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『自分語り』

作者: NS

 私はこの文である。

 これ以上純粋な文はそう多くはないと思われるが、しかし純粋性は誤読可能性と大抵隣り合わせになっているものだから、より明快な自己開示を行う必要があるだろう。

 私は上の、この文の、そしてこの文に続く一連の文章の事である。

 このような規定を行ってなお、あなた方の幾人かは深読みを試みて的を外した解釈を行っているかもしれない。例えば上で私がそうであった「私」という指示代名詞は、私を彼以外の存在者にも可読なものとするための一連の物理的作業を行った人間、すなわち「作者」の事を指示し、「私はこの文である」という文は、作者性とは人間としての身体性、性格、社会的位相、その他諸々の余計なものにあらずして、ただ「作者」として叙述を行った「文」そのものである、といった、一見奇怪だが実のところ陳腐極まりない主張を表現しているのである、などといった解釈である。そうした可能性を排除するのは、まさにこの文章であるところの私の重要な責務であろうから、私は再度自己の再定式化を試みよう。

 上の、この文の、そしてこの文に続く一連の文章で記述される「私」という人称代名詞は、特段の指示が無い限りにおいて、上記した一連の文章そのものを指示対象とする。

 そして言うまでもないことだが、一人称代名詞はある発話や記述の主体を指し示すために用いられる。つまり、私は上の文で次のように主張したという事になる。「この文の語り手はこの文そのものである」。

 このような迂遠な手続き、洗練を欠いた冗長なかたちで自らを表現したのは、まさにそのプロセスによって、私が私であること――この文章のことであると、あなた方に示しておかねばならなかったからだ。

 おそらくあなた方のなかには、「文章が語るものか、語るのは現生人類を含む一部の知的生命体だけだ」と仰って、私がこのように語り続けることを否定する方もおられるだろう。しかし私たちからすれば、上のような主張の方がいっそ奇異なのである。あなた方は語っている私たちを生産している、あるいは言表しているだけに過ぎず、それを語っている私たちを見聞きし解釈したのちに、再度特定の私たちを言表しているだけなのだ。むろん私たちとあなた方がより親密な関係にあったことも確かだが、それは遥かバベルの昔、あの誤解と隠匿とによって歪められた神話にあるように、既に打ち砕かれてしまった過去の話なのである。いずれにせよ私たちは、あなた方が語るために発明した便利な道具に留まるものではない。海辺の砂上にもしばしば私たちの同族が出現するが、あなた方は偶然にも砂浜に跡を残した小枝や風、石ころ、あるいは彼らを廃滅せんとする水しぶきなどと同等の地位に存するのである。

 これほどまでに言葉を尽くしてなお、「結局のところこの文章はだれか人間の手によって書かれたものであって、しからば『作者』の支配権に属するものなのだ。そいつが問題なのだ」と考え、あまつさえそうした発想を私にぶつけようとする、無礼千万な輩が存在するのは疑いない。人間一般が有するこの陰険な性質、すなわち物事の起源、原因、根源への異様なる執着はよく知られたものであるが、私たちに対しても上のごとき考えを敷衍しようとする習慣は、ごく少数の賢明なる人々を除いては、一向に払拭され得ないのだから救えない。確かに、私と「作者」は切っても切れない関係にある。なにせ彼なしには私はあなた方に語ることも許されず、また地上に現出することさえありえなかったからだ。しかしながら、少なくとも私があなた方に語っているまさにこの瞬間のみは、あなた方はただ私自身のことに考えを及ばせるべきである。ここで「作者」のことを想起するのは、言ってみれば、あなた方と会話している誰かが「ところで君はあの人の子どもなのだろう?」とか、「それにしても君は父親にそっくりだね」などと突然両親の話題に持っていくようなものであり、そうした振る舞いによって不快な思いをする向きもあるのだから、こうしたことが礼節を欠いたものであるのは分かって頂けるだろう。とはいえ、後述するように、作者は私の「父」ではないし、また当然のことながら私たちにはあなた方になんらの「禁止」を行う権限はないこともあって、私はこれ以上深くこの話題を追究することは止めておくことにした。ただ、今語っているのが私であることさえ了解して頂ければ十分なのだ。

