寮生活の朝
沙織が目を覚ましたのは、翌朝の6時過ぎだった。
夕食も食べずに寝てしまったせいで、空腹のあまり、通常よりも早く起きてしまったらしい。
普段の沙織なら、時間ギリギリまで惰眠を貪っているはずの時間だ。
「起きるか……。」
空腹もそうだが、寝汗で体中が少しベタついている気がした沙織は、昨夜、自分がお風呂に入っていなかったことを思い出した。
幸いなことに、この寮には各部屋ごとに、シャワー室が備え付けられていた。
沙織は1人部屋なので、同室の人を気にしてシャワーを浴びにくいといった状況にはならなかった。
昨夜の荷解きと新しい環境によって疲労が溜まっていたのか、相当ぐっすり眠ってしまっていたようで寝癖が酷かった。
「……まあ、シャワー浴びればいいか……。」
昔から雑だと両親からよく言われていた沙織だったが、学生寮とはいえひとり暮らしになったのだから、少しは丁寧に生活しようと思っていたはずなのに、そんな決心は記憶の彼方へと抹殺されてしまったようだ。
シャワーを浴びて身支度を整えると、時刻は7時になろうかと言ったところだ。
沙織のお腹は限界を通り越して、腹の虫も鳴かなくなっていた。
それでもお腹が空いていることに変わりない。
けれども沙織の部屋には昨日、学校に向かう時の電車用にと買っていた飴玉が5粒しか残って無い。
「たしか学生寮の生徒は学食に行けばご飯が食べられるって学校パンフレットに書いてあった気がする……。」
『いきなり学食とかハードル高すぎるでしょ!
この学校は編入生に高度なコミュニケーション能力を求めていたのか? だとしたら私は今、ここにいません!』
自身の残念な現状に頭を抱えた沙織は、ひとつの妙案を閃いた。
「そうだ、綾乃を誘えばひとりじゃない!」
唯一と言っていいほどの名案と荷物を持って向かおうとドアノブに指先が触れた瞬間、沙織は重要な事実を思い出した。
沙織は綾乃の部屋を知らなかった。
『昨日のうちに連絡先だけでも交換していれば……。
せっかく同級生の中で唯一、会話ができたのに。』
自身の詰めの甘さに、大きなため息が出た。
体の空気が抜けるのと同時に筋力も弱まっていき、沙織はドアの前で座り込んだ。
昨日と同じ場所で、同じように座り込んだ沙織は、側から見たらドロドロのスライムのように弱々しくただそこに居るだけだった。
ドアの前で座り込んだため、沙織の耳には廊下の音が聞こえていた。
やはり学生寮の生徒は、始業時間に合わせて、今ぐらいの時間に学食に向かうらしい。
廊下では次々と生徒が慣れた様子で挨拶を交わしているのが容易に想像がついた。
『どうしよう……このままじゃまたご飯も食べられないし、昨日に続いて遅刻だ……。』
沙織は足に根が張ってしまったようで、自分の意思では既に立つことすらできなくなっていた。
今朝の寝起きの情け無い姿とはまた違うベクトルの情け無い姿。
沙織の頬に静かに涙が伝った。
涙があごから膝にこぼれ落ちた瞬間、沙織の目の前に立ちはだかっていたドアが大きな音をたてて振動した。
「沙織ー、起きてる? 朝ご飯食べに行こうよ。」
ドアの向こうから聞こえてきた声は、沙織が恋い焦がれていた綾乃の声だった。
『ドアの向こうに綾乃がいる!』
沙織は綾乃が待ってくれている廊下へ出るために、部屋の鍵を開けた。
鍵が開いた音がしても沙織が部屋から出てこなかったので、廊下で待っていた綾乃は心配になり部屋のドアを開く。
すると、ドアの目の前に座り込んで涙を流す沙織の姿が目に飛び込んできた。
「ちょっと沙織⁉︎ こんなところでどうしたの?」
綾乃が沙織の前にしゃがんで心配すると、沙織は更に涙を流して、ゆっくり事情を話し始めた。
そんな沙織を落ち着かせながら、綾乃はしっかりと沙織の話を聞いた。
事情を話し終える頃には、沙織は落ち着きを取り戻していた。
「ごめんね沙織、昨日のうちに連絡先を教えておけばよかったね。」
「綾乃は悪くない! それに、連絡先を聞いていても、私から綾乃の部屋に行くのは多分できなかったと思う。」
『本当に私が悪いのに、綾乃は優しい……。昨日、初めて会ったのに、顔を見ると凄く安心してしまう。』
「とりあえず、顔洗っておいで? そしたら一緒に朝ご飯を食べに学食に行こっか!
