数年前は生徒
保健室のドアがノックされ、真理先生がなれた様子で返事をすると、ドアが開いた。
「及川はどうですか?」
「今はベッドで寝てますよ。寝顔でも眺めますか? 小野寺先生。」
流れるような真理先生の冗談を、千夏先生は華麗にかわす。
「様子を見に来ただけです。そんな冗談言わないでください倉持先生。」
「あら、倉持先生なんて……。昔みたいに真理先生って言ってくださいよ〜。」
千夏先生は、そんな事言うわけないだろといった表情で無言のまま、真理先生を冷たい視線で見る。
「そんなに怒っちゃって……生徒達がびっくりして逃げて行っちゃいますよ?」
「大きなお世話です。」
千夏先生はベッドで眠っている沙織を確認すると、そのまま保健室の椅子に腰掛けた。
「小野寺先生、授業は?」
「今日は2時間目からなので、1時間目はここに居ようと思ってます。」
「私と一緒に?」
真理先生が笑みを浮かべながら冗談を言うが、千夏先生は真理先生の方を見向きもしない。
「及川の様子を見に来たと言ったのに、どこをどう解釈したら倉持先生に会いに来たとなるのか……。」
真理先生は「うふふっ。」と笑うと千夏先生に珈琲を淹れた。
「どうぞ小野寺先生。」
「……ありがとうございます。」
千夏先生はひと口、珈琲を飲んだ。
「どうですか?」
「美味しいです……。まだ覚えてるんですね。」
「小野寺先生はシナモンシュガーを2振り……ですよね。」
千夏先生は香りを楽しみながら、もうひと口飲む。
「倉持先生はどうして生徒の好みで珈琲を用意してくださるんですか?」
真理先生はニッコリ笑うと、落ち着いた口調で答える。
「心身ともに健康的な生活ができるように、生徒達に寄り添ったり対処するのが私の、保健室の先生としての根本的なお仕事だと思ってます。
身体面は個人差はあるけれど、大まかな対処は症状によって固定できます。けれど精神面は全員違うんです。
大まかな対処は生徒達の抱える悩みや不安を聞いてあげて、助言をするくらいのことしかできません。」
「その時に生徒がリラックスできるようにって事ですか?」
真理先生は頷いた。
「そうですね。
ここは一貫校の高等部、思春期の生徒達があまり環境や人間関係を変える事なく成長していく場所です。
私とお話ししてくれる間だけでも、リラックスして欲しいじゃないですか。」
真理先生は千夏先生が想像していた以上に、生徒のことを考えて行動していたようだった。
「倉持先生はそこまで考えて、私にも珈琲を出してくれてたんですね。」
真理先生は人差し指を立て、口の前に移動させると千夏先生に小声で言った。
「でも生徒達には秘密ですよ?
私はよく珈琲をくれる優しくて可愛い保健室の先生で通ってるんですから。
考えて珈琲を渡してると思われたら、誰も気安く飲んでくれなくなるので。」
「倉持先生のそのキャラクターも創られたものだと思う生徒もいるかもしれませんね。」
「それは困ります!」
真理先生は千夏先生の真横に移動すると、千夏先生の頭をポンポンと軽く撫でた。
「まったく……千夏ちゃんは学生の時から私をからかうところとか、変わってないわね。」
「私よりも真理先生の方が変わってないと思いますけど?」
真理先生は千夏先生に名前で呼ばれた事に飛び上がって喜んだ。
「千夏ちゃんが真理先生って言ってくれた!
そうよこれよ! 可愛い女の子が名前で呼んでくれるのって、とっても嬉しいわ!」
「長期間、名前で呼ばないと面倒くさくなりそうなのでそう言っただけです!
生徒達がいる場所ではこれまで通り倉持先生と呼ばせていただきます。」
「そんなこと言わないでさ〜。」
「真理先生はどうして生徒のことを考えて行動できるのに、思考回路が残念なんですか……。」
真理先生はキョトンとした様子で、そのあと過去を振り返り始めた。
「変わってるとはよく言われるわね。」
「医師免許を取得してる稀少な養護教諭の言葉とは思えませんね。」
「医師免許は別よ!」
真理先生は医師免許は無関係だと言うが、世間の印象では医師免許を持っている人は、賢くて真面目な人といった印象が強いから、真理先生の性格と医師免許が結びつく人の方が少ないだろう。
そして、真理先生が医師免許を取得しているにも関わらず、この学園の高等部で養護教諭をしている理由は、真理先生しか知らない。
強いて言えば、真理先生は歳下の同性に甘えられるのを、とても好む性分だと言えば簡単だろうか。
「とにかく、千夏……先生も、たまには保健室に来てくださいね。
また珈琲を一緒に飲みましょう。」
「そうですね、たまの気晴らし程度に考えておきます。」
真理先生は「まったくもう……。」と言って自分の席に戻って行った。
「千夏先生は本当に、高校生の時から変わらないわね。」
「何度も言ってますけど、真理先生の方が変わらないです。
教師になって戻ってきた時、真理先生の見た目が変わってなくて驚いてたんですから。」
「あら、ずっと綺麗なお姉さんってことかしら?
だけど、私も少しは変わったのよ?」
「えっと……私が卒業する時に真理先生はたしか30……。」
千夏先生が真理先生の年齢を数え始めると、真理先生は笑顔で静止した。
「千夏先生。女性の年齢を詮索するのは、タブー中のタブーよ。」
千夏先生はその時の真理先生の表情は、2度と見ないように気をつけようと心に決めた。