオスの杖と死ね」
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鷹峰仁太郎は、幼馴染の絢のことを気持ち悪いほど大事にしている。
俺は鷹峰と高校でよくつるんでいて、絢と知り合ったのも彼を通してだった。ただし、問題を起こして同時に退学処分を食らって以来、ろくに会っていない。
退学後の鷹峰は半グレ集団を率いて、中途半端な犯罪を繰り返していると云う。いかにも彼がやりそうなことだが、俺はそんな下らないことに関わる気はないのだ。
だから以前に絢が語った話を記憶に留めておいたのは奇蹟だった。どうでもよすぎて聞き流すか、翌日に忘れていて全然おかしくないのに。
俺は鷹峰たちの拠点を知っている。百条湖畔にある、〈明日暮れぴおす〉という看板だけを掲げてずっと休業しているバーだ。携帯で詳しい場所を調べて絢のマンションから原付を飛ばし、二十分ほどで到着した。
背後にある百条湖を隠すように立つ雑木林。その黒いシルエットに囲まれて、ぽつんと建っている一階建ての建物。建物自体の灯りは点いておらず、車道沿いの街灯が陰気に照らしているのみ。道路もたまに車が通るだけで、死んだみたいに静かだ。
しかし建物の中には人がいる。駐車場に車が三台駐車してある。建物から明かりが洩れていないのは、窓が塞がれているせいだろう。
表はシャッターが閉まっているので、裏口に回った。ドアノブをひねると、施錠されていて開かない。インターホンを押す。二十秒ほどして反応があった。
『ああー?』
「正念坂だ。鷹峰に云えば、入れたがると思うぞ」
それからまた三十秒は待たされて、中から扉が開いた。ガリガリに痩せた茶髪の男が顔を出して「久しぶりっすね」と云ってくるが、まったく見覚えがない。
「誰だよ」
「ハハ……韮澤っすよ」
名前を云われても知らねえよ。
俺は男を押しのけて中に這入る。常夜灯しか点いていない狭い厨房だ。適当な扉を開けて進むと、フロアに出た。
四方をコンビニにあるようなガラス張りの冷蔵庫が囲んでいて、それらが放つ蒼白い明かりが室内を照らしている。どこかのスピーカーから、洒落てるんだか分からない洋楽ポップスが流れている。
中央にはてんでバラバラの方を向いて複数のソファーが置いてあり、行儀悪く座る連中の中に見知った顔を見つけた。相手も俺に気付いて片手を上げた。
「〈明日暮れぴおす〉にようこそ。お前を待っていたよ、正念坂」
鷹峰だ。筋肉質な身体つきと、人を小馬鹿にしたようなニヤけ面。両サイドを刈り込んだ短い髪。インテリっぽいふちなし眼鏡を掛けているが、実際はアホに過ぎないことを俺はよく知っている。
「有紀暮はどこだ」
フロア内には同情したくなるくらいの三下連中しか見当たらない。
「別の部屋で寝てるぜ。まあ焦るなよ。座って話をしよう。俺は話が通じる男だろ?」
「どうだろうな。IQが二十以上離れると会話が成り立たないという話がある」
「はっはっは! やっぱり面白いこと云うなあ?」
云っていない。早くも会話が成り立っていない。
「好きな飲み物を選んで座れよ。みんな輸入品で、当たりはずれが――」
「飲まねえよ。飲むわけねえだろ」
俺は鷹峰の斜向かいのソファーまで進み、その背もたれに腰掛けて鷹峰を見下ろした。
ふんぞり返って俺を見上げる鷹峰は「なに怒ってんだ?」とニヤついている。
「なあ正念坂、また俺と組まねえか? 俺は今の暮らしを気に入っているが、お前がいたらもっと面白いだろうなあとよく考えるんだよ」
「断る。こんなカス共とつるんで面白いわけがねえ」
フロア内に十人前後いる鷹峰の取り巻きは、みな薄ら笑って俺を眺めている。どいつもこいつもヒヨッコで貫録のかの字もないくせに、随分と調子に乗っているものだ。
「そうか。しかし俺から見れば、カスはお前の方だぜ?」
鷹峰は肩を揺すった。
「今のお前はヒモじゃねえか。絢に働かせて、自分はろくに部屋から出ないんだろ? だらしねえ話だ。男の風上にもおけねえ」
「自分達は違うと思ってんのか?」
「俺達は稼いでるからな。やりたいことだけやって金にするのが俺達のやり方だ。誰にも頭を下げねえ。気に入らねえことがあったら元から潰す。それが表れてんだよ。相対してみて、明白に差があるだろ? お前の言葉はネットの書き込みみてえで軽いぜ」
取り巻きが低い声で笑う。ある者は手を叩く。
こりゃあ重症だ。この連中は任侠漫画的ファンタジーの世界にどっぷり浸かっちまってる。
「いいから有紀暮を出せ。クソな話は聞きたくない」
「本当にあんな女に入れ込んでんのか? 実際見てみて、俺なんか言葉を失ったぜ。昼休みとかひとりで弁当食ってるタイプだろ? ああいう女は」
