33 恋にオチテ
なんだかすごく怒っているように見えた主任は、僕の前に来るとほっとしたような顔になって言った。
「日・・・章吾、帰りましょ」
「あら、もう?」
振り返った涼子さんが意外そうな声を上げると、そちらにはキッと目を向けて、
「私がここに来ればお話は済んだのでしょう?」
だったらもう用事は無いはずですわ。
そう言ってにっこりと笑った主任の目は、全然笑っていなかった。
「・・・どうかしたんですか」
「いや、別に」
するりと傍にやってきた先輩に訊くと、普段と同じ賺した調子で返された。なんか変だよな、と思うのはこっちに帰ってきてから主任と先輩が全然目どころか顔すら合わせないし、先輩はなぜだか僕の背後にピッタリとくっついて離れない所為で。
どうもおかしな感じがする、と訝しんでいたらいきなり主任が僕の腕をぎゅっと引っ張って、その拍子に僕は椅子から転げ落ちそうになった。
「わっ」
「・・・っと、危ないなぁ」
あっと思った次の瞬間には、僕は先輩の腕の中にいた。右手は主任に取られたまま、背中を先輩に抱えられてるって感じで僕を挟んで二人がにらみ合っていた。
・・・・・なんで?
なんか話があるって言ってたけれど、それがこの状況を作ってるのか?
よくわかんないな、そう思って後ろの先輩の顔を見上げようとした時、主任の手からふっと力が抜けたような気がした。
顔を見ると、なんだか戸惑っているように見える。
どうしたの、主任。
「あ、だいじょう・・・ぶ?」
「ごめんなさい」
はっとしたように、主任は手を離した。
僕はその表情が気になって大丈夫と聞いたつもりだったのに、主任は僕にすごく悪いことでもしたような顔になって、腕を掴んでいた手をじっと開いたまま見つめていた。
なんだか、それがどうにも。
幼く見えてしまった。
今すぐに抱きしめたいほど。
それまで僕が見ていた主任はバリバリ仕事が出来て、そりゃそん所そこらの男なんて相手にならなくって、だから僕も外から眺めてるだけでいいやとかって思ってるところがあって、涼子さんの言うとおり、見た目にあこがれてるだけで。
でも不意に見せられる僕の「思った通りじゃない」主任、一晩一緒に過ごした土曜の夜とか次の日曜の朝とか、そして今目の前で立っている主任のそこにどうしても惹かれて、そう、惹かれて。
昨日、なんだかわからない想いを掴みたいと思っていたときに、僕の心に落ちて来たのは好きって言う言葉だったけれど。
今僕の内に堕ちてきたのは、紛れもない『恋』だ。
「帰りましょう」
僕はその手を掴んで言った。
「・・・え?」
「先輩、今日はごちそうさまでした」
「おい・・・もう帰るのか」
支えてくれた背中を離して僕が両足で立ち上がると、今度は先輩が僕の手を取って引き寄せようとした。なんだか取り合いでもされてるような感じになって、でもそれはただ椅子から落ちた僕を心配してくれてるだけ、そう思って「大丈夫ですよ」と声を掛けた。
僕の左手はしっかり主任の手を掴んでる、それさえ分かってればあとはもう、なんとかなるって。
じゃあ、と言って店を出て行こうとすると、先輩が僕たち二人を追いかけるようにして言ってきた。
「俺、今日は早く上がるからさ。明日の朝飯は期待しとけよ」
どうしてここで明日の朝の事なんか、と思って立ち止まると、主任が不安そうな顔をして僕を見上げてきた。
何があったのか知らないけれど、先輩と主任の間になにかあったのはもう明白で。僕はどっちに答えるのか、そう聞かれているような状況なんだ、そう感じた。
うーんと。
ちょっとだけ考えて涼子さんの方をチラリと見る。鮮やかに笑った涼子さんは、ぐっと親指を突き出した。
その人が好きだって言うんなら、頑張んなさい。
母親にそう言われたみたいだった。
「あの」
先輩の目を見ながら、僕は言った。
「今夜は帰んないかもしれないんで、ちゃんと戸締りしてくださいね」
え、っと驚いた主任を、僕はそのまま引っ張っていった。