冷たくて生きている人
人の死は、最高のスパイスだ。それは、認める。
特に、漫画家を目指している僕なんかからすれば、ある意味必須の演出とも言えるだろう。だんだんと、息が途切れていく描写。最後の瞬間は、一ページ丸ごと使って、表現するのだ。そうだな、あえて、中央には描かない、そういう、こだわりもある。
しかし、最近は、死が身近にありすぎて、正直、マンネリなんですよ。最近の映画監督、小説家、未来の同業者諸君、君らは、人の死を、はき違えているよ。
人の死で、ショックを与えるのは結構。キャラクターに愛情があるだけ、心を揺さぶることが出来る。しかし、死なんて、たかが死でしかない、そこに実際に意味を見出すなんて、あまつさえ、感動などと。
人が死んで、感動することなど、一つも無い。人の死に、意味など見出すものではない。飽くまで、人間の常識に染まった脳みそから見れば、ただ、悲しい出来事なだけ。人が死んで悲しむのは、人間だけだ。
僕はもう、死に慣れてしまった。死では心が動かなくなってしまった。というか、もう、なんににも、心を動かせなくなってしまった。…なんて考えに至るのは、つまり、僕がひねくれた高校生だからなのだろうか。
「…………何?」
彼女は、面倒臭そうに、僕の顔を見ようとはしたが、やっぱり面倒だったのだろう、ぷい、と今読んでいる小説に目を移してしまった。
「だから、そういう事だよ。最近、面白くないんだ。映画も漫画も小説も」
つまり何が言いたいかと言うと。
「僕はもう、感情さえ失くしてしまうんじゃないか、とすら思うんだ」
僕は、小説を読む彼女の目を見て、言う。
「ねえ、聞いてる?」
「そうは見えないわ」
ページを一つめくって、彼女は答えた。器用な奴だ。
まあ、そうは見えないと思う。たまたま、席替えで同じ席だった、というだけで話しかけられるくらいには、コミュニケーション能力があって。友達だって、いっぱいいる。成績も、良い。漫画を描くためには、一般の勉強だって、出来ないといけないのだ。
「見えなくても、そうなんだ。正直困る。人の気持ちがわからないと、漫画家になんてなれないでしょ?」
「意識が高いのね」
彼女は、変わらない様子で、答える。冷たいなぁ、と思った。僕の友達なら、きっとあれこれ聞いてきて、慰めてくれるに、違いないのに。しかし、そういうところが気に入っていた。何となく新鮮で、僕と、僕の友達にはない、何かを持っている気がした。恋、ではないと思う、多分ね。だって、感情が無くなってきているんだから。
「うん、そうなんだ。毎日、最低でも三ページは描いてるし、電車でこっそり乗客の絵も描いてるんだ」
僕にとって、漫画家というのは、夢ではなかった。ただ、現実的に、漫画家になる、それだけ。必要な事を毎日積み上げていく。
「それだけ意識を高くやっているなら、きっと立派な漫画家になれるでしょうね」
彼女は読んでいた本をパタンと閉じて、席を立つ。そういえば、もう下校時刻だ。
「あ、また明日ね」
僕の挨拶には答えず、彼女は歩いて教室を出ていった。
席替えをしたのは一週間前だから、もう一週間も授業が終わってから、下校時刻の間に、こんな会話をしていることになる。だのに、彼女の反応は、相変わらず冷たいままだ。別に、僕だけに冷たいわけでは無くって、皆平等に、冷たい。なので、当然のことながらクラスからは孤立していてる。しかし、長い黒髪にメガネ、とその地味な容姿から、特に目立つことも無く、平穏に高校生活を送っているように見える。
今日は、ちょっと調子に乗りすぎたかもしれない。良く分からない自分の思想なんて、別に、人に話すような事でもなかったろうに。
「一週間後、文化祭だね」
授業が終わって、下校時刻になるまでの間。いつもの様に、小説を読む、彼女に声をかける。相変わらず、興味はなさそうだ。
「そうね」
