37 シンプルイズベスト
「・・・ただいま」
上原圭一はドアをゆっくりと開けてまず顔だけ中に入れた。
一応声は出しては見たものの、きっと誰もいないだろうとは思っていた。
『今夜は帰らないかもしれません』
きっぱり言い切った日浦は今まで見たこともないようなきりりとした顔つきをしていて、なんだコイツこんな顔も出来るんじゃん、と改めて見直したっていうかもっと言えば惚れ直したというか、んまぁそんなところだったんだけれど。
ああまで言ったんだから、どんな状況になっていようと今夜はここに戻ってきてないよな。
上原がそう思って、真っ暗闇の玄関に一歩踏み入れたらカツンと何かにぶつかった。
いや、ここでぶつかるって言ったら靴だろうな。
何度もここに足を踏み入れたけれど、今までこんな風につっかえたことなんかなかったぞ、と思って足元を見ると、ぼんやりと霞んではいるけれど絶対に章吾の持ち物じゃないワークブーツがそこにあった。
「誰の?」
ふいに思い出したのは店で見た梶原理紗子の足元で、そういえば彼女はデザイナーズもののようなハーフブーツを履いていた。まさか章吾、お泊りじゃなくてお持ち帰りかよ、といやーな予感が頭を過ぎって、それじゃここに帰ってきた俺ってば間抜けもいいとこじゃん、そう考えながら目を凝らしてみる。
あのブーツはヒールが若干あったよな。
でも、それとは全然様子が違う。
まるで男物だよこれ、そう考え付いてからが早かった。
バタバタッと深夜だということを忘れたように部屋に上がりこむと、スタン、と音を立てて奥の八畳間に続く引き戸を開けた。部屋の明かりはいつも真っ暗にしないと寝付かないはずの日浦が、今は淡いオレンジの常夜灯をつけているのに驚いて、やっぱりあの女かよ、と一瞬ムッとする。
だったら電話の1本でもよこせよ、と言いたいのを我慢して、じゃあその顔でも拝んでやろうかとベッドに近寄ってみて今度こそ本当の本当に驚いた。
「・・・・・なんで、荒木さん?」
寝顔だって見間違うはずのない、ひどく端正な顔がそこにあった。
「おはようございま・・・す」
なんとなく気後れしながら会社にやってきたのは、昨夜のことが頭にあったからといつもと違う明るさでなかなか寝付けなかったからと、やっぱり主任と顔を合わせるのが気恥ずかしいからで、しかも最後はとんでもない別れ方をしていったい僕はどんな顔をしてたらいいのかと鬱々としていたからだ。
いや、嬉しさから来るウキウキも半分はあるけど。
半分以上か?
「おはようございます」
ニコッと笑って早速コーヒーを淹れようと美奈ちゃんが立ち上がったところに、「日浦」と名前を呼ばれた。
「はいっ」
自分のデスクに鞄を置いて、顔を上げたところで主任をばっちり目があった。
「月曜の資料、もう一回揃えて会議室に来てくれる?」
怒ってるって顔じゃないのはさすがに仕事中だからか、いつもながらのシンプルイズベストなスタイルでそう手短に指示を出すと、佐々木先輩に何か言いながら企画室を出て行った。
「かっこいいわよねぇ」
オフィス用のプラカップでコーヒーを持ってきてくれた美奈ちゃんが、主任の後姿を見ながら溜め息をついた。
「あの人の彼氏って、いったいどんな人かしらねぇ」
ほう、とお盆を胸に抱えながら言うのに僕はもう少しでコーヒーをブッと噴出すところだった。
あの、僕です。
なんて言えないっての、まだまだ。
主任の今日のいでたちは細身のストライプが入ったチャコールグレイのパンツに白のカッターシャツ、その上にオフホワイトのロングカーディガンを羽織っているのはこの先流行すると言われている甘辛系ファッションの見本のよう。捲り上げた袖から覗く、腕に嵌めている大き目のクロノグラフウォッチまでビシッと決まって、自社のカタログからそのまま出てきたと言っても過言じゃない。
それに比べて僕はどう見てもかっこいいとは言えないよなぁ。
ホントにこんなのであの人の隣に立てるのか、と昨日の今日でまたもや心配になってきた僕は、「いやいやいや」と頭を横に振った。
気持ちを伝えるのが大事。そう、それが一番。
誰がなんと言っても主任は僕のことが好きだって僕はわかってるもん、で僕は。
僕は主任が好き。
「えっと、じゃあパターン表貸してくれる?」
熱いコーヒーを頑張って一気に飲み干すと、月曜日に使った資料をもう一度ファイルに揃えていく。
さっきの主任の後姿を見て、そう思った。僕は主任が好き、それで今は仕事中。
甘いこと考えてないで、しっかり仕事しなさい。そう言われたようだった。
必要な書類を確認しながら、でもデザイン画はコピーを荒木さんが持って行ってるし、写植に必要なコピーはもともとの構成を変えていくことになったからそれは金曜日の会議待ちじゃないのかな?と、なんかおかしいなと思いながら、それでももしかしたらデザイン構成に必要な布地サンプルがいるってことなのかも、と思いついてパターン表を持っていくことにした。
「失礼します」
コンコン、とノックしてから入った会議室。返事がないからドアを開けて、振り返ったその顔を主任の手が覆った。
「しゅ・・・・・」
え。
ん、と息を呑んでから、僕は持っていた資料をドサドサッと足元に落とした。
しっかりブラインドが下ろされている室内で、僕は会議室のドアに押さえつけられながら、柔らかい唇を押し付けられていた。