第39話 悪夢の底から目覚めて
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「お帰りなさい。今度こそ、本当に全て終わったようですね」
「……ああ」
俺はいつの間にかマイの悪夢から目覚めていたらしい。
身体を起こすと、夢見がベッドの側で微笑んでいた。
「素晴らしかったです。やはり、人間の心理は人間に任せるに限りますね。マイさんの夢も、無事に元通りです」
夢見の言葉にほっと胸をなで下ろす。
「それじゃあ、もう痛んだ悪夢に蝕まれることもないんだな」
「今後絶対にないとは言いませんが……彼女にとっての大きな希望、長年見失っていた自分の本当の望みを見つけられたようですから。お手柄でしたね」
「いや、俺は何もしてない。でも、もう大丈夫ならよかった。……本当に」
マイの悪夢に潜るのもこれで終わりだ。
――長かった。少しばかり寂しさを覚えるほどに。
もうよくわからないホラー展開に巻き込まれることもないし、マイが悪夢に苛まれて苦しむこともないだろう。
マイの心の奥底にあったあの空虚な城も、薄暗いリビングも、ほんの少しでもいい、今は光が射し込んでいればいいと思う。
「マイはまだ眠ってるのか?」
「そろそろ起きる頃ですよ」
隣のベッドの方へと視線を向けると、仕切りの役割を果たしている天蓋のカーテンが開く。
マイはぼんやりとした顔つきで上半身を起こしていたが、その大きな瞳からはぼろぼろと涙が零れていた。
夢の中で見た幼いマイの姿が脳裏によぎる。
もしかしてまだ辛いことがあるのか?
動揺して固まる俺をよそに、夢見が心配そうにマイに歩み寄る。
「怖い夢でも見ましたか?」
「ううん。……すごくほっとする夢。内容は覚えてないんですけど」
マイはそう答えてから、我に返ったように慌てて目元を拭う。
俺はベッドの横に放り投げていた自分の鞄を手に取ると、中からハンカチを出してマイの方に放り投げた。
マイは驚いたような顔で反射的にキャッチしてから、気恥ずかしそうな笑みを浮かべた。
「ありがと」
「いや……」
夢の中でのことは覚えてないんだよな。
当然のこととはいえ、あんな言葉を交わしてしまった以上、やっぱり少し寂しいような気がする。
「あたしまたご迷惑かけちゃったみたいですね。すみません。昭博も」
マイは倒れたことを思い出したのか、俺と夢見にそう謝った。
「いいえ。体調はいかがですか?」
「なんだかすごくすっきりしてます。ここ数年なかったくらい。ううん――」
マイは何かを思い直したようにいったん唇を閉じると、自分の胸にそっと手を置き、言葉を続けた。
「小さな頃に欲しくてたまらなかったものが、やっと手に入ったような気持ち、かも。変だよね、こんなたとえ」
「いいえ。人間は夢の中で記憶の整理をし、自らの無意識と向き合うものです。なのできっと、そういうこともありますよ」
「……やっぱり、夢見さんって不思議なこと言うな」
マイは軽やかに笑ってから、はっとした顔で立ち上がった。
「どうした?」
「あたしもう行かないと! 色々やることが――」
「大丈夫ですよ。今裕美さんから連絡があって、マイさんがここにいるならしばらく休ませてあげてほしい、とのことでした」
「っ……そっか。本当に、迷惑かけてばかりだな」
マイはしゅんとしかけたものの、すぐに笑みを浮かべた。
「でも、そのぶん頑張らないとね。正直、少し前までは自暴自棄になってたようなところもあったの。でもそれって勝手だよね。こんなに大切にしてもらって、いろんな人に応援してもらってるのに。あたしはあたし自身が理解してあげなくちゃいけなかったのに、人に本当のあたしを受け止めて欲しがりすぎてた。そんなの、黙ってたって理解してもらえるはずないのにね。どうしてこんな簡単なことに今まで気付かなかったんだろう」
――それはきっと簡単なことじゃなかった。
マイの心の中を見て来たからこそ、そう感じる。
人は誰もが最初から正解を選べるわけじゃない。
迷って傷ついて人を傷つけて、それでも一歩踏み出せたなら、きっとこれから少しずつすべてが変わっていく。
「……よかったな。気持ちの整理がついたみたいで」
俺が言葉に出来るのはせいぜいこれくらいだ。
「うん、ありがとう。これからはもっと裕美さんと沢山話をして、恩返ししよう。あたし自身のためにも」
マイならきっと、勇気を持って次の一歩を踏み出していけるだろう。
夢見はどこか嬉しそうに微笑んで、そのままになっていた天蓋を束ねた。
「お腹は空いていませんか? 二人が眠っている間、軽食を用意しておきました」
「わあ、じゃあいただきます!」
屈託のない歓声を上げるマイに頷くと、夢見は先に店のフロアへと戻っていった。
「さて。あたしたちも行こっか」
そう言いながら立ち上がったマイは、ふと何かを思い出したように俺を振り向く。
「そうだ昭博、ちょっとスマホ貸して」
「は? っ、おい、勝手に取るな!」
慌てる俺をよそに、マイはベッドサイドにあった俺のスマホを取り上げると、素早く操作してすぐ俺に返した。
「はい。アプリにあたしの連絡先追加しといたから」
「なんだ……って、そんなのただの一般人の俺に教えていいのか?」
「あ、確かに」
納得するのかよ。
マイは「うーん」と微妙な表情で唸ってから、再び唇を開いた。
「でもさ、昭博はなんか他人って気がしないんだよね。出会ってそんなに経ったわけでもないのに、変かも知れないけど――」
マイはまた躊躇うように言葉を濁し、白い頬をわずかに染めた。
「なんかさ、友達、みたいな?」
さっき夢の中で聞いたばかりの言葉に、目を見開く。
「友達か」
「うん」
「じゃあ問題ないな」
「……うん。しばらく活動休止するし、そのうちアメリカにも行くけど、たまに連絡するから。気が向いたら返してよね」
「ああ」
マイは照れているのか、頬を染めたままそわそわしている。
なんだかこっちまで照れくさくなってしまう。
どこか気まずい雰囲気でいると、ドアの外からのんびりとした声が割って入ってきた。
「それじゃあ私もお友達ということで!」
「地獄耳か! というかちゃっかり会話に入ってくんな」
「寂しいこと言わないでくださいよー」
拗ねたような声が遠ざかっていく。
どうやらキッチンの中に入っていったらしい。
やがて、野菜をじっくり煮込んだスープのような匂いが漂ってくる。
――なんで俺までこんなにほっとしてるんだろうな。
マイが言っていた『小さな頃に手に入らなかったものを手に入れたような気持ち』の、そのほんの少しの欠片が、俺の中にももたらされているように思えた。