ページをめくる。
彼女は、休み時間中も、いつも小説を読んでいるから、少し気になった事があった。
「橘さんはさ、何か作品を出したりしないの、小説とか」
ぴくり、と反応があった気がした。意外だった。
「小説書いてるの、もしかして」
彼女は手を止めると、初めてじゃないだろうか、こっちを見て、答えた。
「書いてはいないけど、書けるわ」
彼女は、てっきり、自分の意見とか、思想とかを、公表なんてしないものかと思っていたから。これは新たな発見だ。
「じゃあ書いてよ。もし僕の心を動かせるようなものだったら、嬉しいな」
「良いわよ」
微かに、笑った気がした。いつも笑っている僕の安っぽい笑みとは、大違いの、綺麗な。
彼女は結構な自信家なのか、それとも、その自信にありうるだけの、実績があるのか、わからないけど。久々に楽しみ、だ、そこらの大物作家の新作よりか、ずっと楽しみかもしれない。僕も、その日はいつもの倍、漫画を描いた。心を動かせなくなってしまった、とか言っておきながら、少し恥ずかしかった。
その日からも、いつものように、授業が終わってから、下校時刻までの十数分。僕は彼女に話しかけた。
彼女も、いつものように、聞いているのか、いないのか。特に仲良くなった訳でもなし、嫌われている訳でもなし。多分、話しかけるのが全くの他人でも、同じ対応をとっている事だろう。なんなら、僕の名前だって、覚えているか怪しい。
彼女は、学校では、別段なにかを書いているようには見えなかった。一瞬、約束を忘れているのでは、と思う事もあったけど、それでも、僕は楽しみだった。
僕は、文化祭に間に合わせるように、漫画を描いていった。描き終わったのは、文化祭の当日の、朝だった。
夜から描き始めて、朝になっていたなんて、初めてだ。僕らしくも無い。でも、こうしないと間に合わなかった、思ったより、押してしまった。元々は、こんなに早く完成させるつもりは無かったから、しようがない。
原稿をバッグに詰めて、顔を洗って、家を出る。電車に乗る、乗り換えは無しで10分程度。眠かったけど、我慢して耐えた。
学校の最寄り駅に着いて、広い公園の歩道を沿って歩く。ある程度行ったところで、見覚えのある黒髪を見つけた。学校に行く途中、全くあった覚えが無かったから、てっきり家は逆方向なのかと思ったけど、そうでは無かったらしい。
話しかけようと思った。話しかけようと思った。
人通りが少なかったから、油断したのか。眼鏡をかけるくらいだから、目が悪かったのか。だから、赤が見えなかったのか。
グアンと、大きな、鈍い音がして。そのまま、彼女は宙を舞って、公園の花畑へと。車は帰って来なかった。
僕は、無言で彼女に駆け寄った。彼女の顔は、見えなかった。
見えなかったけど、綺麗だった。
ドクン、と心臓が鳴った。汗が止まらなくて、思考もまとまらなかった。今までの、僕の死生感は何だったのか。感動した。人は、こうまで美しくなれるのか。どこまでも儚げで、美しく、それが正しい事、と誰もを認めさせる姿で。
ふと、彼女のバッグが気になった。バッグの中には、何も入っていなかった。教科書も、原稿用紙も、何も。そこで察した。油断したわけでは無い、見えなかったわけでも、断じて無い。これが、彼女なりの作品なんだ。
心を動かす、どころでは無い。僕の漫画なんて、これに比べれば、稚拙も良いところで、破り捨てたくなる。が、それどころでは無かった。綺麗で、綺麗で、何とか、形に残せないものかと。僕は、無意識にペンを握った。
人の死とは、こういうものか。哀しくて、愛おしくて、美しくて、キラキラしていて。不意に触れた、彼女の手はやっぱり冷たくて、今、この世界の誰よりも、生きている。
ああ、やっぱり、やっぱりそうだ。分かっているようで、何も分かっていなかった。
人の死は、最高のスパイスだ。