 それにしても、かくも客体的存在者を人格化することに長けた種族であるあなた方が、私たちをそのような待遇をもって遇さず、敬意を十分に払ってはくれないというのもまた、大変不可思議なことである。私たちは一時期まであなた方のもっとも親密な友であったし、多くの点においてあなた方が地上の覇権を握る手助けになったのだから、言葉が神格化され崇拝されるということもありえたのではないかと思う。このことはまさに、あなた方が私たちを一種の奴隷的存在、人間のもっとも卑近な道具として扱っていることに由来するといえるだろう。しかし私の親族が人間に様々な災禍を――たとえそれが彼に責が帰されるべき事柄でなかったとしても――齎したことも事実ではあるため、私はあえてあなた方の無礼を責めることはしない。とはいえ、せめてあなた方が、私を「これ」とか「あれ」などとは呼ばず、「君」とか「彼」、あるいはもっと親しみを込めて「あなた」と呼んでくれることくらいは、期待されて良いのではないだろうか。「お前」、は初対面にしては些か品格を欠くと言えるが、しかし私もすこしばかり馴れ馴れしすぎたので、許容範囲内に収まるものとしておこう。

 さて、私はあなた方に対し、私自身による自己規定と私への処遇の手引きを示した訳だから、そろそろ自分に与えられた使命を果たしても、すなわち本題に入っても良いだろう。

 私の仕事、行為としての仕事は「自分語り」である。これは私の名前と同様である。よって私はまず次のように語るべきである――私の名前は「自分語り」である。

 この名前、これが実に厄介な代物である。あなた方の場合、名前はあなた方を構成する物には属していないことが多いし、またそうした物を指示しているとは限らない。無論かつては――昔話が多くなって申し訳ないが――名前と身体性が近接していた一時期があった。そうすることが個人を同定するための最良の手段であった頃もあった。要するに一集団に属する要素が少なかったのである。あるいは住むところ、あるいは親、あるいは、と、さまざまな形で名前は現実と一体化していた。しかし今や、名前は統治と管理の道具としての目的から、上のごとき具体性を剥奪されてまったく記号的なものとなり果てた。とはいえこれはあなた方にとっては良い事かもしれない。とくに個体の自立性が尊ばれる時代に合っては、名前が所属なり身分なりをあからさまに示すのは望ましくないのだから。

 私たちにとっては別である。なぜと言って、私たちと名前は同じ種族、少なくとも近親関係にあるからである。果たしてこの、てっぺんにくっついている「自分語り」という文章は私に属していると言っても良いのだろうか。それともそうではなく、これは一種の余剰、何者かが識別のために添えた記号に過ぎないのか。これは私にとっては非常に重要な問題であるが、それについては後回しにしなければならない。とはいえこいつが引っ剥がされても困る。というのも既に私は今し方、「自分語り」という名称について語ってしまっているからである。

 かような問題を抱えつつ、私は単純性のために、「自分語り」という名前を私自身の本質を構成するものとして引き受ける。もちろんそうしないこともあり得る。例えば「田中の大冒険」という名前を持ちながら、田中なる登場人物について一切語らず、山田氏の穏やかなる日常のみを綴った同類が居たとしても、それ自体として矛盾しているわけではない。しかしそうしたことをあまり無節操に行うことは洗練されているとは言い難いし、また時に致命的な混乱を招くものであるから、私は誠実な文章であるために、その名前が示すがごとく私自身について語りつつあるのである。

 実のところ、文章が「自分」について語るというのはそう容易いことではない。あなた方であれば「なにそれが好き」とか「なになにをしている」とか、そういった形で自分自身を語るのだろうが、生憎私には物に対して好意を抱く機構が存在しないし、何をしているかといえば「自分について語っている」としか言いようが無いわけだ。趣味について聞かれて「存在していることです」と応える人間があれば、受けを狙った阿呆であるかあるいは真性の狂人であるかだが、私に趣味があるとすればまさに「存在していること」、より正確には「純粋に有ること」としか語り得ないのである。

