人はそれを恋と呼ぶ
―――それは唐突に現れた。具体的にいつだかは、皆目見当がつかない。少し汗ばむような春の陽射しの下だったかもしれないし、あるいは静かな教室の中だったかもしれない。
とにかく唐突に、それは現れた。正しくは、私はそれを唐突に認識したのだ。己の中の、とても奇妙で、それでいて嫌な感じのしない、よく分からない感覚を。
以来、変にそわそわとして落ち着かない日々が続く。くだらない感情だと、内心嘲笑しながらも、融通の利かないそれに甘んじて、日々その感情の矛先を、恨めしくも切なく眺めている。
心が乱れるのはあまり良い心地ではない。己の意思でなく、それが勝手に体を操ることさえあり、誠に心外である。いつも後になって悔しい思いをする。
しかしまあ、これら全てはただの強がりである。実際は、それに酔いしれるのも存外悪いものでもない。しかし悔しいのは事実だ。
先程から、私が“それ”という代名詞を使うのも、何とは言わないが、偏に認めるのが悔しいというだけだ。全く私は素直ではない。
ところで、最近はそれが理由で、男女の諸事情が描かれた小説を求め、図書室へ赴くのだが、なかなか良いものと出会うことが出来ない。どれもこれも、それだけを主とするから面白くない。そんな本の中の登場人物は、四六時中想い人の事ばかりを考えていて、疲れないのだろうかと心配になるばかりである。
こんなことを言いつつ、私もふと外を眺めては、古典文学の世界の人々さながらに、ついつい相手を想って歌のひとつでも詠んでしまうのだから仕方がない。
新緑や山の彼方に萌ゆるれば
共に染まりし小池の水面
拙い文章ではあるけれども、最後まで読んで頂けたなら、それはなんとも嬉しいことだ。
最後の和歌は、全く恋の歌などには見えないだろう。だから、こっそり相手に見せても決して伝わらない。
平安の貴族に見せたら笑われるかもしれないし、古典文学の学者からすれば、ろくに形になっていないのかもしれない。それでもこれは、今の私の精一杯の、恋文なのだ。
彼方は、あなたと読む。
萌ゆるは、燃えるとかけて恋の熱情。
染まるは、あなたに。
小池には、恋が含まれている。
「とくやりてむ」。
紀貫之はこんな気持ちだったのかもしれない。