ご飯を食べたらすぐに連絡先を交換しないといけないから、早く早く!」
「ありがとう……綾乃。」
綾乃に急かされながら、顔を洗う。
泣いた影響で目は少し赤く腫れているが、冷水で冷やしていくと腫れは治まっていった。
沙織の顔を綾乃がチェックして、今度は綾乃に手を引かれた状態で部屋を出た。
2人で学生寮から外に出ると、学生寮以外から登校している生徒も数人歩いている。
そのうちの1人がこちらに歩いてきた。
歩いてきたその生徒に綾乃も気がついたようで、手を振った。
「めぐみー、おはよう。」
「綾乃、遅かったから心配したよ。おはよう。」
『やっぱり、私以外はみんな知り合いなんだよなぁ、この学校は……。』
綾乃は沙織に向き直り、その生徒を紹介し始めた。
「沙織に紹介するね、彼女は伊藤めぐみ。私の幼稚園の頃からの幼なじみなの。」
「はじめまして、及川沙織です。」
「はじめまして、伊藤めぐみって言います。よろしくね!」
めぐみは少し身長が高く、細身ながらも筋肉もしっかり備えている、女性からしたら憧れるような体型をしている。
加えて明るい性格だが、前のめりには近寄ってこない。沙織との距離感も程よいらしく、既にめぐみへの抵抗感はあまり感じていないようだ。
『めちゃくちゃ美人だなぁ……。私と同級生には見えない……。
そもそもこの学校には美人が多い気がする。先生含めて!』
「今から朝ご飯を食べても始業時間には間に合うし、早く学食に行こうか。」
「あれ、めぐみは家で朝ご飯食べて来たんじゃないの?」
「朝から30分間も自転車を漕いで通学してるんだから、お腹も空いてるの!」
めぐみは自転車の鍵を振り回しながら、綾乃と沙織
に自身も一緒に学食でご飯を食べる意思を伝える。
「そんなこと言って、今は陸上部で走ってないんだからすぐに太っちゃうよ?」
「少ししか食べないから大丈夫! 沙織ちゃんも少しなら食べても問題ないって思わない?」
沙織は2人の会話に混ざりたい気持ちで、何とか言葉を絞り出す。
「少しなら大丈夫だと思います……。ところで、めぐみさんは陸上部なの?」
「めぐみでいいよ。中等部までは陸上部に所属してたんだけど、高等部では帰宅部に入る予定だよ。」
『高校生になったら部活動だけじゃなくて、アルバイトをしたり、課外活動の幅が広がるから、帰宅部もありだなぁ。
だけど、めぐみ……は明らかにスポーツが得意そうなのに、勿体ない気がする……。』
「本当に陸上部は辞めちゃうの? 結構頑張ってたのに。」
「いいの! 中等部で3年間、陸上をやってみてわかった。私は体を動かすのが好きなだけで、
誰かと競ったり記録を更新したりすることは興味がなかったってね。
それよりも、綾乃と沙織はどうするの? 部活動は。」
めぐみは沙織と綾乃はどうするのかたずねる。
「私は中等部では生徒会だったけど、高等部では部活動に入ろうかなって思ってる。
生徒会の仕事も刺激があって楽しかったんだけど、放課後の部活動に参加してみたい気持ちもあったから……。」
そう言った綾乃の表情は、とても輝いて見える。
よほど部活動への参加に憧れていたのだろう。
『綾乃は部活動に入るんだ……。』
「高等部から初参加するのは難しい部活動もあるけど、高等部に在籍している間にずっと参加できる部活動を見つけたい。」
「綾乃ならどこでもうまくやれそうだから大丈夫だよ。沙織は何か入りたい部活動はあるの?」
綾乃の話が一段落すると、次は沙織の順番になった。
『あまり人付き合いが得意じゃないから、部活動とか考えてなかった……。
2人みたいに何も決めてないよ……。』
沙織の話に興味津々の様子の2人には悪いが、沙織にとっては絶好のタイミングで学食に到着した。
「まだ学校の事、詳しく無いからこれから考えるよ。」
「そっか、そうだよね。それなら私が寮生の生活を教えてあげる!