「だから――」
「あっあー、いいぜいいぜ、分かってる」
広げた掌を掲げる鷹峰。なんだよそのしたり顔は。
「ポエマーbot事件だろ? お前があの女と調べてる。現場に姫乃由莉園の詩が残されてるんだもんなあ。放っておけないよなあ?」
「大蛸から聞き出したんだな」
「それもあるが、聞かなくたって知ってるぜ。――お前ら、後ろに並べ」
鷹峰が親指で背後を指すと、他の奴らが立ち上がって移動を始めた。
口々に「きたか」「きたな」「きたきた」「きたぜ」「きた」「きたぞ」「きたもんだ」「きたきたきた」などと呟き、妙にそわそわとしている。
「いやあ、お前も気に入ると思うぜ?」
「なにがだよ」
「面白いもん、見せてやる。全員揃ってなくて残念だが、まあ充分だろ」
蒼白い冷蔵庫を背に横一列で並んだ男達は総勢十一名。
服を脱いで上半身裸になると、それぞれ胸や腹や肩や背中に刺青が彫られている。
すべて麻雀牌の刺青だ。
「〈一萬〉〈九萬〉〈一索〉〈一筒〉〈九筒〉〈東〉〈南〉〈北〉〈北〉〈白〉〈中〉――俺達の仲間は他にも二人いて、〈九索〉と〈發〉の刺青が入っている。分かるか、正念坂」
鷹峰は大きく両手を広げ、高らかに云った。
「国士無双テンパイだ。〈西〉を引いたらアガリだよ」
どうだ参ったかと云わんばかりに。
全員が誇らしげに俺を見返している。
俺は呆気に取られるあまり、物も云えない。
「どうした? 反応が鈍いじゃねえか。国士無双、知らねえのか? 麻雀の役だよ。しかも役満だ。こいつらは俺の手牌なんだよ。さっき絢から電話がきてよ、聞いたぜ。有紀暮って女はこれを推理してたそうじゃねえか。お前も聞いたんだろ?」
「……理解できねえ」
「おいおい、大丈夫かよ? いいか? 三日にひとり、俺らの仲間に入れてほしいって云って来るんだよ。麻雀牌の刺青を彫られた奴がな。そこにいる〈九筒〉の奴は昨日来た。だから俺は前からいた〈四筒〉の奴を殺した。国士無双を目指してるんだからな。俺は南家だ。西と東にも俺達みたいなチームがいて、同じことをしてる。河に出てるのが三、四枚じゃあ手牌は読めねえが、この巡目で張ってるのは俺だけだろうな」
途中から聞いていなかった。
「ポエマーbotはお前なのかよ」
「そう云ってるじゃねえか。正確にはプレイヤーのひとりだな」
「なんで由莉園の詩を使ってる。関係ねえだろ」
「麻雀には関係ねえな。だが、それもさっき云ったぜ? 俺はお前とまた組みたい。そしてお前は、姫乃由莉園が絡んでいるとなったら無視できねえ。絢が俺を頼ってくるのも想定のうちだったんだよ。全部、お前を此処に来させるための段取りってわけだ」
べちゃべちゃと喋った挙句に、鷹峰は立ち上がる。
一八〇センチ越えの巨体で俺を見下ろし、目的を述べる。
「〈明日暮れぴおす〉に入れ、正念坂。そしたら姫乃有紀暮も解放してやる」
俺は心の底から白けてしまった。
洋楽ポップスの陽気なメロディが、ひどく虚ろな響きに感じられる。
「お前……そんなに、頭がおかしくなっちまったのか」
「はっはっは! お前にそう云ってもらえるとは光栄だぜ!」
「クサかクスリか知らんが、もうどうしようもないんだろうな」
「正念坂、憶えてるか? コンビニに行ったときだよ。店員がおにぎりに貼ったテープが、切り取り線にかぶってたんだよな? これじゃあ上手く破れねえだろって云って、お前、店員をボコボコにしたじゃねえか。はっはっは! 普通、あそこまでするかあ?」
憶えていない。お前の妄想じゃないのか。
「迷うなよ、正念坂。もったいないぜ。お前ほどキレた男がくすぶってるなんて。俺は親友としてお膳立てしてやってるんだよ。お前が社会復帰する機会をな」
肩に手を置かれたが、俺は振り払って歩き出した。
ソファーを迂回し、馬鹿みたいな刺青をさらしてニタニタと笑い続けている連中のもとまで進む。左胸に〈中〉と彫ったドレッドヘアの男の前で足を止める。
不細工だなあと思いながら、そのツラを眺める。
「なんだよ?」
「なんでもねえ。気にするな」
俺は男が手に持っていた酒瓶を取り上げて、そいつの頭を思いきり殴った。割れた破片が飛び散った。おかげで鋭利になった瓶を今度はそいつの脳天に突き刺した。
隣の男が掴み掛かってきたので、腹を蹴って冷蔵庫まで吹っ飛ばした。
そこで周りの奴らに後ろから取り押さえられる。そして頭を掴まれると、そのまま冷蔵庫に突っ込まされる。ガラスが割れて、中の棚も崩れて、缶や瓶がひっくり返る。
「おい、やめろ馬鹿!」という鷹峰の声が聞こえる。
はあ? キレた男ってのはこういうことじゃねえのかよ?