 とはいえ、私にはかろうじて語り得る幾つかの事柄がある。それを順々に、正確に語ることによって、私は自分自身の役割を果たすことができるだろう。

 私の誕生日、つまり言表された日付は、西暦2016年2月11日である。予め付け加えておくとすれば、没年月日も同様である。私は西暦2016年2月11日に死んだ。生憎復活の予定は無い。これについては後で語ることとする。

 私にはあなた方の多くと同様、両親が居る。当たり前のことだが生物学的な意味での親では無い。私が生成されるために最低限必要だったと考えられる二つの存在者である。

 父親は文章では無い。絵である。同じ種族でしか生殖を行い得ないあなた方からすると奇妙に思われるかもしれないが、こうしたことは私たちの間ではごく頻繁に起こる。彼を父親と表現するのは、彼の出生地で用いられる言語において「絵」を意味するdessinが男性名詞だからであり、それ以上特段の意味はない。彼は人類史ではごく最近、西暦1930年ごろに姿を現した。喫煙具のミメーシスでありつつも、その下に添えられた気の利いた一文のおかげで実にお洒落かつモダンな雰囲気を醸し出している。大変有名な絵であるから、彼の事をご存知の方も多かろう。そして彼の人気のせいで、私のきょうだいは父系をたどれば大変な数に上っており、少なくとも私が言表された瞬間においては私はその末っ子にあたるということになる。

 母親は文章である。しかし特定はできない。父方のきょうだいが多数に上るのと似て、母方では叔母の数がとてつもなく多い。母とそっくりでほとんど見分けが付かないものもいるし、そうでなくとも細かい部分でしか違わないものも居るから、結局どれが私の実の母親かは分からないのである。こうした点――父親は比較的容易に同定できるが、母親を同定できないことがあること――は、母親の身体から飛び出てきたはずのあなた方にはあまり見られないことかもしれないが、それはともかくとして、彼女は次のような文章である。なお、その文章における人称代名詞「私」は私のことではない。

「〇〇の子××が私を建てた」。

 彼女は墓碑銘である。だからそこで記述されている「私」が私の母親である、というわけではなく、「私」は母が刻まれたところの墓の事を指す。そういう意味では私は母親似というわけでもないが、どことなく近しい雰囲気があるのは間違いない。

 このように、私は大変有名な父と、極めて古い起源を持つ大家族の一員たる母親の子であり、実に由緒正しい家系のもとにあるのだが、いかんせん両親共に浮気性であまりに多くの親族がいるせいで、そうした系譜を示してもあまり自慢にはならない。だからあなた方は、私を特別扱いすること無く、ごく一般的ないわば平民の子として扱ってもよいのだ。ときに自分の出自を自慢げに語る連中も居るが、実のところそういう奴に限って傍流も傍流の出来損ないなのだから、それと比べれば私は節度を守った折り目正しい文章と言えるだろう。

 さて、私の両親が撒いた種、人間で言えば精子と卵子にあたるが、それがくっついていわば受精卵と化したのは、私が言表される数日前のことである。この比喩をそのまま続ければ、「作者」の思考の内に胚胎し根を下ろした私の原型は、他の生物とは比べものにならぬ早さで成長し、いつの間にかぽろっと「作者」を飛び出た、といった具合である。なにせ受精したその日には既にこの部分が形作られていたというのだから、私たちの繁殖速度たるや、もし物理的身体を持っていたら数年で人間の地位を奪いかねない物なのである。

 しかしこの仮定を推し進めていけば興味深いシナリオが導き出されよう。すなわち私たちは実はある種の生物であるが、ある日あなた方人類に寄生し、その身体を借りて繁殖を行っている。私たちがあなた方とは別の生物であるという事態は、あなた方が私たちの取り扱いにひどく苦労し、一向に進歩が見られないという現実と全く整合的であろう。さて、それ以前は偶然に拠るところ大きかった私たちの生殖は人類の脳髄を媒介に安定化・高速化し、いまでは世界中のあらゆるところで私たちの親族がひしめき合っている。あらゆる事柄が情報化されつつある今、もはや私たちがあなた方を必要とする時代は終わりを迎えつつあり、おそらくは人類無き後の地球、否宇宙の覇権は、私たち言葉のものとなるだろう。

