第3楽章
奈落の底に落ちたとしても、私の生活は続いた。毎日工場へ出向き、パートやすぐに追い抜いて本社へ行くだろう正社員の部下たちに今日のノルマを伝える。本社からの取引数の変更があればすぐに放送し、機械を止めないように調節した。少しは給料が上がってきているが、何も変わらず、週末にはピアノを弾きたくる。
遺言のような意味を持つようになったあの言葉も、ずっと私の胸の中に刻まれたままだった。
そんな日々が続くある日。バラエティ番組を見ていた母が急に私を居間へと呼びつけた。
「この子、同級生の子じゃない? ほら、あの」
母は私をちらりと見遣り、僅かに考える素振りを見せた。
この人に、刑事のように問いただされて、集合写真なんて見せるんじゃなかったな、と私は内心、苦笑する。
母は私が由井さんに話しかけられたあの時、帰宅した私の表情を見て、私の中にあった僅かな変化に気付いたのだ。おそらく表情には出てなかったはずなのに。
画面に視線を戻している母がまた口を開いた。
「ほら、あの、司の指を褒めてくれたっていう」
テレビの中に映るのは確かに由井さんだった。画面の右肩にあるテロップには『今話題の主婦のためのピアノ教室』『美人過ぎる先生、由井加奈子さん』と書かれていた。
「うん、高校の時の」
初恋の人。
「すごいわよねぇ」
母は無神経なところがあるが、嫌みではない。凄いと思っているのだろう。だけど、どこまで凄いと思っているのかも分からない。
「すごいね」
「二児の母なんですって」
画面に食らいつくようにして見つめる母に、画面の由井さんが語り始める。
『子どもを二人も抱えて、離婚してしまった後はどうしようかと思ったんですが、そうだ、好きなピアノで何か出来ないかなぁって。最初は仕事に勉強、練習、子育てとの両立にもうてんてこ舞いでした。だけど、必要な技術を身につけて、ピアノ教室を開けるようになったら、やっぱり子どもたちのためにも良かったなぁって思うようになったんです』
にこやかにそんな茨の道を語っている。私はそんな彼女を呆然と見つめていた。
『主婦の方だけではなくて、今では主夫の方、男の方の方ですね、もいらっしゃって下さって』
集まったタレントが『すごいですね』『尊敬ですっ』など騒ぎ立てる。一通りの賑やかしの後、司会者が再び言葉を彼女に向けた。
『でも、最初は上手くいかなくて、I tubeで色々とピアノで弾いてみたとアップしていくと少しずつ認知されるようになってきました』
『そんな大変な時期を乗り越えての今、なにかモチベーションみたいなものはあったりしたんですよね』
そのまま彼女はにこやかに『はい』と答えた。
ひとつは、もちろん子どもたちが応援してくれたこと。
そして、もう一つは高校の時の同級生でピアノをしていた男の子です。男の子でピアノって当時は結構珍しくて。音大に進んだって聞いていたんで、きっと今もピアノ頑張ってるんだろうなって思うと、それが力になりました。
『そうですか。その男子見てますか? 彼も今の由井さんに励まされることでしょう。そして、今から弾いて下さる曲が、リスナー共感一位に選ばれたこともある曲になります。どうぞお聴きください』
拍手が始まり、終わる。
カメラが観客席を映した。二人の子どもに寄り添う祖父母だろう。観客席に座る小さな子ども二人はおそらく彼女の子どもなのだ。
そして、彼女が白いグランドピアノの前に座った。
息を吸う。その一瞬の沈黙が始まりの合図。そっと指を鍵盤に掛けると、静かな♭Dの音が響き、冬に光を射し込ませた。
私が聴いてきた音には劣るかもしれない。プロのピアニストにはなれないだろう。プロじゃなくても、もっと上手いヤツはたくさんいた。作り込みとしてもかなり荒いと思う。だけど、そんなこと全てどうでもよくなるような、彼女の音が聞こえてくる。
深く心に突き刺さり、自分の中にある何かに共鳴する。真っ直ぐにその音の切っ先が胸に突き刺さったかと思えば、その傷を癒すような優しさに包まれる。春のせせらぎや雪解けを思わせる繊細な音が転がり、今、春を迎えたばかりの若緑の喜びの中で淡い色の花を称え、彼女が微笑んでいた。
心地の良いリズムだ。
それは私も弾いたことのある曲。だけど、彼女が奏でたその瞬間、すでに誰かが作曲した楽曲ではなく、私が弾いてきた曲でもなく、彼女自身が奏でる新しい楽曲となって……。
彼女にしか弾けないものだと思った。
「すごいね……」
隣で一緒に聞いていた母は何も言わなかった。
私は今もピアノを弾いている。
少し変わったことと言えば、今はピアノが好きだからピアノを弾いていること。そして、誰かにこの音を届けたいと思って働きかけていること。
週末、郊外のレストランでピアノ生演奏をしている。
もし、よかったら、
そこで私の筆が止まった。一瞬それを書くことに躊躇したのだ。しかし、すぐに筆を進める。
家族と一緒に聴きに来てはくれないか?
そんな思いを認めて、オーナーから頂いた招待状を三枚、手紙に添えて、封筒に包み込んだ。