右腕だけ拘束から抜けると、なおも俺を押さえている奴の左目に親指を突っ込む。根元まで。血がどぶどぶと溢れ出す。絶叫するそいつの頭をボウリングの玉みたいに持って、力任せに隣の奴の顔面にぶつける。二度、三度とぶつけると、完全に拘束が解ける。
情けをかける余地もないゴミ共。なにをしたって構うか。
奇声を発する奴がいるので見ると、ナイフを構えている。しかし俺に襲い掛かろうとする直前、その身体が真横に飛んでいった。鷹峰が突き飛ばしたのだ。
「やめろ! 全員、なにもするんじゃねえ! 堀田、聞こえてねえのか!」
真ん中に割って入り、大声で牽制する。それから俺と目が合うと、高速の右フックで俺の左頬を打ち抜いた。首が取れたと錯覚するほどの衝撃でぶっ倒れそうになったが、足を踏み出して堪える。
「お前もだ、正念坂。それ以上やったら、マジで殺すぞ」
「おお、殺せよ!」
鷹峰の頭に手を伸ばしたが、その手を掴まれて万力のような力で締め上げられる。だが俺にとって痛みはどうでもいい。
「どうした鷹峰――平和主義か? 全然、優等生じゃねえか」
「十五歳とかじゃねえんだぜ。暴力は手段だ。目的にはしないんだよ」
「ああ? 十人以上殺してなんで俺のことは殺せねえ? 早く殺してそこの湖に沈めたらいいだろボケ」
流れている洋楽が俺も知っている曲だと気付いた。ありきたりな四つ打ちだ。
「くそ面白くもねえ。なんだよ、まだ俺は仲間になれんのか? そっちの奴は明日から眼帯つけて俺と仲良くしてくれるのかよ? 心が広いんだな、お前ら。好きになってきたよ」
鷹峰は眉間に皺を寄せる。そこに横から「鷹峰さん! 殺しましょうよ!」と詰め寄る奴がいる。肩に〈一萬〉を彫った金髪の男だ。
「シメるぐらいじゃあ釣り合いませんよ!」
「伊井橋はこれ、失明だぞ!」
「痛えええええええ……くそおおおおお……」
「そのクソ野郎、バラそうぜ!」
「なめてんだよそいつ。俺達のことが分かってねえ」
「いいっすよねえ、鷹峰さん!」
「やってやろうぜえええええええ!」
随分と張り切っている様子だ。そういうことなら俺も続きをやろうと思ったが、しかし鷹峰がまた「正念坂!」と怒鳴る。なんだうるせえ。
「帰れ。もうお前のことは諦めた。昔のお前じゃねえんだな」
その言葉に周りの連中は不満を訴える。鷹峰は取り合わない。沈痛な面持ちで俺のことだけを見ている。
つくづく無駄なことをしたものだ。本当に無駄でしかない。
「有紀暮はどこにいるんだよ」
「厨房に這入って左の扉だ。連れて帰れ。――お前ら、なにもするな!」
鷹峰のどこにそんなカリスマ性やリーダーシップがあるのか知らないが、他の奴らは口ではぎゃあぎゃあ云いながらも、それ以上は俺に手を出さなかった。俺はフロアから厨房に戻り、云われたとおり左手にある扉を開けて中に這入った。
事務所らしき汚い部屋だ。制服を着た有紀暮が机の上で寝ている。両脚が大きく開いていて、そのスカートの中に顔を突っ込んでいるロン毛の男がいる。部屋にはその二人だけだ。
俺は男の髪を掴んで、その顔面を机の角に何度も叩きつけた。鼻骨が折れて前歯が砕けて皮膚がボロボロになって二度と人前に出られないようにした。
有紀暮は揺すっても目を覚まさない。仕方がないので、落ちていたショーツを履かせてやって抱きかかえる。床の上で伸びている男のベルトを剥ぎ取って持って行く。
建物の外に出て、原付の後ろに有紀暮を乗せ、さっきの男と自分のベルトを使って俺にしっかりと固定させてから、彼女の家へと向かった。




