靡かない婚約者3
今、私は死んでいるのも同然かもしれない。
目の前にルーカスがいる。ほんの少し前なら喜んでいたような状況かもしれないけれど、現実はまったく喜べない。
目の前のルーカスは無表情で軽く目を伏せている。たまにティーカップを持ち喉を潤している。何も喋らないけれど喉が渇くのだろうか。ただの暇潰しで飲んでいるのか、勝手に手が動いているのか、お茶を共に飲む時間だから義務的にお茶を飲んでいるのか。
そう、今、ルーカスとお茶をしている。
王都へと移ってきた私を待ち受けていたのは、デビューと婚約の準備だった。先程までお父様とお母様も一緒に話を進めていた。婚約したのだからとソファに何年振りかに隣同士に座らされ、テンションの高いお母様が、
「デビューの日の衣装はこれね!きっとマリアにとっても良く似合うわ!少し直したいから出来たら試着してね!」
「ルーカスからの婚約の贈り物として素敵なネックレスを頂いたから、デビュタント・ボールで着けましょうね!衣装にもぴったり似合うでしょ!?」
「髪型はどんなのが良いかしら!アップならネックレスが綺麗に映えそうね!ハーフアップならダンスの時に髪が流れて可愛いかしら!」
「…………!」
…………
…………
こんな感じで、ほとんど一人で喋っていた。それに「素敵ね。ありがとう、お母様」でマニュアルのように返した。
終いに、「後は婚約したお二人で!」と言って庭園のテーブルでルーカスとお茶をしなければならなくなったのだ。
私には断れる筈もなく、ルーカスが適当な理由をつけて帰ってくれることを期待したけれど、ルーカスも受け入れてしまったのだ。ルーカスも立場上断りにくいのだろう。
そんな訳で二人でお茶をしている訳だが、もうずっとお互いに無言だ。この空気が辛すぎて胃が痛くなってくる。そもそもこのお茶はいつになったら終わるのだろう。誰かが「そろそろ終わりにしましょう」とか言って乱入してくれないかしら。ルーカスも用事とか無いのかしら。……私には何も用事が無い。
ああ、胃が痛い。
キリキリキリキリ……
テーブルの真ん中に用意された美味しそうな、けれど全く手をつけていないクッキーが霞んで見えてきた。
美味しそうなんだけど、食べたら吐きそう。もはやお茶すら吐きそうで口に出来ない。
……おかしいな。
妃教育で散々辛い思いはしてきたのに、こんなことでこんな風になってしまうなんて……
「おい」
あ、今、話し掛けられた?
「……はい?」
霞んで見えていたクッキーから視線を上げると、ぐらっと視界が歪んだ。
「顔色が悪いが──」
ルーカスの声が小さくなって、その後の記憶がない。
◇◇◇
「移動の疲れが出たのかしらね」
お母様が寝台の側の椅子に座って私の額に触れる。
「顔色もあまり良くないし、とりあえずはゆっくり休みなさい」
「……はい」
「ダンスのレッスンをしたいところだけれど、少し延ばすわね」
ダンスレッスンはあまり好きじゃないので助かったなと思ってしまった。
「じゃあ私は行くわね」
お母様は私の部屋から出て行った。
私はふうっと大きく息を吐いた。
ルーカスとのお茶をしている最中に私は倒れたらしい。皆は領地からの移動疲れだと思っているようだが、それだけが理由では無いだろう。
私が倒れた時、ルーカスが私を運んでくれたらしい。
(恥ずかしすぎる……)
重いとか思われただろうか。
世話のやける婚約者だと思われただろうか。
ふとテーブルにクッキーが置かれているのが目に入った。このクッキーは昼間ルーカスとお茶していたテーブルに乗っていたクッキーでは無いだろうか。
「ねえ」
部屋にまだ残っている侍女に声を掛ける。
「はい。お嬢様、どうされました?」
「このクッキー、下げて貰えないかしら」
吐き気を思い出してしまうからここに置いて欲しくないのだ。
「宜しいのですか?こちらは本日ルーカス様がお持ちくださった物ですが、お一つも召し上がっていませんよね?」
「えっ……」
全然知らなかった。手土産を持参して来てくれていたらしい。
そうとは知らずに彼の前で全く手を付けず、感想の一つも言わなかったなんて、何て失礼なことだ。ルーカスが無表情だったのも私が食べようともせずお礼も言わなかったから怒っていたのかもしれない。
使用人もテーブルにセットする時にでも教えてくれれば良いのに。
ルーカスだって一言伝えてくれたって良いのに。
……いや、人のせいにするのは止めよう。
「分かったわ。食べられそうになったら頂くからこのまま置いておいて」
「かしこまりました」
侍女はそう言って頭を下げると部屋を出て行った。パタンと扉が閉まる音を聞いてから、そっとテーブルのクッキーに手をのばす。
(……美味しそう。食べたら吐いてしまうだろうか……)
少しだけ噛ってみた。優しい味がした。飲み込むと急にお腹が空いてくるのが分かった。吐き気は無い。もう一口、もう一口と食べ、一枚を食べ終えるともう一枚に手をのばし、それも食べてしまった。
けっしてお洒落な流行りのスイーツではないけれど、定番で懐かしさを感じさせる優しい味のクッキー。
結局全部を平らげてしまった。
翌日────
お見舞いと言ってルーカスから薔薇の花が届いた。
(また、薔薇……?)
