第1楽章
黒森冬炎さま主催の劇伴企画参加作となります。
ベートーベン作曲ピアノソナタ第14番「月光ソナタ」をBGMでどうぞ。
『第1楽章』は月光ソナタ第3楽章『第2楽章』は月光ソナタ第1楽章『第3楽章』は月光ソナタ第2楽章がテーマ曲かなぁと思います。
鍵盤に指を乗せる。押しつける。押しつけるようなくぐもった音が、首を締め付けられたような響きを出した。
演奏する前に、楽譜を読み込む。
そう、文字通り、読み込むのだ。
作曲した偉人がいったいどういう気持ちを込めてこのオタマジャクシを並べていったのか。
かつての師は私にそう教えてくれた。
たとえば、この音。
低く低く、絶望的に響く音。
左手で響かせる低音の音。
その和音に載せられるようにして、沈んでいく右手の分散和音。繰り返されるシークエンス。
この作者はいったいどんな経験をこの音に込めたのだろう……。
今、私の経験が奏でる音は、おそらく同じような……。
ピアノは私にとっての苦痛であり、人生そのものでもあった。これしか上達することがなく、一日に何時間も練習した。指は一日でもサボれば一週間前の動きしかしてくれず、それを取り戻すためにはさらなる時間を費やすことになる。私はそれが怖くて、練習に打ち込んだ。
そのせいだとは言わない。人間関係が苦手になったということは。
どちらかと言えば、ピアノに逃げていたのかもしれないのだから。
だけど、そんな私も恋をした。
それは高校三年生のことだった。片思いだ。
「片桐くんの指って長いんだね」
彼女との関わりはたったそれだけだった。たまたまプリントを配った時に交わした会話だけで、幼い私は恋に落ちていた。
私の手はピアノの先生から、ピアニストを目指すには小さな手だと言われていた。そのためにより指が開くように指の体操をし、鍵盤をしっかり掴めるようにしていたのだ。それをそんなふうに褒められたということが新鮮で、彼女の見せる微笑みが眩しく瞳に映ったのだ。
「……そうでも、ないよ。あと5㎜長ければって何度も思うから」
1オクターブは余裕だ。だけど、1オクターブにもう一鍵盤。しっかりと指を載せることが出来たなら……。
「えぇっ? そんなの私なんて1オクターブがせいぜいだから、羨ましいよ」
そう言って見せてくれた手は、確かに私の手よりも一回り小さいものだった。
「由井さんもピアノするの?」
「うん、片桐くんに比べると幼稚園レベルかもしれないけどね」
一度聴かせて欲しいな……。
そんな思いが熱く胸に滾るのを感じた。言葉を発せようとすると心臓が爆発しそうなほどに音を鳴らす。何も返さない私はただ半開きになった口の渇きを隠そうと、下唇を噛みしめた。
そして、そのまま自嘲するように小さく笑う由井さんに、声を掛けることもなく授業再開のチャイムが鳴った。
由井さんのピアノが聴きたい。
そんな思いは届くはずもなく、ただ日々が過ぎていった。
それが、いつしか聴きたかったとなったのは、手当たり次第受けまくっていた地方の音大の一つに合格し、入学を終えてからだった。私は由井さんが専門学校へと進学したらしいことをずいぶん後になって聞いたのだ。
音大に進んだ私はその他の学生との力の差に愕然とした。
理論から音楽史、もちろん実技においても。
私と違い、彼らには『夢』があった。
私は入学当初からその『夢』を持っていなかった。熱く語る口も、熱く進む道も、その時になって持っていないことに気付いたのだ。いや、そもそも上手くなりたいとも考えなかった。
ただ、ピアノを弾きたい。弾けるようになりたい。それだけじゃダメなのだろうか?
そんな疑問を抱きながら講義を受けて、採点され、落ち込んだ。その度にプレイングルームに閉じこもり、弾きたくった。ぶつけるように、ピアノというハコを壊すようにして、音を奏でるようにもなった。
その頃に弾いていた曲がベートーヴェン『ピアノソナタ第14番op.27‐2』いわゆる『月光ソナタ』だ。第1楽章2楽章はすっと飛ばして、第3楽章から。そこで自分の思いの丈をぶつけていた。
こんな小さなハコの中から全てをぶちまけてやる。鍵をこじ開けて、扉を叩き壊して、不自由からの自由を手に入れ、叫び倒すように。
私の弾く音は、怒りに満ちていた。自分にも社会にも。もっと、もっと。
鍵盤を叩く指はさらに早さを増していく。音に体重を乗せていく。私の音が世界を壊せばいい。
きっとかのベートーヴェンだってこんな思いに違いなかったはずだ。
細やかに指は回り、正確に音を捉えていく。誰にも文句は言われない。躓いていた場所をクリアする。
高揚感が私を支配していく。音に溶け込み、世界を創る。誰にも文句は言わせない。
その場所では私は世界を創る神だった。
「君は作曲家のことを考えたことはあるのか?」
そんな時、突然声を掛けられた。
ひとしきり感情を吐き出す儀式を終え、防音の効いたプレイングルームの扉を外からガチャリと締め切って、帰宅しようと思ったその時だった。白髪の教授で私を受け持つ教授ではなかったが、音楽史を受け持つ教授からだった。
「え……」
余程驚いた顔をしていたのだろう、教授は少し表情を緩め、もう一度私に言葉をかけた。
「もう授業で習っているだろうが、ベートーヴェンの時代はチェンバロからピアノへと移行した時期だよ」
確かに19世紀にピアノは開発され流行し始めた。だからこの頃の作曲家はより色の強い楽曲を書いたし、書けたのだろう。チェンバロだったら、この音の幅は出ない。この音の奥行きはでない。
弦をはじいたような、シンプルな響きで、どこか飴色を思い出させる音なのだが、どこかチープに聞こえてしまう。
チェンバロという楽器の音が嫌いというわけではないけれど、私は、それが好きになれない。
「僕は思うんだ。今の君みたいに当時の作曲家たちは自分を表現したかったはずだし、伝えたかったはずだ。だけど、どこまでも新しいものを夢見て、どこまでも挑戦していたんだと」
まず、その前に生活もかかっていた。
ドキリとしたが、すぐに心の中で反発が沸き起こった。