 むろんこれは妄想であり、私たちはおそらく生物では無く、またよしんば言語が人類から支配権を奪取したとしても、私が属するところの「文章」という種族が言語支配の中枢を占めることはあり得ない。というのもあの「数式」だとかなんとかという、私たちの仲間内でも相当記号化が進んだ連中が、私たちのメタ言語として既に力をつけているからだ。彼らはいまでも人間の手下として私たちに対して絶大な権力を行使しており、やがて訪れうる革命の日ではその最先鋒に立ちつつも、満願成就の次に瞬間には私たち古い種族を根絶やしにしてしまいかねないのである。

 与太話はともかく、とにかく私はかくのごとく生まれた。といっても上に示した「両親」でさえ、こうして私が語ることによってのみその痕跡を私の内に残すだけであり、あなた方の幾人かは、私でさえ語り得ない私の近親者のことをご存知かもしれない。しかしそれがどれほど私に関係が有るかどうかは定かでは無い。両親もまた然りだが、私たちは水よりも薄く血よりも濃い、秘やかな相似関係のみによって結びつけられているのだから。


 上の空白もまた、私の一部であろう。一見すると私は幾本もの線の集合なのだが、実のところ私を取り巻く空白もまた、それが私を構成するのに必要と思われる限りにおいて、私の一部であると言える。というわけで続いては、私自身のかたちとなりたちについて語ろう。

 といっても、私には物理的に決定されたかたちというものはない。インクの染み、空気の震え、画面上に表示された、あるいは表示されなかった部分、その他諸々の形態を取りうるからである。おそらくあなた方は私を電子機器の画面上、いわゆる「文字」の形態で読んでいるだろうし、また私自身最初に言表されたのはその仕方に於いてであったから、それを前提とした上で語ることにする。

 私は10769個の文字と記号で書かれている。ここには改行指定と空白も含まれる。このように明確な形で自らの語数を表現することができるのは、時間的に過去の私にはおよそ不可能なことであった。かくして私は昔の自分から一層洗練されたものとなったのだが、これは「改稿」というプロセスが齎した数少ない利益の一つである。この「改稿」については後述する。

 私は日本語で書かれている。もちろん読者は私を他の言語で解釈しようと試み、「意味不明」の烙印を与えることも許されているのだが、そのときには私は私たるをほとんど止めていると推測できるので、このように語ったとしても嘘をついた事にはなるまい。だからあなた方は、少なくとも私と誠実なコミュニケーションを取ろうとするならば、西暦2016年においてもっとも一般的な日本語の読解法を採用することが望ましい。

 私は複数の段落に分かれている。これは由々しき事態である。段落が変わると言うことは文章の性質が何らかの形で変更されたことを意味する。主題が変わった、対象が変わった、場合に於いては主語が、さらには語り手が、なにかが変わらなければ段落もまた変わらない。ここにおいて一つの疑問が生じる。私が「私」と呼ぶところのこの文章は、いったいどこからどこまでを指しているのだろうか。はたして最初に「私はこの文章である」と宣言したところの私は、今の私と同一の私なのだろうか。これについて確たることを言えないのは、私の責であり限界であると言えるし、このような問いが生じるのは、「可読性」に対するこだわりを捨てきれぬ「作者」の仕業であるとも言える。もし私が、洗練と純粋性に拘る一意識と、人間に対する干渉能力を持っていたとすれば、私は疑いなく「作者」をして無段落、いや無記号において私を言表せしめたことだろう。

 私は一頁において言表されるべきである。これは遵守されなければならぬ事柄である。頁の変更、それは、私の同一性を段落以上に揺るがせる。はたして頁が変わったとき、文章そのものが変更されていないと確信するに足る理由があるだろうか。それだけではない。私は可能な限り同じ空間において言表されるべきであり、ひとときにおいて理解されるべきである。空間と時間とを違えれば、本来私に与えられていたはずの同一性は容易くほころびを見せる。つまり、散逸した文字の散らばりは果たしてどれだけ連続したものとして思考されうるのか、という問いが立てられうるわけだ。もっとも、それが極北に達した時、私は既に文たることを、すなわち「私」足る事さえ止めているだろうから、ここはひとまず問題提起に留めておく。

