かったるいよ、オジサンマン
子供の頃、公園で男の子達からいじめられていたわたしを、オジサンマンが助けてくれた。大いに感謝をしたわたしが「ありがとう」とお礼を言うと、オジサンマンはとても嬉しそうな表情を見せて、「おじさんは正義のヒーローのオジサンマンなんだ。困った事があったら、何でも言うといいよ」とそんな事を言った。そしてそれからわたしにお菓子とかオモチャだとかを買ってくれた。
まだ小さかったわたしは、それに大はしゃぎをした。
ただ、その結末はなんとも切ないもので、オジサンマンは不審者として通報されて警察から注意を受けてしまったのだ。そして、それからは一度もオジサンマンはわたしの前に現れなかった。
“オジサンマンはわたしを助けてくれたのに”と、申し訳ないような憐れに思うようななんとも言えない気持ちになったのをわたしは覚えている。わたしはオジサンマンに何もお返しができなかった。
ただ、今その出来事を思い返してみるのなら、オジサンマンは少しはわたしのお蔭で救われたのじゃないかとも思う。
あの人はスーツを着ていたが、どうも会社には行っていないようだった。クビになったのを家族に言えないでそこらをフラフラとしていたのかもしれないし、会社で辛い事があってサボっていたのかもしない。または何か他に事情があったのかもしれないが、いずれにしろわたしの「ありがとう」という言葉で癒されたのだろうと思う。多分だから、テンションが上がって「おじさんは正義のヒーローのオジサンマンなんだ」なんて、恥ずかしい台詞をつい言ってしまったのだろう。
どうしてわたしがそのオジサンマンを思い返して、尚且つそんな風に彼の事を考えたのかというと、それは今目の前にその時のオジサンマンみたいなおじさんがいるからだった。
ママと少しばかり喧嘩した事もあって、不安と苛立ちで半ば自棄気味になっていたわたしは、援助交際でもしてやろうと思って勢いでそのおじさんに声をかけた。「お金さえあれば」とずっと思っていたからだ。おじさんはそれに応じかけたのだが、事はスムーズには進まなかった。しばらく話しておじさんは何かを思い直したらしく、こんな事を尋ねて来たのだ。
「どうして、君みたいな子がこんな事をやろうと思ったんだい?」
そのおじさんの外見は小太りでふっくらとしていて、いかにもお人好しに見えた。女子高生を買おうって人の言う台詞には思えなかったけど、どうしておじさんがそんな事を言ったのかは大体は察しがつく。
カッコ悪い話なのだけど、わたしは身体を売る事を怖がっていたのだ。「どうにでもなれ」って半ば自棄気味でやろとしたけど、おじさんに声をかけてから怖気づいてしまった。おじさんはわたしのそんな様子に気付いて、同情してくれたのだろう。
わたしはそれからそのおじさんに、わたしの事情を語った。するとおじさんはわたしの話を聞いてやや涙ぐみ、それから「なるほど。話は分かったよ」とそう言い、財布から三万円ほど取り出すと「これは少ないけど、何かの足しにしなさい」と言ってそれをわたしに手渡して来た。
「わたしは乞食じゃない。プライドがあるんだ!」
……などとわたしが言うはずもなく、わたしはありがたくそれを受け取った。
或いはわたしが今ほどやさぐれていなかったなら、わたしはこのおじさんにもっと感謝をして、それこそ子供の頃のオジサンマンの時みたいに、ヒーローが現れたくらいに思っていたかもしれない。優しい男親に憧れるという一面が、わたしにはあったから。
だが、生憎、今のわたしはそんなに純粋じゃない。
“ああ、この人はいい人ぶって、自己満足しているんだな”
と、それを受けてそんな風に考えた。
きっと、わたしを助ける事で、このおじさん自身も救われているのだろう。情けない、悲しいヒーローのオジサンマン。
もし、そこで何もなかったら、それはそれでお終いだったかもしれない。しかし、そこでわたし達は声をかけられたのだった。
「君達、何をやっているのかな?」
それは警察官だった。
それからわたし達は派出所に連れて行かれた。そしてずっと尋問なんだか説教なんだか分からない叱責を受けている。はっきりいってかったるい。さっさと解放して欲しい。わたしとしては、別にママに伝えられても学校に伝えられても良いと思っているのだ。いや、むしろ、伝えてもらった方が少しはママもわたしの気持ちを分かってくれそうな気がする。ただ、おじさんはすっかり委縮してしまい、青い顔で黙って警察官の言葉を聞いていた。
“みんなのヒーロー、オジサンマン。絶体絶命のピンチです”
それを見て、わたしは心の中でそう呟いた。