侯爵領に居た頃に毎週届いていたのと同じ薔薇。そして同じように手紙の類いは無し。体調を気遣うメッセージが届いても良さそうだけど、花だけだ。お見舞いの意味合いだと分かったのは、花を持ってきた使者の人が言っていたからだ。やっぱり義務的に贈っているだけなのだろう。
(それにしても……ルーカスは花の種類は薔薇しか知らないのかしら?)
今は薔薇の季節では無いから温室で育てられたものだろう。普通に購入したら通常よりも値がする筈。義務で贈るのならもっと季節の花を選んだ方が安く済むのに。そう伝えてみようか……いや、何か花を贈ってくれと催促しているみたいじゃない!それなら花の贈り物は要らないと伝えた方が……まあ、今回はお見舞いとして頂いたのだから、もう花の贈り物は無いだろう。
そう結論付けて、お礼の手紙を書くことにした。
お茶の最中に突然倒れてしまったことと手を煩わせてしまったことへのお詫びと、クッキーとお見舞いの花へのお礼をしたためた。
「…………」
自分で書いた手紙を暫く見つめる。
(お詫びを手紙だけって失礼だろうか……)
けれど何か贈るにしても、何を?
「ねえ」
花を活けてくれている侍女に声を掛けた。
「何でしょう、お嬢様」
「婚約者にお詫びの品を贈るのなら何が良いのかしら?」
「お詫びでございますか?ハンカチとかお菓子辺りが無難でしょうか」
「ハンカチ……お菓子……好みが分からないわ」
幼馴染みではあるけれど、あまり彼のことは知らない。特に今の彼の好みはさっぱりだ。昔はお菓子なら何でも食べていたと思うけれど、大人の男性は甘いものを食べなくなる人もいるって聞くし、身につけるものの好みも変わるだろう。私だって昔はフリフリの可愛らしいお洋服が好きだったけれど、今は肌触りの良いものが好きだ。
「聞いてみてはいかがですか?婚約者ですし、お互い理解し合うのは大切なことかと思います」
手紙に何が好きかなんて書いたところで、もし返事が来なかったら……と、ずっと思ってきたから怖くて書けなかったけれど、お詫びとお礼の品を贈りたいからと理由を付ければ書けるかもしれない。例え返事が何も無かったとしても、お詫びとお礼の品は要らないと言う意味にも取れるし、そう心構えを持っていればあまり傷付かずに済みそうだ。
「そうね、手紙に書いてみるわ。ありがとう」
ふう、と息を吐いてから手紙に続きを書いた。
それから数日後────
なんと、手紙の返事が届いた。薔薇の花と一緒に。やっぱりルーカスは薔薇しか知らないのかもしれない……。
ルーカスの字は下手ではないけれど癖があり力強い字だった。
内容は、私の体を心配する言葉と共に労るようにと書かれてあり、お詫びの品は何も要らないとも書かれていた。けれど甘いものは平気だとか、燻製された物が好きだとか、茹でた野菜は苦手だとか、結構細かく書かれていた。それに、家紋に赤が使われているので、赤色の小物を持つことが多いとも書かれていた。
(手紙だと別人のようだわ……)
婚約してからこれまで数えるほどしか会っていないけれど、いつも無表情か少し眉間に皺を寄せている顔で言葉少ないのに、手紙では多弁だった。
(むしろ、何故今まで全く手紙が来なかったのかしら……?)
返事が来たことが嬉しくて何度も読み返してしまう。あの無表情からこんな風に言葉が出てくるのを想像して笑ってしまいそうになる。
言葉に出すのが苦手なのかしら。
(はっ!もしかして……誰か別の人が代筆をしたのかもしれない……)
あり得る。返事を書くのが面倒だからと、ルーカスのことをよく知っている使用人の誰かに代わりに書かせたかもしれない。
もしそうならこの字はルーカスじゃないことになる。好みもどこまで本当か分からない。その考えに至って気持ちがどんどん沈んでいく。
(何を喜んでいるのかしら)
手紙一つでこんなにも感情が上下するなんて思いも寄らなかった。
(婚約するって、こんなにも疲れるものなの?)
はぁ、と溜め息をついて手紙を折り畳む。
手紙と一緒に届いた薔薇に目をやる。
(今度の手紙には、庭の季節の花について触れてみようかしら)
それからまた数日後────
「お嬢様、ルーカス様からお花が届きました」
「…………」
やっぱりまた薔薇だった。