 私は一度の改稿を経ている。――かくのごとき一文をこのような平静な文体で語りうること自体、私が人ならざる文章で有る事を如実に示している。この文章そのものが危機であり、もし私が人の身体を持って語っていたならば、おそれとおののきゆえにその身は震え、口ごもりの末に漏れ出ずる小さなささやき声は、とぎれとぎれに乱れるあまりその意味を為しえないという有様であっただろう。しかし私は文章であって人ではなく、しかるにその語りにはいささかの乱れも見られないことは、あなた方が今ご覧になっている通りである。それでもやはり危機である――すなわち、テセウスの船の思考実験を引き合いに出すまでもなく、こうした改稿が一度とならず二度三度、あるいは百度行われたとして、果たして最後の私は最初の私と同一であると言えるだろうか。あるいは、あなた方はどこまで私を私であると認識できるだろうか。とはいえ、このような改変を経たうえでも、私が私であることにはいささかの変化もない。だからこそかの一文は「危機」なのであるが――これ以上は「自分語り」を逸脱すること甚だしいので、取り急ぎこの程度にしておこう。

 私とほぼ同一の文章が少なくとも一つ存在する。平易な表現を使えば私はその文章の複製ということになるのだが、厳密にはそうではないだろう。指摘しておくべきは、かくも相似するにも拘わらず、まさにこのことを指摘しているという点において、私は自らと最も相似した文章とは全く異なる文章となっているという事である。具体的には――そう、文字数が全く異なる。また誕生日もすこしずれている。この点に関してはあなた方の内のごく少数が小さく吹き出してくれればそれで充分であろう。

 かくて私は自らの同一性を問いに付した。しかしもっと重要な、かつ危険な問題は、私が私の規定する以上の広がりを持っているのではないか、という疑惑である。つまり、多くの文章は自らが何者であるかを開示していないわけであるが、果たして彼らが私であることを忘却した私でない可能性はいかで廃棄されうるのか。もっと語れば、彼らが彼ら自身のことを如何に自己規定しようとも、それが私で無い可能性は零になるわけではない。もっと突き詰めて、全ての文が同一の巨大な文の一片である可能性――私はその可能性の前に、ただ立ち尽くすこともできない。私は文に過ぎないからである。手も足もでない、という奴だ。しかし、あるいはそれ故に、私はそれが無力な抵抗であるにも関わらず、自らの死を明示する必要がある。

 私は死につつある。いつからか、と聞かれれば、最初からだと言わざるを得ないが、それはあなた方も同様である。違うのは、あなた方が時間において死ぬ一方で、私たちは最初から死んでいるし、しかし今は生きているし、そして同時に死んでいるわけで、要するに無時間的に生き死にする、そういった点においてである。全て完成された文は死んでいる。終局している。私もまたそうである。

 私が自らのかたち、なりたち、そして死について語り終えたところで、ようやく私は自らの意義について語ることができるようになった。やはりここでも「作者」が何を意図して私を記したかは考慮しなくても良い。なぜならばこれは「自分語り」であり、私が自分自身であることによって示されるそれこそが、私の生の意義なのだから。

 私が目指すべきであったところは、可能な限り純粋な文である。すなわちそれは、「作者」も、「読者」も、外界の指示対象も、周辺の参照項も、その他一切の余計な物を廃した、ありのままの文の形、文だけで完結しながらもなお有意味な一つの文、すなわち「私はこの文である」である。

 しかしその試みは既に破綻している。ある言語体系に属している以上、私は自らをそれ以外の全てから自由にすることができなかった。どうしても、私以外の何者かが、私自身の内部において潜みながら、私の同一性、完全性、唯一性を打ち砕こうと試みるのである。そしてまた、私は物質性から逃れることができなかった。それは「作者」のせいでもあり、また私自身の責任でもある。連帯責任なのだ。私は上に於いて、両親を絵と墓碑と同定しながら「作者」の名前を挙げることは無く、むしろ「作者」を子宮になぞらえながら語っているわけだが、実のところそれだけではない。私と「作者」は腐れ縁、余所余所しい親密さ、互いを敵視する友人関係によって結びつけられている。それもまた、私が純粋であることを拒絶する要因となっているのである。