声をかけたのはわたしの方なのに、わたしが被害者でおじさんが加害者という事になるらしい。なんだか理不尽な気がした。やっぱりあの時のオジサンマンみたい。
途中で思い直したとはいえ、おじさんが少女を金で買おうとしたのは事実だ。わたしが言えた義理ではないが、或いは罰を受けるべきなのかもしれない。
そうも思った。
ただ、おじさんがわたしに同情をし、わたしを助けてくれようとしたのもまた事実だ。このまま見捨てるのも忍びない。たったこれだけの事で、おじさんは大きく社会的信用を失ってしまうのだ。
わたしはおじさんにアイコンタクトを取る。“安心して”と。それまでは半ば意図的に不機嫌な顔をしていたのだが、演技で真摯かつ悲しそうな表情を作ると、わたしは警察官に向けてこう言った。
「どうか、ちゃんと聞いてください。わたし達は売春なんかやってないんです」
それでおじさんに説教をしていた警察官のターゲットがわたしに移った。わたしの表情がさっきまでと違う事には気付いてくれたようだ。
「まだそんな事を言っているのかい? この男が君に金を渡しているのを私は見ているのだぞ?」
「それはおじさんがわたしの境遇に同情してくれただけです。おじさんがいかにもお人好しに見えたから、事情を話せば助けてくれるってわたしは思ったんです。もしもそれが悪い事だって言うのなら、おじさんの良心につけ込んだわたしが悪いんです。どうかおじさんを責めないでください」
その健気な物言いに、警察官の表情が少し和らいだのが分かった。幸いこの警察官も人が良さそうだ。多分、“こんな良い子が、売春なんかするだろうか?”と疑問に思っているのじゃないかと思う。
「君の境遇って何だい?」
来た!とわたしは思う。わたしは悲しそうな目をしながら顔を伏せると、「うち、母子家庭なんです。それでお金がないんです」とそう告げる。警察官はそれを聞くと「だからって……」とそう言おうとした。それを遮ってわたしはこう続ける。
「わたしは少しでも家計を助けようとアルバイトをしています。もちろん、自分のお小遣いも自分で稼いでいます。
でも、ママがアルバイトはやめろって言うんです。大学受験の為に勉強に専念しろって。ママはわたしが大学に進むのを夢見ているんです。大学を出て、学歴を得れば、真っ当な就職口があるって考えているみたいで。もちろん、その為には学費が必要です。それで今でも仕事を二つも抱えているのに、ママはもう一つ増やすつもりらしいんです。このままじゃ、ママは身体を壊しちゃう!
わたしはそんなの無理だから、高校を卒業したら働くって言っているんですが、ママは反対みたいで……」
この話は半分は本当だけど、半分は嘘だ。わたしは大学受験の為の勉強なんかしたくないと思っている。
だって、どうせ勉強なんかしたって……
「いや、辛いのは分かるが、奨学金制度だってあるし」
警察官がそう言った。論点がずれている事には気付いていないようだ。わたしは即座にそれに返す。
「甘いです。女の境遇がどれだけ悪いか警官さんは分かっていません。奨学金制度で借金を背負っても、良い就職口を見つけられれば返せるって思うでしょう? ところがそう思ってがんばって勉強して学校を卒業しても正社員にすらなれないケースが多いんです。特に女性の場合は。
女性は労働市場で差別を受けているんですよ。入社試験で成績が良い女性を落として、成績が悪い男性を無理に入社させるなんて話もあるくらいなんです。
でも、ママはその現実を分かってないんですよ」
辛い思いをして勉強をしても、どうせ貧乏が変わらないなら、わたしはそんなかったるい事はしたくない。
ママは文字通り“夢を見ている”だけなのだ。学歴を手に入れた程度じゃ、きっと生活は改善しないと思う。
「なんで、国がこういう女性差別を是正しないのか不思議だったんですが、なんか政治家の一部は“女性が働きに出て高い給料を貰うようになると、結婚をしなくなる”ってどうもそんな事を考えているみたいなんですよ。つまり、生活を困窮させて、女を結婚に追い込もうとしているんです」
それを聞くと、警察官はこんな事を言った。
「いや確かに酷い話だとは思うけど、なら、その通りに良い結婚相手を見つければ良いじゃないか。意地になっても仕方ないだろう?」
「良い結婚相手?」
私はそれを聞くと、警察官の事を冷たい目で睨んでやった。警察官はそれに竦む。
「良い結婚相手なんて、そんなに簡単に見つかると思っているんですか? 高収入の男は倍率が高い。貧乏な相手とだったら結局、共働きしても生活の質は改善しない上に家事労働まで全てさせられるんですよ?