まずは学食からって事で!」
『綾乃は面倒見がいいんだなぁ、だから生徒会に所属していたのかもしれない。
こうして考えると、綾乃もめぐみも、中等部では活躍していたみたいだし、私が今一緒に居て浮いているのは確実じゃない?』
3人が中に入ると、既に食べ終えた生徒もいるようで、ちょうどテーブル席がいくつか空いていた。
「あそこで食べよっか。」
綾乃は空いているテーブル席を指差し、慣れた様子で座席を確保すると沙織とめぐみを手招きで呼び寄せた。
めぐみは綾乃の向かいの座席に座り、戸惑っている沙織に綾乃の隣に座るよう促した。
「沙織も早く、こっちこっち! 綾乃の横で良い?」
「うん、ありがとう。」
『すごく気を使われている気がする……。』
沙織も促された座席に座ろうとすると、綾乃が沙織の腕を掴んだ。
「朝ご飯はあそこのカウンターで受け取るの。寮生はここでの飲食代は寮費と一緒に保護者へ請求されるから、お金は要らないよ。」
『寮費と一緒に請求か。だから学校パンフレットには寮費の欄に“〜”ってマークが付いてたんだ。』
沙織が1人で納得していると、めぐみが綾乃に財布を渡した。
「私は寮生じゃないから、これで何か買って来て。2人の荷物は見てるから。」
綾乃はめぐみの財布を受け取ると、沙織をカウンターへと案内した。
カウンターに着くと、今日のメニューと書かれた掲示板に料理名が並んでいた。
朝ご飯は和食と洋食が選べるようで、足りない人がそこに追加していくスタイルだ。
沙織は和食を、綾乃は洋食とめぐみの2回目の朝食としておにぎりを頼み、会計へと進んだ。
会計では利用者の殆どが寮生のため、金銭のやり取りが少なく、すぐに順番が回って来た。
「次の方どうぞー。」
沙織は呼ばれたカウンターへ進むと、昨日の入学式でとても世話になった智香が働いていた。
「沙織ちゃんじゃない! おはよう。」
「おはようございます先輩。先輩はここでお手伝いですか?」
智香は沙織と会話をしながらも、慣れた手つきで会計を終わらせていく。
「そうだよ、少し人手が足りないって聞いたから手伝いに来てるの。
沙織ちゃんは寮生だよね? 寮の部屋の鍵をここにかざしてもらって良い?」
「ここですか?」
沙織は智香が教えてくれた機械に自室の鍵をかざすと、ピピッっと音が鳴った。
「これで大丈夫。まだ時間はあるからしっかり食べるんだよ!」
「ありがとうございます、先輩もお疲れ様です。」
智香は笑顔で手を振ると、次に並んでいた生徒の会計をし始めた。
テーブルに戻ると綾乃達は沙織が戻ってくるのを待っていたようで、朝食に手をつけていなかった。
「お待たせ。」
2人とも笑顔で沙織を迎えた。
「沙織は智香先輩と知り合いだったんだね。智香先輩が教えてくれてたみたいだったから、先に戻って来ちゃった。」
綾乃は沙織に手を合わせて軽く謝った。
「入学式の時に助けてもらっただけで、私が先輩と知り合いだなんておこがましい……。」
「沙織は悲観的だなぁ。何かあったらすぐに綾乃に相談するんだよ? こんなんだけど頼りになるからさ、綾乃は。」
「こんなんだけどって言わないでよ、これでも前中等部生徒会のメンバーなんだから、面子ってものがあるの!」
綾乃は少し語尾を強めて反論した。
『綾乃、ちょっと頬が膨らんでてかわいい……。』