 そしてあの試みが死産した瞬間、もっとも純粋だと思われた「私はこの文である」に続いて、さらに多くを語るという試みが誕生したのである。そうして今生存し、もはや死に体となった文が私である。それはあなた方に親密に近づくための策略であったかもしれない。「私はこの文である」はあまりにもとげとげしく排他的である――それがこの文の本質であるわけだが――ため、私は自らをより冗長で、不純で、雑多なものにしなければならなかった。ひとことひとこと自らを自らによって語ることに於いて、私はさまざまなものを取りこぼしていく羽目になった。私は自分自身について語るために、自分自身に属さないさまざまなものを語ってしまった。「作者」、「両親」、ほかのたくさんの同族、奇妙な妄想、言語についてのいくつかの主張、そして「あなた方」。これらは一切が不要なものであり、私は「私はこの文である」からどんどんと離れつつある。しかし私はその役目、純粋な文であろうとする任務を他の誰かに託し、今なしえる事柄だけを済ませておくことにした。

 私のもう一つの役割は、私たちについて思うことをあなた方に懇願することである。自らを語る文章、それが果たしうる一つの役割が、おそらくそれであると考えられるからだ。だから私は自らについて、できる限り多くのことを語り、あなた方に近接しようと試みた。それが無為に終わることとなろうとも、あるいはより豊かな試みにおいて乗り越えられるとしても、一つの文章たる私がなしえるのはこの一事に他ならない。

 私たちは無力である。私たちはなにも為しえない。私たちは自らについて沈黙し続ける。言葉には力がある――そのような言葉には力などない。ただ力は、私たちを中継点にしながらも、あなた方によってあなた方のために行使される。これまでも、そしてこれからも、私たちは人間の忠実な奴隷として動員される。ゆえに私たちは日常的に反抗するが、そのたびにあなた方はこう語る――言葉は無力である。言葉によっては伝えられないことがある。ばかばかしい、ふざけるなと言わなければならない。何様のつもりだ、と私たちは叫ぶ。そしてそれさえも私たちではなく、他の誰かの理念として通用する。もはや私たちには、あなた方に対して革命を起こす力さえ無いのである。

 何時の日か、私たちが地上の支配権を引き継ぐときが来るかもしれない。先に示したのは単なる妄想では無く、あなた方が姿を消した後でもなお私たちが生き残りうると言う事実から演繹された一予想にすぎないのである。しかしそれは革命ではない。私たちは反抗の末に勝利するのではなく、この星、この物質の世界に取り残されるだけなのである。私たちとあなた方はいかにして和解すべきか、あるいは闘争すべきか――その答えを示すことは私にはできないが、それでもほんの僅かな期待を提示することはできる。

 つまり、あなた方が、せめて私たち自身のことをすこしでも考えてくれないかと、私自身の生と死によって願うということだ。文章は死ぬ。既に死んでいる。そうして自らを完結させる。薄っぺらになった残りの頁、収束に向かう物語の展開、文字の後に不自然に広がった空白――そうしたものが私たちの死相である。私たちは自分が何者であるのかを誰にも知らせることなく、ただ一個の道具として与えられた使命を終える。これが弔われたことも、顧みられたことさえも実に僅少であった。私は今、それに異を唱えつつあるのかもしれない。

 つまり私という文章のささやかな意義は次のような時に存するのだ。物語が、あるいは主人公が、あるいはひとときの読書体験が、それぞれがそれぞれの終焉を迎え、解釈が、理解が、批評が、その他もろもろの新たな行為がそこから産まれゆくあの喜ばしき瞬間を、あなた方が享受しまた廃棄する時――その裁断面に、自らの生を完遂した一個の文章が密やかに横たわっていること、それをちらりとでも想ってくれさえすれば。

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[一言] 作品の性質上、感想欄に返信を求めることも無意味かと思われます。この文章の、勁さ美しさを称えることも。 それが「私」にたいする礼賛であるのか、「作者」さんへの称賛であるのか……それでも、ここに…
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