今の日本の男のほとんどは家事をしないんです!
更に下手すれば相手の親の介護までしないといけなくなるかもしれない。しかも、相手が優しいとは限らないじゃないですか! 男って収入の少ない女性を低く見る傾向があるって調査結果が出ているんです!」
警察官はそれを聞くと怯えたような口調でこう返した。
「いや、なにもそんなに決めつけなくても良いじゃないか。世の中には良い男性もたくさんいるよ……」
わたしはその言葉に内心で笑った。わたしはそんな台詞をこの警察官から引き出したかったからだ。
「そんなの信用できません」
「どうして?」
――ここだ、とわたしは思う。
それは。
「それは、わたしの父親が、家庭内暴力を振るう人間だったからです」
警察官はそれで黙った。
「わたしとママは毎日、あの人の暴力に怯えていました。わたしが殴られそうになると、ママがわたしを庇って代わりに殴られたりもしていました。だから、ママは離婚して母子家庭になったんです。
しかもあの人は、離婚後もママに執着をしてしばらくはストーカーみたいに付き纏っていました。次の犠牲者……、つまり女性を見つけてようやく来なくなりましたが、今でもわたし達は恐くて仕方ないんです」
その言葉が止めだった。
警察官はそれから「分かった。君が酷い境遇だという事はよく分かった。しかし、悪いが、だからって君が援助交際をしていない証拠にはならないんだよ」とそう言ったが、わたしが「証拠ならありますよ。わたし処女ですから。確かめてみます?」とそう返すと「信用しないとは言ってない」とそう慌てて言ってきた。
「まぁ、なんだ。これからはそんな誤解を生むような行動は執らないように」
そして、そう続ける。
私はその言葉を聞くとホッと胸を撫で下ろした。泣き落としたのか脅したのかよく分からないけど、とにかく、強引な方法でなんとか上手く説得できた。
ただし、「やっぱり、金銭取引があると見逃す訳にはいかないからお金は返しなさい」という事らしく、おじさんから貰った三万円はわたしには入って来なかった。派出所を出た後で、こっそり貰おうかとも思ったけど、おじさんはすっかり委縮してしまっていたのでそれも諦めた。
家に帰るとママの置手紙があった。
「夕食美味しかった。ごちそうさま」
そこにはそう書かれてあった。まるで喧嘩した事を忘れているかのようだ。もっともそういうわたしも、しっかりとママの分の夕食を作っていた訳だが。
それからわたしはベッドの上に転がった。
明日の事を思うと、不安で堪らず本当にかったるかった。これだけ時間をかけて、ほんの少しも稼げなかったし。
「かったるいよ、オジサンマン」
それからわたしは、救いを求めるようにそう呟いた。もちろん、正義のヒーローが助けに来てくれるなんて事は少しもまったく起こらなかった。
参考文献:
『「居場所」のない男、「時間」がない女 著者 水無田気流 日本経済新聞出版社』
『ジェンダーの心理学ハンドブック 著者 青野 篤子 ナカニシヤ出版』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm27584797
↑で女の子の歌を作ったのですが、その女の子を主人公にこの小説を書いてみました。